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歌〔補足〕 [音楽]

昨年の11月から一人暮らしになり、夜はほとんど外食になり、しかも遅くなってもいいので、12時近くまで店にいることがあります。
この50日間の夏休みで、人に会って一緒に行動する日がどれだけあったかというと、毎日の母の面会(周1回は姉と行く)を除けば、埼玉の友人2人と1回、中国の女朋友?と1回だけです。

そんな孤独感を癒すためか、新しく交流の場を見つけて、自分の存在感を示して楽しんでいます。
4月頃から、毎週のように行くようになった小さな「中国居酒屋」があります。
ほとんどの客が常連客で、私はその一人になり、常連客と気軽に話すようになりました。
その店にはカラオケがあり、1曲100円とけっこう割高です。
ただし、機械の採点で「90点以上」を出すと、「ビ-ル1杯サービス」という約束があります。
90点なんて軽いと思う人もいるかもしれませんが、その機械は厳しくて、音程とリズム、ビブラートを完璧にしても、「89点」止まりに設定してあるのです。
一部を除けば、客のほとんどは70点台です。
では、それを超えるためには何が必要なのか?
分析を見ると、「音程」や「抑揚」もありますが、『こぶしの回数』が大きく影響していることが判明しました。

私はもとより機械の点数には興味がありません。
聴いて「良い」と感じるものは、機械に反応しないからです。
でも、いつもカラオケ代を出す常連客の1人『Aさん』がビールのお代わりを(私に)催促し、店の中国の女主人が私にリモコンを渡すので、仕方なく要望に応えるべく、高得点を望める曲を歌う羽目になったのです。
例えれば、純粋に学問や研究をしたいのに、難関校の入試を突破するために受験勉強させられているといった感覚です。
兎にも角にも高得点を出すには「股旅演歌」が手っ取り早いので、そうしています。
それで私は、今まで計9回オーバー90を出して、そのうち6回Aさんにビールを支給しました。(私は只で歌っているので、ビールをもらったのは1回です)

動画を見てわかるでしょうけど、常連客たちは、「点数」を期待しているのであって、私の歌そのものにはあまり興味がないようです。
先日の様子をほんの一部分紹介します。
動画は短縮しました。

【ふるさとの灯台[2番だけ]】(1952年 田端義夫)
https://photos.app.goo.gl/AaA6LoGBwBmy8Gcd9
昨年覚えて何回か歌ったことがあるだけです。
股旅ではありませんが、こぶしが適当にあるので選びました。
この歌でこの日2回目の「Over90」。
女主人はぶつぶつ言いながら、渋々ビールをAさんに差し出しました。

【箱根八里の半次郎[1番だけ]】(2000年 氷川きよし)
https://photos.app.goo.gl/MPUfuNY5jXqZZqg89
私にとっては新しすぎる歌ですが、みんなが知っている股旅ということで、決めました。
耳にこびり付いているので、覚える必要はなく、ほんの数週間前に2,3回歌ってみただけです。
(と言いながら、1か所節を間違えました)
この日3回目の「Over90」でしたが、女主人は「もうダメ」と言ってビールは出しませんでした。
私は(準パチプロの)Aさんに、
「Aさん、ビール打ち止めだって!」
と告げました。

【スイスの娘】(1958年 ウイリー沖山)
https://photos.app.goo.gl/QggNyC64BLCWZGLq6
前回載せなかったもう1つのヨーデルです。
先日は走ってしまってひどい出来だったので、気を付けて歌いました。
何とか形になりました。
始めから終わりまで載せました。
嫌でなければ聴いてください。

ともあれ、私ができることで他人に喜んでもらえれば、自分も有意義に楽しく過ごせるというものです。

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ピアノ演奏〔2〕 [音楽]

非常勤講師の夏休みは50日もあります。
最初のうちは、身体が楽ですが、だんだん生活が乱れてきて、10時頃に朝食、昼は3時か4時、または食べないときもあり、夕飯は9時前後です。
当然、夜更かしすることになります。

その中で毎日することといえば、母親の面会とピアノ演奏です。
昼頃から2時ごろまでは、ピアノで腹ごなしするのが日課となってしまいました。
まあ、歌と違って、「みんなで楽しく」というわけにはいかずに、孤独なひと時ですけど。
と言っても、同じ曲ばかりでは新鮮味がなく意欲も湧かないので、ちょくちょく新しい曲を練習します。

ここ数年はバッハ以前の音楽に嵌まっていて、以前に動画を載せたW.バードのほか、O.ギボンズ、G.フレスコバルディなどを弾いていました。
この夏は、ルイ・クープラン(Louis Couperin 1626-1661,François Couperinの伯父)の組曲〔第2番〕を練習しています。
L Couperin hyoushi.jpg
L Couperin Suite2.jpg
私がこの作曲家の存在を知ったのは2年前で、独特の雰囲気に魅了されました。
ピアニストの永野光太朗氏の『第7番』のチェンバロの動画を視て、自分もどれか弾いてみようと思いました。
永野氏は楽譜を見ながら演奏しているので、自分もそうしています。
楽譜を見て弾くというのは、曲によっては有効であり、永野氏によればその曲の「作法」のようなものらしいのです。
そういえば、坊さんが経を唱えるときに、経典を開くのは、そういうもの(作法)だと聞いたことがあります。
実際問題、バロック以前の曲は、ロマン派の曲のように指の形で覚えるようにはできていないので、我々アマチュアが暗譜するのは難しいと思います。
とはいえ、老眼鏡をかけないと楽譜が読めなくなりました。

また、チェンバロなどの古典楽器のために作られた曲なので、ピアノで弾くと楽曲の良さが出ないし、逆にピアノの特性(広音域や強弱)を活かせないかもしれません。
でも、この曲集はそれらを超越する魅力があります。

Louis Couperin [Suite Ⅱ]
1. Prelude         https://photos.app.goo.gl/uD5XC6PEpkhFNAMv5
2. Allemande        https://photos.app.goo.gl/baQeiEE7S4i6FHSt6
3. Courante        https://photos.app.goo.gl/x8YGhKqPhX4nPbfT7
4. Sarabande        https://photos.app.goo.gl/eMN5qceqB8zGS66o8
5. Gavotte de Mr. Hardel  https://photos.app.goo.gl/ahKo82scBo5rmdkH9
6. Double de la Gavotte fait par Mr. Couperin  
             https://photos.app.goo.gl/dmDWE3iLmKwD7mt89 

⁂「くどいから」というより、録画上の都合(?)で、Courante以降は、「繰り返しなし」にしました。
ともあれ、動画を作ることは、「歌」も併せて、【夏休みの成果】の発表とでも言っておきましょうか。

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 [音楽]

ピアノの動画は、今まで幾つか載せましたが、歌の動画は、5年前に『幸福』の中でほんのワンカット載せただけです。
しかし、私にとって歌はよりどころであり、人との交流において絶大な威力を発揮するものとなっています。
幼少の頃は、耳から入ってきた流行歌などを口ずさんでいましたが、高学年になると、人前で歌を歌うなど、恥じらいが先行して、その機会すらなくなりました。
ところが、大学生の頃、世の中にカラオケが普及してからは、人前で歌う習慣ができました。
特に就職してからは頻繁にその機会が生まれました。
もちろん私には音楽の下地があったため、聞いた歌をそのまま再生するのはたやすいことで、そんなに練習しなくても形にはなって、しかも人に受けたりして、愉快に過ごすことができました。
それまでお互い知っていた人たちも、私が歌を歌うと、私の対する見方や扱いが、ガラッと変わるなどということがしばしばありましたし、今でもあります。
そうは言っても、プロの歌手とは格段の差があるのは確かです。
正式に習ったことがあるのでわかります。
技術的な問題だけではない何かが違うのです。
私の歌は、
「場末の店で歌えばたいがいは褒められるけど、商品にはならない」
というレベルです。
「自分で作詞や作曲をしたら?」
と言われることがありますけど、それほどの才能や意識はありません。
それに、どんなジャンルでも、もう出尽くしてしまって、新しい曲に「良いもの」はないと思うのです。
それで、歌うのも古い歌ばかりなのです。

