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著作(はじめに) [霊的存在]

昨年10月に著作を出してから半年が経ちました。
反応は惨憺たるものでした。
まあ予想通りと言ってしまえばそれまでですが、今の世をそのまま反映しているということでしょう。
それでも私には「理性による信仰を促す」という責務があるので、出来るだけ多くの人にその精神を知ってもらおうと思うのです。
そこで、著作から切り取って何回かに分けて紹介しようと思います。
このブログと被るところがあるかもしれませんが、ご容赦ください。

【以下本文】

はじめに

世の中には、覚醒している人が説く高次元の世界やその存在を、何の疑いもなく信じる人がいる。
でも、本当に確信を持っているのだろうか?
と言うのも、覚者の境地とそうでない人との間には、明らかに溝があると思うからだ。
実際、覚者の表現には、常人にとってかなりの飛躍があり、とてもそのまま理解できるはずはない。
それに、これだけ自然科学的世界観に染まった現代人が「疑い」を持たないなど、私には想像できない。
だいいち、そのような非日常的な世界を疑いなく信じることができるなどという人が、この物質文明に塗れた世の中で日常的な生活ができるとは到底思えないのだ。【註1】
その手の人の「信じる」とは「願望」や「賭け」と何も変わらない。
事実、私の周りにいる「疑いなく信じることができる人たち」の中に、自分の疑いを願望で無理やり掻き消して賭けにしている盲信者がたくさんいる。

たとえば、経典の中で、お釈迦様が、「この宇宙には何千という星に人が住んでいる」と言っても、あるいは、覚者が、「霊界の上の方では、自分と他が一体で皆繋がっている」と言っても、地上に住む普通の人間は、正直まず、「へえ、そうなのかねえ」とぐらいしか思わないだろう。
そのままでは受け入れられないのが当然だ。
むしろ、そのほうが健全だ。
それもそのはず、感覚の目では捉えられないからだ。
それでも否定せず受け入れる人というのは、大概、「覚者がそう言っているんだから」とか、「面白そうだから」というのが大きな理由だろう。
まあそれでもいいと思う。
でも、もっと真摯に向き合ってみたくはないだろうか?
そうだ、もっと真面目になろう。
私は高次元の存在を、「考える」という実践を通して、すなわち、魂の目で捉えることで、理信、深信する。

一方、盲信者は、「神を信じること」が先行し、我を捨て、疑いを消すつもりでいるのだが、私に言わせれば、「考えること」まで捨ててしまっているから、自分がなく、足が地に着かず、いつまでも深信を得られないでいるのだ。

要するに、信じるか信じないかの賭けになってしまっている。
ところが、信じると言う人でも、どこかに疑いが残り、信じないと言う人も、自信がないはずだ。
それならいっそのこと、高次元の存在や原理を地上に居ながら体感してもらおう、と私は思うのである。
「信じるか信じないか」は、ここでは意味をなさない。
霊を信じなくても、霊的自覚が得られる。
神を信じなくても、神と繋がることが出来る。

とはいえ、霊界や高次元の存在を証明した人はいないと言われる。
既述のとおり当然のことで、客観的なもの、外界のものによる「実証」は原理的に無効だからである。
地上に住む私たちは、特別な人を除けば、肉体を纏っている限り霊界や高次元のものを直接感知できないのである。
したがって、どんなに数多くの霊的な実例や証言を挙げようとも、それらはあくまで個人のものであって、本人が体験しなければまったく効力を持たないのだ。
もちろん、この証明は、論理の手続きで帰結される類のものではない。
ならばどうするか?
論理的思考を逆行するほかない。
つまり省察だ。
よく、「論より証拠」と言われるが、私の場合は、「証拠より省」なのである。
けだし、哲学とは、人智の限界を知ることよって、人智を超えた存在を知ることである。【註2】

一度、冷静に振り返ってもらいたい。
人は、宗教家に、「心を空(くう)にする」とか「中道を行く」とか、口先だけで言われて、すぐに実行できるものだろうか?
そうした「つもり」になっているだけではないだろうか?
もし本当にできるのなら、その人はすでに聖人の域に達していると思う。【註1】
それでも、「そんなことはない、すぐできる」と言う人がいたら、一つ試してほしいことがある。
よく僧侶が唱える「足るを知る」の意味が本当に分かっているだろうか?【註3】
それを人にわかるように説法してもらいたい。
あるいは、
「天国や地獄は心にある」
というのはよく聞くと思うが、具体的にどういう状態が天国または地獄なのか説明できるだろうか?

