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霊的人生と仕事 [霊的存在]

今回も『続スピリチュアリズム』からの引用によって、私たちの状況を知ることにします。

【引用】
《日常の仕事について・・・・・仕事を霊的成長・人類への奉仕のチャンスとしましょう!》
〔利他愛の実践としての霊界での仕事〕
霊界では、すべての霊が何らかの仕事に携わっています。とは言っても仕事の内容と意味は、地上世界とは全く違っています。霊界での仕事は、各自の能力や性格に見合ったものになっていて、完全な適材適所が実現しています。さらに地上の仕事と根本的に違うのは、霊界での仕事は、すべて自発的な利他愛の行為としてなされているということです。霊界での仕事は、金儲けのためにやるものではありません。霊界では食べる必要はありませんし、自分の欲しいものは何でも自由に手に入れることができます。それゆえ地上のようにお金を稼ぐ必要はないのです。
霊界での仕事は、他人に尽くすため、奉仕のためだけに行われます。言い換えれば――「仕事は利他愛実践の手段として存在している」ということなのです。仕事がそのまま利他愛の行為・無償の奉仕活動になっているのです。また霊界での仕事は、自分自身の能力を発揮する楽しい創造的活動であり、同時に内在している能力を開発するための訓練にもなっています。
このように霊界では、仕事を通して他人に奉仕し、それによって新たな能力が開発されて霊的成長が促されます。その結果、ますます多くの喜びがもたらされるようになるのです。霊界では、誰もが活発に、生き生きと仕事に従事しています。いやいや仕事をしているような人間(霊)は、一人もいないのです。

〔苦痛に満ちた地上世界での仕事〕
それに対して地上世界での仕事は、あらゆる点で霊界の仕事とは正反対です。その目的は第一に金儲けであり、自分と家族の生計のためだけになされています。地上で生活する以上、どうしてもお金を稼がなければならず、たとえイヤな仕事であってもやめることができません。大部分の地上人にとって仕事は、適材適所とは程遠いものであり、生計のために仕方なく従事しているのが実情です。そのうえ仕事それ自体が心身に苦痛を与えることも多く、仕事を喜びとしている人間は、ごく一部に限られます。
現在の地上世界は、その全体が「物質中心主義」と「利己主義」によって支配されているため、仕事を完全な利他愛の行為にすることはほとんど不可能です。大部分の人間にとって仕事は、生きていくために仕方なくやるもの、できるだけ避けたいものになっています。

〔仕事を霊的視野から見る〕
こうしたイヤな仕事も「霊的視野」から眺めると、全く違ったものに映るようになります。イヤな仕事が、私たちにとって最も大切な霊的成長を促してくれる、ありがたいものになるのです。
地上世界での生活には、必ず何らかの苦しみや困難が付きまとうようになっています。神が、苦しみの体験を通して霊的成長をもたらす場所として地上世界を造られたからです。そのため仕事においても、多くの苦しみが生じるようになっています。仕事上の苦しみは、霊的成長を促す貴重なチャンスとなります。仕事にともなう苦しみや困難を乗り越えることで前世のカルマを切り、利他的人格を養うことができるようになるのです。そうなれば仕事は、たいへん“霊的価値”のあるものとなります。
仕事を、霊的成長に不可欠な「魂の修行」として位置づけするなら、さらに地上人生の質を高めることができるようになります。霊的真理を知った者は、あらゆる苦しみや困難を「霊的修行」と考えることが大切ですが、辛い仕事もその一つなのです。

〔職場は、利他愛の訓練場所〕
地上人は仕事を通して、貴重な愛の訓練を受けることができるようになっています。仕事や職場での人間関係の中で「利他愛の訓練」がなされるようになっています。イヤな相手を霊的視点から眺め、愛の思いで接する訓練の現場が職場なのです。
大半の人間にとって、仕事が苦しみとなる一つの原因は“人間関係”にあります。特に上司との関係に問題がある場合が多いのですが、それも考え方しだいで愛の訓練のチャンスにすることができるのです。

〔仕事に対する“ポジティブ・シンキング”〕
このように「霊的視野」に立って考え方を変えるだけで、辛い仕事もありがたいものになります。給料・報酬を得たうえで、前世のカルマを切り、愛の訓練・忍耐力の訓練を受けることができるのです。どのようなときも霊的視野を持ち続けるという霊的修行をすることができるようになるのです。
スピリチュアリズムは、地球上で最高の“ポジティブ・シンキング”であることを述べてきましたが、それは仕事に対してもそのまま当てはまります。自分を取り巻く環境がどれほど厳しいものであっても、霊的真理を活用すれば心の中に天国をつくり出すことができるようになります。
世間一般に流行している“成功哲学”は、物質的価値観を前提にした処世術です。それに従って事業を成功させ、この世限りの物質的・一時的な成功(お金・名声)を手にしたところで、何の意味もありません。それは人間にとっての本当の宝ではありません。人間にとっての最高の宝とは、言うまでもなく永遠の幸福につながる「霊的成長」に他なりません。人間が人生を懸けて求めるべきものは、霊的成長以外にはありません。この霊的成長が仕事によって促されるとするなら、仕事は実にありがたいものと言えるのです。