今回、友人2人を連れて地元の店に行った時の私の歌を幾つか紹介します。

『山の人気者』〔1934年〕
https://photos.app.goo.gl/f8L8TKk3wmNokmWV6
昨年の春、ウイリー沖山の動画を視て、ヨーデルを練習しました。
最初のうちは、「表・裏・表・裏」の4番目の裏が出なくて、悩みましたが、2カ月ぐらい経つと、なんとか出来るようになりました。
でも練習していないと、すぐに「裏」の方の音程が上がらなくなります。
今回の出来はというと、後半のヨーデルの所でやはり走ってしまいました。
もっと余裕を持って、「聞きながら」歌うべきでしょうね。
もう1曲『スイスの娘』も歌ったのですが、走りすぎて酷い出来だったため、載せませんでした。
機会があれば、いつか撮り直して載せます。

『La maragueña』〔19世紀〕
https://photos.app.goo.gl/gTpnEWGH4QrYH3As8
7年ぐらい前からよく歌っています。
もちろん、トリオ・ロス・パンチョスのバージョンです。
しかし、少し力んで急いでしまいました。
1か所間違えましたが、何とかなったという感じです。
終わった後、女性の店員から、
「スパニッシュですか?」
と聞かれ、
「はい、スパニッシュです」
「まあ、こんなの歌う人いないでしょうね」
と答えると、店員さんが、
「歌えないですよ」
と即答しました。

『And I Love So』〔1973年 Perry Como〕
https://photos.app.goo.gl/jLAwnKPCpqFR34vd6
30年ほど前にライブハウスで何度か歌いました。
私の願望成就を装う(pretend)歌です。
出来はまあまあです。
出だしで拍手した人は、78歳の男性で、他の客が演歌ばかり歌う中、英語の歌だけを歌う人です。

『Oh My Papa』〔1954年 Eddie Fisher〕
https://photos.app.goo.gl/E9LTFAztDqmoYFzR9
4年前に動画を視て、3日で覚えました。
正統派クラシックの発声の練習も兼ねて、度々歌っています。
亡き父に敬意を込めて。
完璧ではありませんが、うまく歌えた方でしょう。

『ロザリオの島』〔1964年 春日八郎〕
https://photos.app.goo.gl/jL8UgMuqMNdPRNNt5
最初の方で、店員さんにスマホを倒されてしまい、カバーが閉じて、以後画面が真っ暗になってしまいました。
この歌は、昨年動画で知った歌で、気に入ったのですぐ覚えて、すぐにある店で歌ったところ、そこに居合わせた客から、
「いいねえ~」
と称賛され、店長から、
「これ伊藤久男の歌ですか?」
と尋ねられ、
「いえ、春日八郎です」
と答えました。
当歌手にしては時代が後の方なので、古い人でも知らない人が多いのかもしれません。
でも、春日ファンの間では4位ぐらいの高評価なのです。
やはり良い歌はわかるのでしょうね。
出来はというと、全体的には良いと思いますが、不遜にも音程が不安定で上がりきらない箇所があったので、そこが課題として残りました。

ここに掲げた歌はみな、今の私の境遇や心境を表しています。
それにしても、撮り直して、なぜもっと完璧な動画を載せないのかと思われるかもしれません。
それは、当ブログはあくまで「思考や行動の反省」を促す場だということです。
人間の弱さを知るためでもあります。
それによって、私自身もいろいろな意味で成長できるのです。
完璧な動画なら、プロの歌手の動画でいいわけですから。
今回わかったことは、
「力むと時間の感覚が伸びる」
「だから客観的には短くなる」
ということ。
いつかも言ったように、大けがをした時など、危機が迫ると、1秒が3秒ぐらいに感じるなんてことがあると思いますが、それと同じことでしょう。
ともあれ、人に聞かせるということがいかに難しいか痛感します。

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 [美術]

5年ぐらい前まであった【絵のホームページ】が、契約の変更を機に見られなくなりました。
問い合わせたところ、はじめから作り直さないとダメだということで、そうしようとも思ったのですけど、ここ10年は新しい絵を制作していないので、思いとどまりました。
〔⁂5年以上前から当ブログを知っている人はスルーしてください〕

30年前、私は副業として、いやできれば転業して出版関係の絵(イラスト)を描こうと思って、清藤先生のもとで勉強していましたが、今やCGやAIにとって代わられ、アニメを除いて、手描きの絵はほとんど商品価値がなくなったように思われます。

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20年以上前、50件程の出版社に作品を送りました。
3件ほど反応があり、
「将来一緒に仕事をしましょう」
と言ってくれた出版社(金の星社)もありましたが、実現には至りませんでした。
仕事になったのは、教育関係の出版社(明治図書)の表紙に使われた2作と、手製の絵ハガキ1枚だけです。

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『イソクズガニ』は、油壷で捕獲した個体を撮影してから、茹でて食べた時に、片方の足をもいだので、そのときの構図を配色を変えて、アクリル絵の具で描いたものなのです。
「なんでこんな絵が採用されるのだろう?」
「他にもっと自信作があるのに」
なんて思ったものです。

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『地球の変遷と生物の進化』はJICの卒業制作です。
原画はA1判の大きい絵です。
時間と労力は費やしましたが、自分の意思で描いた作品ではないので戸惑いました。

そういえば、清藤先生がよく言っていたのを思い出しました。
「出版社は、力の入った(力んだ)作品は絶対に採用しないからね」
「手慣れたタッチで力の入っていない作品を選ぶんだよ」

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『オオミズアオ』は昆虫少年のロマンとして、気軽に描いたものです。
自分でハガキに印刷して、1枚100円で、友人の知り合いの美術雑貨店に並べてもらって売れました。(1枚しかないけど)
そのとき同じ店で、著作『本物の思考力』も1冊売れました。(1冊しかないけど)
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★次回予定の『歌』もそうですけれど、克服すべきは〈力み〉なのでしょうね。

その他、過去の作品を幾つか紹介します。

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霊的人生と結婚(2) [霊的存在]

私が幼少に頃、母に尋ねました。
「人はみんないつか死んじゃうのに、どうして生まれてきて生きてるの?」
すると母は、
「死ぬまで生きるのよ」
と答えるだけでした。
今思うと、最近聞いた『禅宗の坊さんの言葉』のようです。
周知のように、それ以来私は「考える人間」になったのです。
今やスピリチュアリズムに則って霊的行動を意識するまでになりましたが、どちらかというと「少年」すなわち「男」の思考や行動なのでしょう。
母はやはり「女」なのだと思います。
言ってみれば、「女性の悟り」でしょう。

