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無題 [中庸]

予定では、今回は『人と人間(3)』だったのですが、まとめることができずにバタバタしているうちに年が明けてしまい、なんとなくTVを見ていると、
「これはいけないな、言っておかなければ」
と思うことがあり、急遽作ることになりました。
結局、前々回の補足みたいになってしまいましたが、懲りずにお付き合いください。

その番組は、田舎暮らしをする老夫婦を取材する内容でした。
最後に、「今年の目標は何か」を聞かれて、老夫婦は、
「明日天気であればいい、健康であればいい」
と答えました。
それを聞いて、進行役の70歳ぐらいの某インテリ芸能人が、
「そうだよね、それでいいんだよね」
「学校で、何のために生きるのか?とか先生が言うじゃない」
「それがいけないんだよね」
などと言っていました。(もちろん昔の学校のことであって、今は聞きません)
みなさんどうでしょう?
その老夫婦やその芸能人にとっては、長い人生の中でいろいろ悩んだ末に辿り着いた境地でしょうから、それでいいのです。
でも、それをはじめから子供や若者に言うのはどうかと思います。
極論を言えばそれは、
「どうせ死ぬんだから、生まれて来なくてもよかったんだ」
と言うのに等しいと思います。
また、組織宗教の形骸化を見るようでもあります。
省察や中庸を実践して道を得た人が、自ずと出た言葉が「南無阿弥陀仏」だからと言って、信者に向かって、
「ただ、南無阿弥陀仏を唱えていれば救われる」
と言うようなものです。
あるいは、教会の人が、
「神は人智の及ばない存在だから、考えるのをやめて祈りなさい」
と言うのに似ています。

以前も言ったように、素朴な生き方というのは、ある意味で哲学者の目指すところではありますが、生来素朴な人(カルマ解消済みか?)と見かけは同じであっても、その「過程」が違うのであり、それが肝心なのです。

これも一度取り上げたかもしれませんが、あのアニメのやり取りがすべてを表しています。
ジャコウネズミ:「無駄じゃ、無駄じゃ、まったく無駄じゃ、すべて無駄じゃ」
スナフキン:「無駄なことをするのが人間じゃないのかね?」

「雨降って地固まる」と言って、いろいろな迷いや病気などの苦しみを乗り越えて、解脱に向かうのが道であり、霊的進化を促すのであって、それを揺るぎないものにするために人生があるのです。

さらに、当ブログの『論語より』(2017年7月)で取り上げたことにも通じます。
樊遅が知とは何か、と孔子にたずねた。
「われわれは、ややもすれば人間を超えた存在に頼る気を起こしがちだ。
しかし、まず人間としてやらねばならぬことは何かと考えること、それが知だ」
樊遅はさらに仁についてたずねた。
「人間として正しいことは、たとい労多くして功少なしと知っていても、
あえて実践する態度、それが仁なのだ」

人生の無駄を無意味だと受け止める思考を促してはなりません。
「考える切っ掛け」を与える、いわゆる「産婆術」を施すことです。
それは霊的に生きる人の責務です。
かの芸能人はたしか大学で東洋哲学を専攻したと記憶しています。
ただ、哲学に限界を覚えたから中退したと言っていたのも覚えています。
もしかすると、私の言うようなことに嫌気がさしたのかもしれません。
いずれにしても、私は放っておくわけにはいかなかったのです。

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