〔お金儲けを最高の利他愛の行為にする〕
物質世界での生活には、肉体を維持するための最低限の物質が必要となります。本来仕事を通して稼ぐお金は、この必要最低限のモノを手に入れるだけあれば十分なのです。質素な衣食住で満足するかぎり、余分なお金を稼がなくてもよいのです。
もし必要以上のモノやお金が手に入ったなら、それは困っている人々に分け与えるために、神が一時的に自分に預けてくれたものと考えなければなりません。多くのモノやお金は、「他人に施すために与えられている」と受け止めるべきです。こうした意味で、金持が地上人生を有意義に過ごすのは、とても難しいことなのです。金持は常に、金銭欲・物欲の誘惑にさらされています。霊的に見れば貧乏人の方が、ずっと恵まれていると言えます。
霊的真理を知った者は、自分と家族は簡素な生活を心がけ、余ったお金は困っている人々に分け与えなければなりません。これが「利他愛」という摂理にかなった生き方なのです。こうした利他愛のポイントを押えておけば、多額のお金を手にしても自分の魂を卑(いや)しめるようなことにはなりません。
さらにはそうした生き方をもっと発展させ――「困っている人々にお金を与えるために自分は働いているのだ」と考え実行するなら、仕事それ自体が、まさに利他愛の行為となります。お金儲けが、無償の奉仕活動となるのです。自分と家族の生活は最低限の金銭で維持し、余ったお金はすべて人々への奉仕のために用いるなら、最高の地上人生を送ることができるようになります。自分は質素な生活に甘んじ、必要以外のお金は霊的真理普及のため、人助けのために用いるなら、地上での仕事は最高次元の利他愛の行為となるのです。
【終】

みなさんどうでしょう?
おそらく、
「まあ、修行だというのはわかる」
「辛いだけなら耐えられる」
「でも、そうじゃないんだ」
と、良心が働く人は思うでしょう。
その中でも、割りと安定した収入を得ている人は、
「たしかに、生活のために仕方なく働いているんだけど、人の為になっているんならこんなに疲れないよ」
「支配者同士の争い事の片棒を担いでおこぼれを貰ってるだけだよ」
「どう考えても社会奉仕になってないよ」
「利他愛って言ったってねえ・・・・・」
などと思うかもしれません。

また、前回同様、
「これって、どこの国のいつの時代の話だ?」
と思われるかもしれません。
そうです。
みなさんにも、平和実現を先送りにして、目先の損得勘定で解決しているという自覚があるはずです。
自覚していようとなかろうと、霊的不正には変わりがありません。
この引用文で、
「全体が物質中心主義と利己主義によって支配されている」
と言い切っているのに、その中で仕事をするというのは、唯物主義や利己主義を促すことになるのではないでしょうか?
だとすれば、いくら苦労して辛い思いをしたからといって、それで霊的進化を望めるのでしょうか?

また、この引用文の次の箇所でこのようなことを述べているのです。

【引用】
≪霊的真理を知っていることが、親や教師の“最低条件”≫
霊性教育とは、「子供を霊的真理にそった人間に育てるための働きかけ」である以上、霊的真理を知らない人間は、子供の教育に携わる資格がないということになります。真理を知らない人間は、子供の親や教師になってはいけないということなのです。
霊的真理は、人間が霊的成長をするうえでの明確な方向性を示しています。「人間は霊的存在であり、単なる肉体だけの存在ではない」「人間は死んですべてが終わりになるのではなく、霊界で永遠に生き続けていく」「モノやお金にとらわれた生き方をしない」「他人のために誠心誠意を尽くすことが最も価値ある生き方である」「人間は利他的行為を通して霊的成長が促されるようになる」――親や教師は、こうした最も基本的な真理を常識として知っていなければなりません。
基本的な霊的真理を知っているということが、親や教師になるための“最低条件”と言えますが、現実にはその最低条件を満たしている人間はほとんどいません。親になる資格のない者が子供を生み、先生になる資格のない者が人生について教える立場に立っているのです。
【終】

最後の所を見てください。
“最低条件”を満たしている人間はほとんどいないと言っています。
なのに、何であれ仕事をして苦労すればよいというのでしょうか?

親や教師の資格のない者であっても、苦労して辛い思いをしています。
親や教師の資格のない者に渋々従って行動する人はもっと辛い思いをしています。
真の意味で親や教師の資格のある者は、もはやこの日本では生きられません。
私の感覚では、今の日本は、霊的進化をするような人は満足に物質的生活が送れないように何か大きな力が働いています。
それに対して、この引用文は、『出エジプト記』における「エジプトに帰る人たち」が目的を達成できるかのような表現になってしまっています。
今の日本に照らし合わせてみた場合、むしろ「魂の奴隷」となっている人たちの大義名分になってしまうように思えてなりません。

この文章を作った人がどんな人かは知りませんが、一貫性を持っていないようです。
これでは、苦労しさえすれば修行が進み、辛い思いをしさえすれば霊的進化をするというように曲解されてしまいます。

私が全体を修正できるならば、
「まず、霊的真理を知ったうえで、この世で魂を売ることなく最低限の物質的生活をするために苦悩を受け止めながら仕事をし、利他愛に満ちた人生を全うする」
というようにします。
ともあれ、いかに生き難い世になってしまったかと思わされる毎日です。




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