4月6日、3カ月以上前のことです。
老人ホームでの夕食中、母は急に身体が震え出して、職員が救急車を呼び、その間手当てをしました。(高熱になり、嘔吐し、そのとき私は覚悟しました)
救急車が到着してから30分かけて探し当てた病院に緊急搬送された後、一時の危機を脱して、酸素マスクが不要になった頃合いに私に言うのでした。
「あなた、私より長生きしてね」
私は少し笑いながら、
「男はね、だいたい80歳前後なんだよ」
「95歳まで生きないよ」
と言いました。
しかし母は何を思ったか、
「それじゃ、あと5年ぐらい?」
と呟いたので、私は咄嗟に、
「わからないよ」
と答えて誤魔化しました。
長生きすることにどうしてこだわるのか?
何の意味があるのか?
そのときはよくわかりませんでしたが、あの幼少の時の母の返答と重ね合わせると理解できます。

翌日私が、
「またしばらく会えないけど元気でね」
と告げ、母が、
「どうしてよ」
と声を張り上げ、姉が、
「病院だから」
と説得させてその場を離れました。
半月が経って、担当医による説明を受け、短い時間ながら面会した時は、母は少し元気がなくなっていました。
担当医によると、本当は今日、施設の提案をするはずだったのですが、今日になって急に感染の数値が上がってしまったので、これからまたもっと強い抗生剤の治療をするとのことでした。

すっかり反応が遅くなった母は、私の顔をしばらく見つめた後、ボソッと呟きました。
「私の宝…」
けっして親孝行したと言えない私は、母にとっては自慢の息子ではなくとも宝であることには間違いないようです。

入院する前から母は私に何十回も繰り返し言っていました。
「あなたが生まれた直後に占い師に、『この子は必ず貴女のためになりますよ』って言われたけど、当たったねー」
私はそれに対して、
「それは単に九星気学の五行の関係で言ったんだよ」
「(母の)九紫火星と、(私の)三碧木星が【相生】の関係だから」
などと、少し興覚めした言い方で納得させたのですけど、母はすぐ忘れてまた言うのでした。
病床にあっても、常の私たち子孫のことを気遣っていて、
「あなたが健康であればそれでいいの」
と言います。

それでまた2週間後に来ることになりました。
そして2週間後、担当医から、
「あの直後にひどい下痢を起こしまして、どうもまったく別の菌が入り込んでいたらしく、点滴ではなく、飲み薬で治療したんです。それで食事もとれていないということなんです。」
と説明がありました。
その後は、静脈の点滴となったのですが、貧血になり、ギリギリの数値なので、輸血をしたりと、とにかく予期せぬことが次から次へと起こるので、とても退院して施設に移る状態ではなくなりました。
おまけに、その病院は、コロナが5類になっても、面会緩和の話がまったくなく、2週間に一度だけなのです。
これでは母にとって何の励みもなくなってしまうのではないかと思い、面会できる病院に移してもらうことさえ考えていました。
それにしても、こんな状況の時に会えなくなるなんて夢にも思いませんでした。
パンデミックで面会禁止なんて、誰が予想したでしょうか?
50年後の人が聞いたら、「なにそれ?」と言って笑うかもしれません。

繰り返しますが、母は何より私(と姉)が健康でいることを望んでいるのです。
母がいなくなった後に、私が沈んでばかりいたら母は嘆きます。
然らばどうするか?
パートナーを見つけることです。(えっ?)
母も何年も前から、
「誰か(私と一緒に暮らす女性が)いないかしら」
と心配していましたし、私がある中国の女性と一緒にいたことを話すと、
「その人がいいの?」
などと言って、いつも気にしていました。

少し前までは、経済的な理由もあって、今の家を売るか貸すかして、残りの20年を辺鄙な土地の安い物件に移り住んで、悠々自適に過ごそうと思っていました。
でも、この半年余り独り暮らしをしてみて、独り暮らしが自分には向かないことがわかったのです。
以前にも言いましたが、もともと私は独身主義者ではありません。
よく、独りは自由だとか気楽だとか言うのを聞きますが、私はそうは感じません。
生活に張りがないとしか感じないのです。

30年以上前のこと、父は亡くなる3年ほど前に、私に結婚のことを聞きました。
私はそのとき、
「いや、結婚しなくてもいいよ」
と言ったのですが、父はすかさず、
「でも結局、結婚しなきゃならなくなっちゃうんだよ」
と答えました。
私はそのとき意味がよく分かりませんでしたが、今はわかります。
頭ではなく、「身体」でわかります。

単なる物質的生活でもそうです。
仕事や外出の帰り、買い物をするのでも、今までは、
「これを買って帰れば、母が喜ぶかもしれない」
とか、
「試しに食べてみようか」
「これを鍋に入れてもらおうかな」
などと、いろいろ考えることができて、新しい発見があったり、失敗したり、生きている感覚がありました。
でも今は、陳列されている商品を見ても、
「ああ、どうせ独りなんだから、買っても余ってダメになるだけだし、簡単に済まそう」
という発想になってしまいます。
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もしこの先、経済的に余裕ができて遊んで暮らせても、誰かのためにこうしようとか、何かのためにああしようというものがなければ、死んだも同然です。
著作などのライフワークはあるとはいえ、それは普段の生活があってこそ活性化するのです。
人間とは、煩わしさの中に存在の意味があるのであって、観想的な生活に中には「霊的進歩」はありません。
冒頭の『禅宗の坊さんの話』のように、5年なら5年、30年なら30年、とにかく生きている間に充実した活動することが霊的進歩になるのです。

今住んでいる家は、築43年で建物の資産価値はありませんが、屋根は2回直し、床も直し、トイレも何度か直したので、壊すのはもったいないほどで、住むには良い状態です。
駅から徒歩7分、売っても大したことありませんが、買おうと思ってもなかなか買えない家です。
物質的条件はこれだけです。
残りの20年?を損得ではなく充実したものにすべく、この家を条件に素敵な(?)女性と過ごすのが最善だと思うようになったのです。
それが母親に対する「孝」に値すると考えます。
「今(62歳)から婚活?」
「それはかなり難しいのではないか?」
「全敗記録を更新する気か?」
という人もいると思います。
確かに難しいと思います。
《異星人》の一時の気の迷いか?
ある知人にその意思を伝えると、
「ハセガワさんのことをわかる女性はいない!」
「男だってほとんどいないよ」
「わかるのはオレだけか(笑)」
とキッパリと、たしなめられました。
でもどうでしょう?
感覚的にわかるとか理解するとかということと、結婚は別ではないでしょうか?
もとより私は、どちらも期待していません。
なぜなら、男と女は「別の生き物」だからです。
考えてみてください、今結婚している男女はわかり合っているのでしょうか?
理解しあっているのでしょうか?
そうではありません。
ただ契約して、一緒に生活しているのだと思います。
私も一緒に生活する「(深い意味での)パートナー」を求めているだけです。
それでも難しいでしょうけど。
〔ただ一緒に住む女性なら、いなくはないのですが・・・例の中国女性(51歳)〕

以前言ったかもしれませんが、17年前に浅草橋のガード下のある有名な女性占い師に見てもらったとき、
「女性は見える」
「でも子供は見えない」
と言われたのです。
どちらかというと「霊視」に近い感じでした。
その女性とは誰のことなのか?
結果はどうなるのか?
わかりません。

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近況 [中庸]

母が再入院して3カ月以上が経ちました。
当ブログも前回から3カ月が経とうとしています。
その間いろいろありました。
ブログは、1年前の事件以来、訪問者が激減して、回復の兆しがありません。
私は見切りをつけて、ネットのコメントに時間と労力を注いでいました。

