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銃には銃 [中庸]

アメリカの高校での銃乱射事件を契機に、国民が銃規制を訴えているようです。
それに対し、トランプ大統領は、
「教師たちが銃を持てばいい」
と、相変らず「銃には銃」を唱えています。
たしかにどんな国でもどんなに平穏な社会であっても、面白がって迷惑をかける奴や個人の腹癒せで無差別殺人をする奴は必ず現れます。
また、相手に力(権力)がないとわかると、それに付け込んで、周囲への影響を顧みず徹底的に圧力をかける「生まれながら好戦的な輩」が確実にいます。
近頃、第二次大戦のある体験者が「戦争をしたい奴などいない」というのは大嘘だと証言しています。
それだけを考えれば、たしかに、銃から身を守ることができるのは銃だけだと言えます。

ともあれ人々が平穏に暮らせるように、さらには、私流に言えば「人々が考える余裕を持つことができるように」、そういう『地球の失敗作』を駆逐して秩序を保つのは当然のことでしょう。
でもそれだけでしょうか?
だいいち、それで平和と言えるのでしょうか?
テレビ番組でも言っているように、「核には核」と同じで、なにか単純な気がします。
発想が極めて「地上的」です。

トランプ氏に関しては、以上のような理由から、一見スピリチュアリズム的に「所詮下から2番目の流刑者の星だから」と覚って、地球の平和を諦めているようにも思えますが、実のところ、単純に、国がライフル協会と癒着していて判断を下せないという事情があるようです。
それならばと、各団体がライフル協会から手を引くことで銃規制に持っていこうとしているようです。
いずれにせよ、国家に絶対的な権力がない限り、これぐらいのことしかできません。
また、銃規制もやはり「規制」でしかありませんから、「力には力」という地上的措置にすぎません。
では、それが実現できたとして、どうなるのでしょうか?
安全の中で個人的な物質的生活を営んで、広い意味での社会的成功を収めて、快楽を享受して、それで終わりでしょうか?
「こんな思いをしてやっとこれだけ?」
「それならなんでわざわざ生まれてきたの?」
などと思わないでしょうか?

そういえば、「力には力」ということを、エホバの証人の小母さんが言っていたのを思い出しました。
唯物論撲滅には、集団とか団体とか組織といった「力」しかないと言いたいのでしょう。
幸福の科学にもそういう要素があります。
まあ、そうかもしれません。
個人がいくら正しいことを熱く説法しても、筋金入りの唯物論者は聞く耳を持ちません。
その手の人たちには権威や権力がものをいいます。
でもやはり地上的です。
力によって宗教的行動をさせてもそれだけでは本物ではありません。
地に足がつかず、盲信に走るだけだからです。
もちろん、宗教における地上的力は「切っ掛け」をつかませるための方便とはなり得ますが、私の経験では、宗教団体のほとんどが頭ごなしに「愛」を説いているだけです。
宗教に携る人たちがそんな調子では、平和は遠いと言わざるを得ません。

本物の宗教心とか菩提心は、唯物論を外からの力で抑えたり砕いたりして得られるもではなく、自らの溶解液によって溶かすことによって得られるものだからです。
ヤッツケルのではなく、克服することです。
消すのではなく、超越することです。
それには私が再三言う「中庸」などの実践(活動)が伴うのですが・・・

そもそも人生とは何か、社会とは何か、国家とは何かを考える時が来ているということです。
一人ひとりが銃を持つ前に考えることです。






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