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幸福の科学について(3) [中庸]

このところ私は他のことで頭も体もいっぱいで、肝心なスピリチュアルな活動がおろそかになっていることは確かです。
もちろんそれは、かなり少数派でありあまりにも世間から理解されないため、失望しかけているというのもあります。
それに比べると、いつも引き合いに出す宗教団体の人たちはめげることなくよくやっていると感心(?)します。
皮肉なことに今の私にとっては、彼らに対して真摯に向き合ってコメントすることが唯一手応えのある行動となっているわけです。
今回も自分に対する刺激として、幸福の科学の例の女性から随分前に頂いた『信仰の法』なる本をパラパラとめくって斜め読みしました。

皆さんはもう、私が何を言おうとしているか、だいたい察しがつくと思います。
はっきり言えば、霊的自覚を促すという点では賛同するものの、その方法としては相容れません。
やはりと言っては失礼ですが、未だに「超常現象」による騙しの域を超えず、「道」を行く切っ掛けを与えてはいないからです。
つまり、唯物論撲滅の活動はしてはいますが、盲信排除にはなっていないということです。
(むしろ盲信を促していると言ってもいいくらいです)

ともあれ賛同する点としては、「『進化論』は仮説であって真実ではない」という箇所で、

【学校教育の影響もあるのでしょうが、多くの人たちは、「アメーバが人間の先祖であり、そこから進化して人間になった」と考えています。…(中略)…このような、あまりにも論理が飛躍した仮説に飛びつき、考えることを停止した人間を大量につくった国家には、それなりの困難が必ずやってくるはずです。したがって、私たちはそうした国家に立ち向かってくる困難と戦わなければなりません。自分自身の存在根拠を否定し、尊厳を否定した者に、繁栄した未来が来ることを期待するのはおかしいと思います。】

とあることです。
これは、「肉体としての生物の進化によって人間の知性や霊が偶然生まれた」ということに対する批判です。
もっともこれに関しては、どの宗教家も同様に指摘していますが。
宇宙物理学者も「地球外生命」を探すときに、未だに地球と似たような条件の天体に専ら関心を抱くようです。(以前も言いましたが、プロの研究者の制約もあると思います)
しかし、スピリチュアリズムでは、人間の肉体は借り物であり、「人間=人類」ではないのです。
人間の霊は初めからあります。
また、人間に限らず、鉱物も植物もそれなりの霊があってはじめて物質化して活動します。

賛同しない点は、やはり、「イエスの磔刑」の解釈です。

【キリスト教で言うならば、キリスト教は、異教徒の人々から、「自らを救えなかった人間が救世主であることはあり得ない」という批判を受けることがあります。当時、十字架に架かったイエスは人々から嘲笑われました。「ユダヤの王」と札に書かれ、王冠の代わりに茨の冠をかぶせられて、「本当にユダヤの王で救世主であるなら、自分を救ってみよ」という、挑発的で侮辱的な言葉を数多く投げかけられました。しかし、イエスは、現実には、釘で打ち付けられた十字架から逃れ、何かを起こしたわけではありません。実は、そのあとの霊的な復活を通して、人々に魂の永遠性を信じさせたのであり、また、霊的な目覚めを得た弟子たちの前にその姿を現すことによって、真実の世界のあり方と、自分が永遠不滅の存在であることを説いたのです。…(中略)…私が説いている教えの中にある普遍的なるものを、同時代において、同時期において、つかみ取ることができるならば、その人は相当優れた人だろうと思います。しかし現実には、なかなかそうはいかないものなのです。】

まず、「救う」とか「救われる」というのを、「肉体の保持」という意味にしてしまっていることから、当時の民衆の意識の低さが窺えます。(今もそうかも)
それに対して教会側も、後にイエスの磔刑を「身代わり」というように、これまた肉体的唯物論的に取り繕っています。
救うとか救われるというのは、自己保身が動機で地を這うような生き方すなわち「地上の住人」から、エゴを克服し自己保身を超越する(消すわけではない)生き方すなわち「地上の旅人」に引き上げることを言うのです。
イエスの肉体の死を以って他の人たちのエゴが克服されるわけがありません。
イエスは逃れようと思えば逃れられたのですが、それをすれば、自己保身で動いたことになり、エゴを乗り越えたことにはなりません。
自己保身を煽るという権力者の手に乗らずに信念を通したまでです。
それが聖人の聖人たる所以です。
もっとも、イエス本人は純粋に行動しただけでしょうが、それが霊的に生きる人の手本となったわけです。
(私も磔刑ほどではありませんが、かつて幾度か純粋な行動によって、権力者から処分を受けました)
それから、復活という超常現象で驚嘆させるというのは、低級霊が狂信者を騙して面白がる時によくやる手であって、イエスの肉体を借りた高級霊がやるわけがありません。
出来てもやりません。
なぜなら本物ではないからです。
盲信を促すだけで、道を示さないからです。
もしそんなことで人々の霊性を高めることができるのなら、今でもしょっちゅう復活して人々の前に現れればいいはずです。
ならば、大川氏の説く「普遍性」とは、如何なるものなのでしょうか?

この本の最後の方に、「地球神エル・カンターレからのメッセージ」として、こう記されています。

【今、私は、あなた方に言う。キリスト教に言う「主なる神」。ユダヤ教に言う「エローヒム」。イスラム教に言う「アッラー」。中国の孔子が言う「天帝」。さらには、日本神道ではその姿も知られていないが、中心神である天御中主神の上にいる「天御祖神」。すべては同じ存在であり、一人なのです。以下略】

まったくそのとおりなのですが、残念ながら、盲信者や狂信者に対して何ら説得力がありません。
つまり、このメッセージによって人々は何も変わらないのです。
末端の表現に囚われるのは人間の常ですが、省察によって解除する(戒禁取を消す)ことができるはずです。
なのにその具体的な実践法が示されていません。
せめて、
【「アッラー」であるから「エローヒム」ではない、と言うのは、「▲」だから「●」ではないと言っているのと同じだ。】
と言ってほしいものです。

我累了。








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