ネットの記事はと言うと、これまた投稿者やマスコミがあたかも〈ユダヤ〉の回し者のようで、明らかに「愚民政策」と言えます。
「地上の善悪」に終始して見えなくなっている人(ユリゼンの僕)たちや、「社会的成功=幸福」が当たり前でそれを前提に損か得かの議論を進める人(ベリアルの子)たちで溢れかえり、とても霊的な人生など入り込む余地がないほど日本は地獄と化しています。
往年のTV番組の名を借りれば、
「〈野暮天島〉に〈奴隷の王国〉あり」
と言ったところでしょうか。
(奴隷とは、ユリゼンやベリアルといった〈偽神〉に帰依しているという意味)
中でも、「犯罪者」に対しては、無条件に叩き潰す人が多く、1年前の事件に関しても、
「盗人にも三分の理」
を唱えようものなら、その人に対して、
「犯罪を正当化(肯定)するのか?」
の一点張りなのです。(アホか?)
明らかに地べたにへばりつて見えなくなっています。(地獄を作っている)
超越できる人は、
「正当化」
などしていないのです。
「カエサルのものはカエサルに」(神のものは神に)
なのです。
それがわからない人が、日本には溢れています。
きたよしお氏も大川隆法氏も、日本は地獄に行く人で溢れていると言っていますが、そういうことです。
〔*法律万能主義だけで「法治国家では、法こそが神である」という感じで思っているのだとしたら、「それはちょっと違います」ということは言っておきたい。〕(大川氏)

それでも私が執拗にコメントしていたからでしょうか(?)、だんだんネットの参加している人の考えが変わってきたような気がします。
たとえば、少子化の最大の原因は【男女平等】であり、その原理を事細かく何度も何度も、仮にいくら叩かれても、「これでもか」というくらい、コメントしました。
その結果、最近では「賛同」する人が6割を超えました。
それと、「差別」について、今年の初めに当ブログ(Facebookにも投稿)で掲げたためか、「一方的な差別撤廃」を訴える記事があまり見られなくなったような気がします。
まあ、気のせいだとしても、自分が世の中に影響を与えているという実感はあり、収穫はあったと思います。
ネット記事と私のコメントをいくつか掲げます。

?《とても先進国とは言えない」日本、世界最底辺の男女格差 世界125位…特に深刻な政治分野、岸田政権の「女性活躍」は本気?》
【私のコメント】
「人口の半数を占める女性がその能力を十分に発揮できない国に未来はない。」?
・・・・・その「女性の能力」とは何ですか?
男と同じことをすることですか?
もしそう思うのなら、未来はありません。
〔▲72 ▼9〕
?《日本の女性役員比率,G7で大差の最下位30%達成ハードル高く》
【私のコメント】
「女性が活躍できる環境の整備は出生率の引き上げにもつながる」?
・・・・・逆効果です!
〔▲11 ▼0〕
[☆]《女子生徒と性行為,男性教諭ら2人を懲戒免職 都教委》
【私のコメント】
女子生徒が被害届を出したんですか?
もしそうでなければ、問題にすることではありません。
(法律とは、何か問題が起きた時、というより誰かが問題にしたときに速やかに判決を下すためにあらかじめ用意しているものであって、意識して行動するためのものではありません)
(実際被害届を出していないし、合意。誰かに話して、聞いた人が通告しただけ。「合意でもダメ」と新たに決めたのなら、女子生徒のほうも処罰されるべきです)
〔▲27 ▼7〕
★《『少子化対策はすでに敗北』…今,本当にすべきことは“正規・非正規の社会保障格差”なくしと“高等教育の無償化”》
「男女ともに正社員で子供を育てているカップルが、東京では多いんです。」?
・・・・・それは、非正規の数が多いから、正社員の収入は相対的に価値が上がり、いわゆる「パワーカップル」でいられるのです。
全員が正規になったら、全員が非正規と同じであり、経済的に余裕がなくなり、子供は難しくなります。
「非正規雇用など経済的に不安定な人たちが結婚できない」?
・・・・・女性ならば非正規雇用者でも、正規雇用者の男性と結婚してうまくやっている人はたくさんいますよ。
でも、逆はありません。
いずれにしても、女性が正規雇用者ならば、上昇婚はあっても、結婚する「必要」はなくなります。
概して女性は、必要がなければ行動しません。
よって、男性の大半は、
「結婚できなく」
なります。
つまり、
「全員が正規雇用者」[→]「少子化が解消される」
は幻です。
まあほとんど不可能ですが、これしかありません。
「男性全員が正規雇用者で女性が専業主婦または非正規」[→]「自動的に子供が増える」
〔▲8 ▼1〕
まあとにかく、少子化対策に関しては、ピントがずれているのと、〈平等〉が先立ってそれを前提に思考が働いているため、男女の根本的な「性差」を考えていませんね。
それから、貨幣価値は「相対的」ということが分かってない人がなぜか多すぎます。
また、いつも言うように、法で取り締まれば世の中が良くなるとか、道徳や法律で押さえれば良い人間になれる、と思っている人が相変わらず溢れていますね。
〈地上の善悪〉は単に秩序維持のための方便であって、仮のものだということ(国や時代によって変わる)が省察できていない人が多すぎます。

話は変わります。
母親のほうは担当医の先生が細かく治療を施してくれて、なんとか身体は維持しています。
ただ、認知症が進み、反応が悪くなり、会話の内容がわからなくなりました。
6月から面会が私の家族だけ「フリー」になり、私は一日も欠かさず母に会いに行っています。
1時間ほど居て、手と足と頭のマッサージをし、刺激を与えています。
ただ、無意識に点滴を抜いてしまう恐れがあるので、両手はリストバンドと紐でベッドの囲いのパイプに繋がれて、可動範囲が制限されているので、顔や頭が痒くてもなかなか掻けない状態です。
代わりに私が痒い所を掻いたりします。
「苦しい?」
と聞くと、
「苦しくない」
と答えるのですが、なにぶん点滴とバルーンカテーテル、食事は流動食のみ(食べるのは少しだけ)、おまけに両手を縛られているのですから。
こんな不自由な状態では、生きているのも辛いはずです。
今の母にとって、「私が会いに来ること」だけが生きる理由となりました。
それで毎日行くのです。
時折、顔を近づけて話すとき、
「あなたと別れたくない」
「一緒にあの世に行こう」
と、ボソッと言うのです。
私が、
「それはね、神様が決めることなの」
「自分で勝手に決めちゃダメなんだよ」
「一人ひとり順番に行くんだよ」
「この世ではいったん別れるけど、あの世、霊界ではまた一緒になるんだから、心配しなくていいよ」
母は、
「それじゃあ、化けて出る」
などと言うので、私は、
「それは、いちばんしちゃいけないことなんだよ」
「もし死んだら、先に逝った人たちが迎えに来るから、その人たちの言うことを聞いて、導いてもらうんだよ」
「そうじゃないと先に進めないからね」
まあ、そんなことの繰り返しで、ひと月が過ぎました。
去年母が入院してから7カ月が過ぎ、その間、有料老人ホームに入ったりして、費用も重なりました。
私の預金残高も年金受給までもつかどうか正直不安です。
でも選択肢はないので、成り行きに任せます。
もとより母と私は一蓮托生、というより一心同体です。
一緒にあの世に行くことはできませんが、経済に関しては母と心中ということになりました。


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死に対して(2) [霊的存在]