私の役割は「考えること」によって、盲信を排し、本当の意味で高次元の存在を信じるように人を導くことである。
つまり、理性によって、真に神を信じるに至らしめる。【註4】
したがって私は、権威を笠に着るためだけの分別を持つ盲信者からは「悪魔」だと言われることもあるだろう。

ともあれ、高次元の世界を受け入れる人たちに、溝を跳び越えて直に高次元の話をするのは楽である。
たとえ興味と願望で信じる人が多く紛れていようと、扉の向こうへ入ってしまった敬虔な人たちに、霊界の体験談や神の啓示を展開する霊能者や預言者は、順風で心地よいことだろう。
聞く側も楽しいだろう。
どうあれ、高次元の構造など詳細はその人たちに任せておく。
それに比べると、扉のこちら側の人たちに対して、溝を自力で埋めて渡る実践を促すのは至難である。
聞く側も楽ではないだろう。
しかし、回避できない。【註1】

ダンテの『神曲』の冒頭に、ダンテが神に救いを求めて直接山を登ろうとしたが、猛獣が立ちはだかって行く手を阻んでいるため、遠回りを余儀なくされ、地獄巡りをすることになるという件がある。
その猛獣が「溝」であり、地獄や煉獄での経験が「考えること」に当たる。

あるいは、その山を富士山に喩えると、五合目までクルマで登って、そこから徒歩で登頂すると、高山病に罹るという人がいるのだが、そういう人でも、麓から自分の足で登頂すれば高山病に罹らないという。【註5】
五合目から上が人智の及ばない高次元の世界であり、麓から五合目までの「道」が「考えること(省察)」に当たる。
特別な人を除いて、普通に社会生活を営む私たちは、まさに高山病に罹る人であって、この「道」での経験が、高次元に昇った後にも効いてくるのである。
そして昇りきったときは、この上ない充実感を覚えるだろう。

また一方で、宗教や精神世界に対しては、戯言として一笑に付す人も多い。
もはやそれは、「信じるか、信じないか」の賭けなどではない。
その人たちにとっては「目に見えるものがすべて」なのである。
では、その人たちに聞くが、本当に高次元の存在を否定するだけの根拠や確信があるのだろうか?
もちろん、あるわけがない。
というより、そういう物質的な人たちにいくら私が問いかけても、大半は聞く耳さえ持たないだろう。
もうそうなると諦めるしかない。
それでも、もし聞く耳を持つ人がその中にいるのなら、私はその人を必ず高次元の扉へ導く。

権威を借りる盲信者からは悪魔扱いされ、物質的な人からは変人扱いされるわけだから、私は間違いなく損な役割を担っているといえる。
しかし、私はこれを天命と受け止めている。【註6】


【註1】「垢」「一躍跳入如来地」「反省」
ここを疎かにしている入信者が意外と多い。
【註2】「何を哲学というか」
言葉は恣意的だから、人によって何とでも定義できるが、私がここでいう哲学とは「省察」という活動であり、特定の学説や思想のことではない。
【註3】一般には、人間は人間として、猫は猫として、鳥は鳥として、幸福に生きていることを知り、神仏に感謝し、云々ということだが、それでは弱い。というより、飛躍があるのだ。もちろん、他人を納得させることもできない。
あるいは、あの閉じ込められたチリの炭鉱夫たちを例にするかもしれない。
物がなかったときは欲もなかったが、物が与えられてから欲も生まれた。
それを知ることが、「足るを知ること」だと説いてみる。
しかし、強欲の尽きない人たちからは、
「それは我慢しているだけで、やっぱり物はあればあるほどいいに決まっている」
と言われるのが関の山だろう。
人は地上を歩いていて不自由を感じるだろうか?
人は鳥のように自由に空を飛びたいと思った瞬間に自由は失われるのではないだろうか?
それでも、鳥のように空を飛べたほうがいいに決まっているだろうか?
自由とは何か?
詳しくは、本書「道(魂の目)」を参照。
【註4】なるほど、神の世界から見れば、人間の理性など取るに足らぬものだろう。
そう言うのは簡単だ。
そうは言っても、理性が神から与えられたものである以上、地上の人間にとっては、理性の上に信仰が成り立つ。
目の前を曇らせているものを自らの理性で拭い去るのである。
本書は土台となる理性の活動、哲学の実践法を示したものである。
【註5】高山病とは、様々な高次元に通じる人たちの表現やその違いに戸惑い、無理解から、二極対立や普遍論争などに終始したり、死後、疑似天国に行ったりすること。せっかくの上からの教えも、浸透せず、霊的進化を阻まれる。五合目までの道で深信を得ることで、それらを回避し、死後も、幽界を通り抜け、地獄に行くことなく霊界を登ることができる。
これはまた、骨の矯正の前に周りの筋肉をほぐすカイロプラクティクの施術に喩えられる。整体師の観点からすれば、筋肉のほぐしだけでよい。(本文『真の信仰』を参照)
【註6】霊の世界の道具たらんと欲する者は、迫害されることをむしろ誇りに思うようでなくてはなりません。あらゆる攻撃を、それがどこから来ようと、堂々と迎え撃つのです。(シルバーバーチ)


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