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人と人間(2) [霊的存在]

ついこの前、
『進化して人が生まれたのではない』
という古典的な内容の動画を見ました。
それによりますと、ビッグバンによる宇宙開闢以来、古典物理学の法則ではエントロピーは増大するばかりであって、生命が生まれるわけがないということです。
生命ばかりでなく、この世の物質はすべてそうだということです。
人も動物も植物も鉱物もみなはじめから神が創ったと言っています。
もっとも、この動画はキリスト教関係者が作ったと思われるので、そう説明するのは当然でしょう。(人と人間を区別していません。「人は神の似姿」とだけです。)

私が再三持ち出す『自然が自然でないものを生むパラドックス』からもわかるように、少し考えれば、知的生命体や霊的存在が新たに生まれるはずがありません。
「神の一撃以降、神は賽を振らない」
と、科学哲学では言いますが、取り方次第であって、時間を感じている有限的我々からすれば、
「神は最初だけで、あとはホッタラカシ」
とも取れますし、
「予定通りであり、どこの時点で切っても、金太郎飴のように神の計らいが見て取れる」
とも取れます。
いずれにせよ、古典物理学では、宇宙の始まりや新しいものが生まれることを説明できません。
スピリチュアリズムでは、霊があってはじめて物質や生命があるわけであって、古典物理学的な分子の運動で物質や生命が生まれるわけではありません。(量子論との関係は微妙です)
予定通りかどうかはともかく、常に霊が関与して宇宙が成り立っているのです。

ここからが核心で、人は他の動物の帝王であり支配者だという話です。
昔からよく「人間は万物の霊長である」と聞くと思います。
以前にも取り上げた「キリスト教的世界観」では、人が支配者であり世界を管理するのです。
以前、私の父が、
「キリスト教では、牛や豚は人が食べるために生まれてきたんだって言うんだよ」
と、半ば呆れていましたが、それは、
「人間がいるから宇宙があるんだ」
という人間原理、さらに、
「人間のために宇宙があるんだ」
という強い人間原理と相通ずるものがあります。
一見傲慢なようですが、冷静に考えると、人の都合による「人の視点からすべてを語っている」ということの「省察」を促しているにすぎません。
「余計な視点を設けるな」
ということであり、知性の暴走を防ぐ意味が込められていると思われます。

いちばん肝心なこととして、人が帝王である理由を、環境に対する「適応能力や順応性の低さ」に帰しているということです。
牛や馬の子は生まれてすぐに立つことができて、まもなく自立して行動できます。
ウミガメの子は誰にも教えられなくても歩いて海に入り泳いでいきます。
その他、動物は生まれてすぐに環境に適応するようにできています。
それに対して人間の赤子は、まったく無力であり、放っておけば死んでしまいます。
それは、人間がもともと家の中で育つようにできているわけであって、それが帝王である所以だと、その動画は言うのです。

20年ほど前、私は同僚たちの屯する場所で、ふと悩みを漏らしたことがあります。

「私はもともと身体がそんなに丈夫じゃなくて、すぐ風邪をひくし、30代になってちょっと胃腸が弱ってきていますね」
「私は赤ん坊の時に身体が弱くてねえ、『土曜熱』って言って毎週土曜日になると高熱を出して、母親が診療所に連れて行ったらしいんです。母親や周りの大人たちは『この子生きていけるのか』と心配したそうですよ」
「昔のこととは言っても20世紀だから、医療も進歩していてこうして生き延びているけど、江戸時代以前の大昔だったら、とっくに死んでいなくなっているわけですよ。なまじこうして生きてしまっているから、苦しみや迷いが消えないんですよ」
「私の姪っ子なんて、ダウン症の一歩手前で、生まれた時から心臓に穴が開いていて、そのままなら死んでしまうからと言って、3歳の時に手術して、成長はしましたけど、当然身体は健康からほど遠くて、学校に行っても勉強は出来ないし運動も苦手だし、すぐ乗り物酔いするし、いじめられるし、いいことないわけですよ」
「挙句の果てに、長生きできないだろうと医者から宣告されるし」
「なんで生きていなけりゃならないのか?」
「手術しないでそのまま死んだほうが幸せだったんじゃないかと思ったりもするんですよ」
「それでもね、やっと立って歩いた頃には、喋らないけど、まるで以前から知っているかのように笑顔で私に接してきてねえ……。暴走するだけの知性がないから、今でもずっと天真爛漫でいるんですよ」
「いったい何が幸いするのか、考えさせられますよ」

周りの同僚たちは、神妙な面持ちで考え込んでいました。

逆説的な気がしますが、文明や社会、支配や管理については、私は今言った人間の「迷い」と関係するように思います。
「迷い」があるからこそ、人間が見ている世界を、ああでもないこうでもない、こうするべきだと、人間自身が制御し、管理する必要があると考えられるからです。
今の文明を見てみなさんはそう思いませんか?
迷いがなければ、環境に順応するだけ、適応できないものは死んでいなくなるだけ。
適応するかしないかだけで、何も考えないし、環境を変えようなどとは一切しないでしょう。

キリスト教関係者はどうしても進化論(自然淘汰)を認めたくないので、肉体としての「人」と、霊的な存在の「人間」を分けたくないのでしょうが、時間を感じる者としては、自然淘汰を受け入れるのはともあれ当然だと思います。
もちろんそれも、霊的に見れば、役割があって生まれ、役目を終えて消えてゆくとも考えられます。
それを、時間を超越した存在としては、「神がはじめから創った」と表現することもできます。
そうして現れた「人」は神の姿に似ていることから「人間」の霊が宿っているのです。
そして、霊的進化のためにはじめから「社会」を作るようにできているのです。
まとめますと、「人」は「動物」の側面と「人間」の側面があります。
「動物=肉体=適応」であり、「人間=社会=迷い」です。

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