昨年度から同じ講師室の同僚となった1歳年上の公立高校上がりの数学教師(O先生)とこのまえ話をしました。
彼は妻帯者であり、退職金をもらって今後は遊んでも生活できる身分なのですが、
「ふらふらしていてもしょうがないでしょ?」
と奥さんから促されて、本人も言うように「暇つぶし?」に働きに来ているわけで、経済的には羨ましい限りです。
それで、今年は授業がすべて午前中という時間割表を見せてもらいました。
「えっ?午前だけなんですか?」
と私が聞くと、O先生は、
「実は父親の介護がありまして」
と答えました。
私はすぐに、
「ボクも母親が看取り介護なんですよ」
と言うと、彼はすかさず、
「私は去年、母親がそうだったんです」
「施設に入って、もう(認知症で)わからなくなっちゃってね」
私はただ、
「ああ、そうだったんですか・・・」
と答えるだけでした。
昨年度O先生は、まったくそんな素振りを見せなかったので、気が付かなかったのです。
私だったら、心情を隠すことができずに周りの人たちに覚られるでしょうし、むしろ知らせるでしょう。
そこで私は思いました。
「彼はなぜそんなに気丈でいられるのか?」
考えられることは私との境遇の違い、すなわち、「自分の家庭」があるということです。

一方の私は母親と生まれた時から離れたことがなく、特に父と別居し姉が結婚してからは、40年も2人で生活してきたわけで、母親がいなくなるということは、自分の身体の半分がなくなるのと同じ感覚なのです。
こうして母親がいつどうなるかわからない状態というのは、今のこの時点でさえ、寂しいとか悲しいとか苦しいなどという言葉ではとても表現し尽くせません。
もちろん肉体の死に関しては誰にでも訪れることとわかっていますし、役目を終えて、むしろ肉体の苦しみから解放されて自由な霊界へ行くというように積極的に捉えることはできます。
スピリチュアリズムに生きる私としては、本来なら明るく送りたいものですけれど、いざとなった時に、心情的にそんなに冷静でいられる自信がないのです。
それは、私が単に霊的に未熟だからなのでしょうか?

そこで、シルバーバーチの霊訓からの抜粋を見てください。

《死を悼むということは霊的知識が実際に適用されていないことを意味します。地上生活を地上だけの特殊なものとして区切って考える習癖を改めなくてはなりません。つまり一方に物質の世界だけに起きる特殊な出来事があり、他方にそれとは全く異質の、霊的な世界だけの出来事があって、その二つの世界の間に水も漏らさぬ仕切りがあるかのように考えるその習性から卒業しなくてはいけません。》
『シルバーバーチの霊訓(3)』(潮文社)p.42~43

《(亡くなった人を悲しむのは)一種の自己憐憫の情です。自分自身への哀れみであり、愛する人を失ったことを嘆いているのです。苦の世界から解放された人のために涙を流すべきではありません。(中略)
大部分の人にとっては、死は牢からの解放です。新しく発見した自由の中で、潜在する霊的資質を発揮する手段を見出します。無知の暗闇でなく、知識の陽光の中で生きることができるようになるのです。過ぎ去った日々の中に悲しい命日をもうけて故人を思い出すとおっしゃっいますが、いったい何のために思い出すのでしょう。そんなことをして、その霊にとってどんな良いことがあるというのでしょうか。何一つありません。》
『シルバーバーチの霊訓(8)』(潮文社)p.64

《苦痛と老齢と疲労と憂うつとから解放された人をなぜ悲しむのでしょう。暗闇から脱して光明へと向かった人をなぜ悲しむのでしょう。霊の本来の欲求である探究心を心ゆくまで満足できることになった人をなぜ悼むのでしょう。それは間違っております。その悲しみには利己心が潜んでいます。自分が失ったものを悲しんでいるのです。自分が失ったものを自分で耐えていかねばならないこと、要するに自分を包んでくれていた愛を奪われた、その孤独の生活を嘆き悲しんでいるのです。それは間違いです。(中略)
あなた方の悲しみは無知から生じております。》
『シルバーバーチの霊訓(3)』(潮文社)p.45~46

*戦死者の遺族に対してのシルバーバーチの言葉
《死んでいく人たちのために涙を流してはいけません。死に際のショック、その後の一時的な意識の混乱はあるにしても、死後の方がラクなのです。私は決して戦争の悲劇・恐怖・苦痛を軽く見くびるつもりはありませんが、地上世界から解放された人々のために涙を流すことはおやめなさい。》
『シルバーバーチの霊訓(5)』(潮文社)p.230

内容が重なりますが、この解説を添えておきます。
【霊訓の解説文】
〔*〕霊的真理によって霊界の素晴らしさを知りつつも、現実の死別に際してこの世の人々と同じように嘆き悲しむとするなら、それはせっかくの霊的真理を活用していないということになります。知識として知っているだけで、本当の理解には至っていないということなのです。真理を手にしたものの、実際には役立てていないのです。

〈死の悲しみは、自己憐憫(憐憫)の情にすぎない〉
死別を悲しむということは、「霊的事実」に照らすなら的外れです。その意味で、大半の人々は間違っていると言えます。死別を悲しむのは死んだ人を愛しているからだと思っているかもしれませんが、そうではありません。その悲しみは、実は死んだ人を愛しているのではなくて、自分を愛しているにすぎません。“死別を悲しむ”ということは、本当は自分自身を哀れんでいることなのです。

シルバーバーチの指摘は、あまりにも厳しすぎるように思われるかもしれませんが、霊界での他界者の実情を知れば当たり前のことと言えます。死によって霊界に行った人が悲しみ・苦しんでいるとするなら、地上人がその人を気の毒に思い悲しんだとしても問題はありません。

しかし実際には、霊界に行った人は地上の苦しみから解放され、心から喜び幸せに浸っているのです。地上時代より、ずっと幸せになっているのです。かわいそうだと思うことは、無知からの勘違いです。死別を悲しむということは、自分自身を哀れんでいるにすぎないのです。

〈死別の悲しみには利己性が内在〉
死別を悲しむことは、霊的真理を知らない一般の人々にとっては当たり前のことであっても、スピリチュアリストにとってはそうではありません。シルバーバーチは、死別の悲しみの中には“利己性”が内在していると厳しく述べています。

〔⁂〕死は悲劇ではなく喜びであり、決して悲しむようなことではありませんが、愛する人の死を前にしたとき、その通りに実践できる人はほとんどいないでしょう。しかし私たちは、常に理想を目指して努力していかなければなりません。それが真理を手にした者としての義務であり、責任でもあるのです。
最後に、愛する人との死別に直面して嘆き悲しんでいる人々に向けてのシルバーバーチの言葉を取り上げます。私たちは、シルバーバーチの言葉を自分自身に当てはめて、もし自分がこうした人々と同じような状況に至ったとしても、決して死を悲しむようなことはしないと決意を固めましょう。
【終】

みなさんどうでしょう?
「肉体の死は熟した実が樹の枝から落ちるようなもので、完成であり、祝福すべきこと」
「愛する人の死を悲しむのは、自己憐憫であって、自分が悲しいだけだということ」
「その悲しみを死者に付着させるのは間違いだ」
ということであり、シルバーバーチそのものはただ「これだけ」を言っているにすぎません。

でも、『解説文』〔*〕〔⁂〕は、頭でわかっていても実行できなければ、スピリチュアリズムはモノになっていないと言っています。
「理想」としながら「決意」とはどういうことでしょうか?
無理ではないでしょうか?

