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歎異抄について [中庸]

前回に続いて、NHKテキスト『歎異抄』〔釈徹宗〕を買って読みました。
歎異抄に関しては、25年も前に文庫本で読んで知っていましたが、どうしたことか、当初私は、親鸞聖人が、「自身の教えに対して人々が曲解しているのを見て嘆いている」ということを、唯円がまとめて著したのだと思い違いをしていました。
今回、「唯円が嘆いて著した」と初めて知りました。

いろいろある中で、まず特記しておきたいことがあります。
要約すればこうです。
インド文化圏では哲学や思想は信仰と共にあり、信仰のためにあくなき知的探求があり、知性は信仰に裏付けられています。
仏教も同じく、自分自身で教えを理解し、納得し、実践することが目指されます。(聞思修)
要するに、仏教はそもそも知と信が一体だということです。

これに反する宗教の代表のキリスト教には、
「知性や理性は信仰の邪魔者である」
という考えがあります。
テルトゥリアヌス(2~3世紀)の言葉として知られていた、
「不合理ゆえにわれ信ず」
は、キリスト教信仰の対象は理性による解釈とは関わらない超越的なもの、との認識に基づきます。
しかし、今日では「否定されている」とのことです。

どういう場でどういう人たちによって否定されたのかは不明ですが、この情報は私にとっては衝撃的でともあれ確実に追い風です。(良いかどうかは何とも言えませんが)
もっとも、昨今の原理主義者たちの起こす事件を見れば、理性を排する宗教が「思考停止」以外の何ものでもないことは明らかですけれど。

今回の根幹はやはり『雑毒の善』でしょう。(以下、このブログの「神仏の光」と被ります)
煩悩の毒の混じった(自分の都合が入った)善のことです。
〔引用〕『歎異抄』によると、聖道の慈悲とは、いまの言葉で言う人間愛やヒューマニズムにあたり、「すべてのものを憐れみ、愛おしみ、育むこと」を意味します。しかし「それは不完全なものではないのか」と親鸞は問うのです。なぜなら、いずれも自分の都合によって歪んだ愛情だからです。それでは真に他者を救うことなどできない。
だから、浄土へ往生して、仏と成って、人々を救うことを目指す。それが浄土門の慈悲だとしています。〔終〕

そこで、
「善行がすべて『雑毒の善』ならば、やらない方がいいのか?」
という疑問が当然出てきます。
〔引用〕親鸞聖人は世間で善い行いとされる社会奉仕などを否定していたわけではないと思います。しかし、仏道という点からいうならば、「それは不完全なものと認識せよ」と言っているのです。〔終〕

そうです。
「それでどうにかなると思うな」
ということです。
荀子の『性悪説』の真意です。
それに対して、
「『雑毒の善』(偽善)だからやめろ」
これは、荀子の『性悪説』と孟子の『性善説』を理解せず、地上で何も奉仕しない人の言い逃れとしてよく聞かれます。
さらに、ある共産党員が、『雑毒の善』を認めず、さらに孟子の『性善説』を曲解して、地上に純粋な善があると思い込んで追求するようなこともあります。

私の見解を申しますと、慈悲や善行というのは、「結果」あるいは「表現」だと受け止めます。
順番が違うのです。
けっして、それによって悟るとか極楽浄土に往生するというわけではありません。(浄土門が一方的な自力という意味で否定したのでしょう)
往生するには他力でよいのですが、他力と言っても、何もしないのではなく、仏の光を受けているということを知る実践(思考活動、省察、瞑想)が必要です。
曹洞宗の道元も、禅における座禅は煩悩を消すための修行ではなく、自分がブッダであることを確認する作業だと言っています。(それを、自力と呼ぶのは違うと思います。そもそも浄土門の人が他力と自力を作ったのです)
〔引用〕自分の影の部分が見えるのは、救いの光に当たっているからなのです。光に当たるから、くっきりと影が見える。親鸞はこの影を生涯ごまかさず、ずっと向き合い続けた人なのです。〔終〕

肉体を持っている限り自分の都合(エゴ)は消えません。
ですから完全でなくてよいのです。
仏の光を受けているからこそ、悪を悪としてとらえることができるのです。
仏の光を受けていること、救われていることの表現をするだけのことです。








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