それに対して私は言いたいことがあります。
仏教ではもとより肉体の死そのものを忌み嫌いません。(浄土真宗では葬儀の後のお清めの塩はありません)
死に逝く人に対しては、霊的観点から完熟を祝福し、地上での愛に感謝します。
とはいっても私たちは肉体を持っているのですから、エゴもあり感情もあります。
今まで出来ていた意思疎通が以後急にできなくなり、ショックを受けるわけです。
自己憐憫は自己憐憫として認めながらも、悲しいものは悲しいのです。
それをいけないというのは寛容性がないと言わざるを得ません。
解説文を書いた人は日本人なのでしょう。
なにか、「死を悲しむ」ということにおいて、死者に手向けることと自己憐憫を一緒くたにしている感じがします。
死を悲しむのは、
「霊的観点に立っていないからだ」
すなわち、
「自己憐憫だということを自覚していないからだ」
と決め付けているかのようです。
そして、肝心なのは、
「自己憐憫=道徳的にしてはいけないこと」
という暗黙の前提のもとに言っているように思えるのです。
「道徳的に立派なこと」がそのまま霊的成長に繋がるとも取れます。
ここにも、日本人が陥っている〈性善説の履き違え〉が見られます。
輸血の拒否や合同結婚のように、
「霊界の掟をそのまま地上に反映させる」
というのもそうです。
ここに日本における宗教がカルト化する根本原因が見られます。

以前にも紹介した友人の死に対するW・モーツァルトのメッセージ、
「彼本人を可哀想だとは思いませんが、残された家族が可哀想でなりません」
を見てわかるように、明らかにモーツァルトは死そのものを忌み嫌うことがないにもかかわらず、友人の家族に対する憐憫を示しています。
キリスト教圏では、スピリチュアリズムの要素も浸透している一方で、地上の人間の利己性にも寛容的なのです。
理想はあくまで霊界の掟であり、地上では地上の事情を認めながら、完璧ではなく乗り越えるのが、地上経験における霊的進歩だと思うのです。
《カエサルのものはカエサルに、神のものは神に》
《煩悩即成仏》
これが健全な人間社会だと思います。

ともあれ、私はどう乗り越えるか?
長いので次回以降にします。

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五次元・霊界・空 [霊的存在]

霊界を体験した人の本を読んでいると、ふと量子論的に見た人の行動を思い出しました。
さらに、それが仏教の「色即是空」と結びついていると直感的に思ったので、少しだけ書いてみました。

★班長が「どこへ行きたいですか」と聞きますから、山の下の方を指して、「あそこの村に行ってみたいです」と言いました。すると「この前教えたとおり、意識をその行きたいところに集中しなさい」と言い、そのとおりにすると、また一瞬で村の前に来ていました。
〔きたよしお『(永遠の命が輝く)霊界案内』より〕

☆【『5次元世界への超扉(エハン・デラヴィ)』より抜粋】
〈共時性(シンクロニシティ)は主観的な世界と客観的な世界のあるつながりを見せてくれる〉〔ユング〕
すべては心の反映です。
自分の毎日の体験はすべて心の働きであり、それこそ般若心経の世界、仏教の世界です。
病気も、事故も、不幸も含めて、起こることは、すべて自分の心の反映です。
(※)偶然は、まったくありません。
シンクロニシティとは、そういうことを常に意識することです。
意識のレベルが高くなればなるほど、すべてが「共時性」というレベルになって、それよりさらに上のレベルになると、すべてが神になります。
・・・・・〔略〕・・・・・
何も起こっていないという心境を私たちは想像できない。
自分の心がすべてを引き起こしていることを自覚できるレベルになると、自分の行い、一つひとつの発想にものすごく責任感が生まれて、注意を払うようになります。
私が以前見かけたきれいな女性のことを思い出していたら、友達と一緒にレストランから出てくる彼女と出くわした。
それがシンクロニシティです。
「それは偶然だ」と思うかもしれませんが、そうではなく、私はそういうことに注意を払ったわけです。
・・・・・〔略〕・・・・・
〔当ブログ『5次元世界』より〕

✤物が在るか無いかは、観測されることで確定します。
これは迷える観念論者や実在論者に完全な「主客合一」のきっかけを与えてくれました。
もちろんそれより以前から、一部の哲学や宗教ではその省察を実践しています。
例えば、円周率(π)を小数で表した場合の末端の数は、未だに明らかにされ続けています。
それらは、はじめから定まっているとも言えますし、創っていくとも言えます。
主客合一やいわゆる「普遍論争の終結」は省察を実践すればできます。
でも物質となると、よほど深い悟りに達しないと難しいでしょう。
しかし、量子論は物質に関して実証してくれました。
「知覚されるまでは、神の観念(イデア・『空』)として存在している」〔バークリー・今回のNewtonから抜粋〕
〔当ブログ『量子論とスピリチュアル』より〕

《空》(くう)とは何か?
たとえば、数でいうと、一生に一度使うかどうかという数や使われる前の虚数単位iなどは、意識すれば有るとわかりますが、意識する前は「無かった」と言うと変です。
なぜなら意識に上らないことを感覚の目で「無い」ということはできないのですから。
それは理性(魂の目)で「空」というしかないのです。
意識されたものの上で、「有るか無いか(有即是無・無即是有)」は感覚で捉えることができますが、意識されるかどうか、「色即是空・空即是色」は理性で捉えるほかにないわけです。

私は30年前の著作の中で、
「多重宇宙論は、人の行動が一通りしか選べないことの省察だ」
と表現したのですが、要するに、何通りの宇宙がすでにどこかに同時に存在しているというのではなく、自分の意識が、『空』としてあらかじめ内蔵されている世界の中で、どこに集中しているかに尽きると思うのです。

繰り返しますと、量子論では「5次元世界」とか「並行宇宙」と言い、スピリチュアリズムでは「霊界」と言い、仏教では「空」と言うだけです。

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叔母さんより [霊的存在]

2カ月空いてしまいました。
理由はひとえに母のことです。
身体のことよりも、5カ月近く会っていないので、精神状態が心配で、私は仕事も生活もいまひとつ気が乗らない状態が続いているのです。

1月の初め、叔母(91歳)から電話がありました。
(叔母は母の入院する前にお金を援助してくれました)
「お母様はその後どうですか?」

・2カ月前に母が入院してから週に1回程、様子を聞いています。
・母は3日前には食事が満足にできるようになって点滴が外れて、少し元気になったようでした。
・ちょうど昨日、担当の看護師さんに連絡したときに、母の携帯電話から直接会話させてくれたのですが、そのあと非情な通達がありました。
「本当はいけないんですけど、面会できないということなので、特別に許可しているんです」
「大部屋なので、今後は携帯で話すのを控えていただきたいんです」
まあ、上からの御達しでしょうけど、厳しいものです。
・一昨日、私が出向いて面談をした退院後に移る候補の施設(老健)は、面会はリモートのみで週に1回で5分間、携帯電話は自分で操作できる人だけで看護師は補助しないとのことで、私はかなり失望していました。

それらを叔母に伝えたところ、叔母は少し間を置いてから、静かにゆっくりと、
「姉妹だから言うんだけどね、(母は)94歳でもうすぐ95歳でしょ、元気になるのが良いことかどうか・・・」
「私たち老人はね、生きてるだけでも辛いのよ」
と意味深長な話を始めました。
さらに、こう続けました。
「だって、(歩けないから)もう家に帰ってくることはないんでしょ?」
「施設の費用も高いでしょうし」
「とにかく、やるだけのことをやればそれでいいのよ」
「寒いし、こうちゃん自身、身体に気をつけてね」
どうやら金銭面の不安をも見透かされているようでした。
第4コーナーを回った私の人生を儘ならぬものとならないように気遣ってくれているのがわかります。
叔母は長い人生でまるで霊感を備えたようで、すべてを見通しているかのようです。

退院後の入居先を探していたのですが、特養は江戸川区だけで800人待、老健は「面会」ができるという条件を満たす所はほとんどなく、月一回あるいは週一回でリモートだけの所がほとんどなので、ソシアルワーカーさんから(高いけど)「老人ホーム」を提案されて、いくつか見学して、3月になってようやく「面会完全解禁」の所を見つけ、そこに決めたのです。(3月27日入居)
ただし、12日後に行った時、そこで言われたのが母の様態で、どうやら『看取り介護』になるとのことでした。
もう食も細くなって貧血気味だということで、入居先は点滴ができないため、食べなければそのまま枯れて衰弱死するだけなのです。
かといって、また病院に逆戻りなら、一定の期間延命はできますが、延命するだけであって、会えないまま終わります。
それなら、短くてもいいから、私たち家族と毎日会って最後を穏やかに過ごしたほうが悔いは残らないと思ったのです。
コロナ過でなければ、病院でも会えますし、点滴で延命という選択もありましたが、苦渋の選択となったわけです。

その後、私は姉と一緒に母が入居先で必要な道具や衣類を買ったり、母の口座を他に移すために区役所に行ったり、都(固定資産税)や水道局などいろいろと連絡したりしました。
これから、まだ「RKS」なる不明な引き落としを突き止めなければなりませんし。
しかも、先が短いという絶望の中ですから、なんとも気が重く、下っ腹と背中に重りをぶら下げたような感じです。

病院には週一回、テレビカードを届けるという口実で行き、担当の看護師さんに会って様子を聞き、看護師さんの操作の助けで、毎日携帯電話で直接母と通話をするようにしています。
また、毎朝動画か画像付きのメールを送ります。
「あと7日で会えるんだからね!」
「食べる習慣をつけるんだよ!」
老人ホームになるべく長くいられることを願ってそうするのがやっとです。

肉体の死は自然の摂理であり、人生の完成であり、霊的に言えば本来は喜ばしいことです。
もちろん頭ではわかっているのですが、修行が足りないのか、私は感覚的には素直に受け止められません。
みんなが通る道だから、宿命だからと自分に言い聞かせてはいるものの、やはり辛いものです。
せめて悔いの残らないように。
それだけです。
叔母さんの、
「やることをやればそれでいいのよ」
が、今になって耳にこびり付いて離れません。

ただ、私自身もそんな先のことではないということ。
それが唯一の慰めです。

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「差別」はあってはならないものなのか? [中庸]

なにやら、相変わらず「差別発言」をしたとか、責任をとるとか、世間を賑わせているようです。
まるで「差別」があってはならないこととして、それが当たり前のように、そしてそれを前提として話を進めているようです。
でも本当にそうでしょうか?
私はたまらず書き込んでしまいました。
同じく疑問を持つ人は一読ください。
ではなぜそうなってしまったのか、その根底にあるもの、そもそも「差別」とは何かを掘り下げてみたいと思います。

今の中国の動画を視た人も多いと思います。
理髪店に入ろうとする客に、店員が、
「(新型コロナ)陽性になったことがありますか?」
と聞きました。客が、
「ない」
と答えると、店員は、
「ダメ、ダメ」
と言って、追い返しました。
感染したことがあれば店に入れて、なければ入れません。
陽性経験者が多数派で未経験者が少数派のため、もはや「はしか」のような扱いです。
その客はちょっと不平を言ったものの、「本人のため」という理由もあり、納得して渋々帰りました。
もちろん納得がいかない客もいるでしょう。
これはれっきとした「差別(区別)」です。
正当か不当かは当事者が決めることであって、はじめから正当か不当が決まっている差別(区別)はありません。
要するに、問題にするかしないかだけです。
いずれにせよ、〈第三者〉がとやかく言うことではありません。

2年前頃だったか、ある国の飲食店で、「ワクチン接種済み」か「ワクチン未接種」かで、席を「内と外」に分けている光景を見ました。
いわゆる「ワクチン差別」です。
ほとんどに人は不満はあってもそれに従いましたが、中にはそれを「不当だ」と訴える人もいたようです。
私が客なら、やはり従います。
不愉快ではありますが、この差別は社会の「義」に基づく「必要な差別」だと判断するからです。

何が言いたいかと言うと、よく世間では、
「これは正当だから差別ではない、区別だ」
「これは不当だから差別だ」
と勝手に「差別」の定義をして、
「あってはならないことをしてはいけない」
と「何様だ!」と言いたくなるほど口出しする人がいます。
しかし、言動や行動そのものにはじめから客観的に「正当か不当か」が決まっているものなどないはずです。
よって、〈第三者〉が口出しすることは滑稽であり無意味です。
「何かおかしい???」
「変な思考の迷路に嵌まっている」
「いつからなのか?」
「どうしてなのか?」
そこで私は、もともとはどうだったのかを調べました。
高1の時に古本屋で買った『大日本國語辭典』〔松井簡治・上田萬年編 大正十年初版〕を引きました。(状態がボロボロで、手が汚れました)
【さ‐べつ 差別】 区別すること。ちがひ。けぢめ。しやべつ。白居易詩「一音無差別」
【さべつ‐かい 差別界】(名)物事の差別ある世界。平等ならざる世界。即ち、現象界。
【さべつ‐くぁんぜい 差別關税】(名)原産地の差別輸入方法の差異。船舶國籍の異同、協定税率の區別又は報復等によりて、同種類の商品に課する税率に差別ある關税。

見ての通り、昔の辞書には【差別】に卑下、侮蔑、迫害などの負の意味は一切ありません。
もともとは、【区別、差異】と同義であって、当人の都合(損得)で人や物事を分け隔てる限り、意図に関わらず結果として他の人に利害損得が生じることはあっても、はじめから一方的に〈悪〉だという意味はありません。
まして、「あってはならない」という暗黙の条件などは付加していません。
上記の〈差別界=現象界〉とは、人間の視点で地上の出来事をとらえれば必ず「差別」があるということです。
よって、人間が社会に生き、都合で言動や行動をする限り、原理的に「差別・区別・差異」があります。
言い換えれば、社会生活を営む上で必要だということです。
(後年の慣習からか、後年の辞書に、「卑下する」という意味を付け加えたようです)
(また、学校では、区別や差異とは別の意味として教えているようです)

行動とか措置で差別・区別するのなら、利害がはっきりするのですが、言葉で差別・区別するといういわゆる『差別用語』となると厄介です。
言葉を発する側が悪意をもっていようと善意を持っていようと、卑下しようと称賛しようと勝手であり、外部からはよくわかりません。
受け取る側も悪意ととるか善意ととるか卑下か称賛か勝手であり、予測できません。
当然、当事者同士はいちいち気にしていたらキリがないので、たいがいは問題にしません。
厄介なのはある手の〈第三者〉が「問題」にするということです。
それが「差別」あるいは『差別用語』の誕生です。
差別・区別が正当か不当かは、当事者にとって様々であり、その当事者が決めるわけですから、言葉そのものにはじめから正当や不当が備わっているわけではありません。
正当か不当かは、原因ではなく結果です。
言葉に『差別用語』と「差別用語でない語」があると言うのは誤謬です。
よって、『差別用語』なるものは幻です。
〔(1970年代)父:メクラはメクラだよ・・・これがすべてです〕
[☆]「〈客観的絶対的な時間空間〉が前提に在って、それを見ている」という「唯物論(実在論)」と同じ顛倒妄想です。〔詳しくは当ブログの『実在論』にあります〕
[☆]「神盲信」も神がどこかの空間を占めて客観的絶対的に存在するとする妄想です。

現代のその手の〈第三者〉は、その『差別用語』なるものに、「卑下、侮蔑、迫害」の意味を勝手に付加したうえで、「あってはならないこと」という条件をはじめから付加されているかのように前提として話を進めるのですから、常軌を逸していると言わざるを得ません。
しかも、対象となる人がどこにもいないにもかかわらず、ただ『差別用語』なる言葉を発するだけでその人を非難するのですから、はっきり言って狂気の沙汰です。

★その手の〈第三者〉とはどういう人なのか、どういう誤謬に陥っているのかが今回の『焦点』です。(もっとも、過去に扱っていますが)

昭和50年代頃からか、「差別」や『差別用語』なるものをやたらと取り沙汰するようになったのを覚えています。
ではなぜそうなってしまったのでしょうか?
なぜ「差別」とか『差別用語』とかいうものが取り沙汰されるようになったのか、根底には何があるのか、その根本原因を考えていただきたいのです。

30年ほど前のこと、同僚のある数学教師が『差別用語』なるものにいつも敏感で、ある時、誰かがある人の姿を見て『福助』という言葉を発したのを問題視して、言った人を問い質したというのです。
hukusuke2.jpg
『福助』はある種の身体障害者を卑下する『差別用語』だというのです。
それを聞いた私は、その話をした人たちに咄嗟に言いました。
「福助は福助でしょ?」
「そんなことを言ったら、石原3丁目の福助百貨店つぶれちゃうよ!」
その後、機会があった時に、私はその同僚をいつもの調子で真摯に説得し、幸いそれを機に呪縛が解けたようでした。
その同僚の数学教師はいわゆる「左翼思想」に染まっていたのです。

言葉はみな区別・差異・差別です。
すべて人の都合(損得)で分けているのです。

案外気がつかないことなのですが、忘れてはならないことは、差別(区別)することで、「不利益」を被る者がいれば、必ず「利益」を得る者がいるということです。
求人で「50歳未満」という条件を付ければ、当然50歳未満の人は優遇され、50歳以上の人は冷遇されることになります。
アメリカにおいて、白人が黒人を物理的に冷遇するいわゆる「人種差別」は、同時に白人を「優遇」することでもあります。
不利益を被る側が「問題」にするものですから、その手の〈第三者〉が「差別」と聞くと「負」の意味が付随してしまうのです。
では、徴兵制が始まったとして、「男子のみ」という条件が付いたとしたら、それは男性は優遇され、女性は冷遇されているのでしょうか?
それとも逆でしょうか?
少し迷うと思います。
いずれにしても、これらはれっきとした「人種差別」、「年齢差別」、「性差別」です。

特に「権力者や影響力のある人」の言動や行動の場合、それによって他のある人が物質的および心情的に利益や不利益を被ることはあります。
〔白人が権限を握っているアメリカで、黒人に卑下して(しなくても)「黒」と言うと、それは黒人にとって物理的に「不利益」に繋がるから問題になるのであって、ケニアやタンザニアで「黒」と叫んでも、アメリカで「白」と叫ぶのと同じで、誰も問題にしないでしょう〕

そこで、あなたの言動や行動を振り返ってみてください。
あなたの言動や行為によって「他人に利害が生じない」と言い切れるでしょうか?
何らか影響があるはずです。
それを当事者が「問題」にするかしないか、解決するかどうかだけのことです。
でも、たいがいは問題にもしません。
なぜならあなたは、たいがいは権力者や影響力のある人ではないからです。
いずれにせよ、〈第三者〉がとやかく言うことではありません。

〈第三者〉でありながらとやかく言う人というのは、地上の道徳や世法を〈仮のもの〉と弁えず、それを司る偽神(※ユリゼン)に帰依してしまっている人です。
他人のことを「良く言えば」とか、卑下しなくなれば、その人の人間性が高まり、世の中が「良くなる」と思っているのです。
でもそれは幻想です。
人の中身は変わりません。
これは《性善説》の履き違え〔地上の〈善〉の延長上に本物の《善》があると思い込んで追求すること、またそれによって〈悪〉が消えると思い込むこと〕です。
地上の〈善悪〉は単なる秩序維持のための方便にすぎません。

【※ユリゼン信仰者・ユリゼンの僕】
(左翼系の人、理系の人に多い、悪平等に染まった人、偽善を認めない大偽善者)
・侮蔑とか卑下とか迫害をなくせば、世の中が良くなると思い込んでいる人、
・警察が徹底的に取り締まれば世の中が清浄になると思い込んでいる人
・六法全書を持ち歩いて、法律に触れないように常に注意を払って行動すれば良い人間になれると思っている人
・思考が常に「平等」から出発する人
・子供にしつけるときに言い聞かせる〈地上の道徳〉を大人になっても常に意識し、大人に対しても言い聞かせる人
・「人に見られて困るようなことをするな」と他人に言う人(とは言うものの自分が出来ていないことに不甲斐なさを覚え自虐的になっている人)
・しかも以上のことを、皆がするべきだと思っている人

地上人はみな「悪善(偽善)」から逃れることはできません。
いくら地上の道徳で表面は変えても人の思うこと(心の中)は変えられません。
肉体と知性がある限り「エゴ」は消えませんし、強欲がある限り詐欺や殺人はなくなりません。
ただ、利害が生じた場合に、問題にして解決をして、ひとまず秩序を保つだけのことです。
世に言う〈勧善懲悪〉とはこれだけのことであって、人間の幸福そのものをもたらすわけではありません。

真の平和、霊的な《善》は、「中庸」を得ることです。
すなわち地上の「悪善(偽善)」を霊的視点を設けて超越することで得られます。
ただし、中庸を得たからといって、地上的に犯罪や不道徳を起こさないとは限りません。
むしろ聖人の域に達すると、地上の掟(〈善悪〉)にはむしろ無頓着になるので、処世術に長けた「地上の住人」よりも地上の法に引っかかる可能性があります。(『洞窟の比喩』:イエスもソクラテスも受刑者です)
超越は否定ではないのです。
《ミロクの道は悪を抱き参らせてこそ進む(日月神示)》
ここを見直さなければ、上述のような低俗な言い争いが永遠に繰り返されることになります。
地上の「問題や犯罪」をなくすのではなく、自分の中の「無益な争い」をなくすのが天国なのです。(「解決」ではなくなりません)

それから、もう一つの要因として「平等」という〈劇薬〉の副作用があります。
そこでまたまた、中矢伸一氏のブログから一部を拝借しました。

《「差別」や「平等」という言葉に騙されるな》〔2020.06.08〕
当然、人種による差別はいけないことですし、男女は人として平等であるべきですが、そういう聞こえの良い言葉を表に立てて、裏では秩序や伝統を破壊し、最終的には国そのものを潰そうとたくらむ、悪魔のような人々がいるということです。
またそういう連中に何の疑いもなく騙されてしまい、自分たちが正義の行動をしていると本気で信じてしまう大勢の「善良な」人たちがいる。
日本国内にもたくさんいます。
▲ヤコブ・モルガン氏も指摘しています。
・男子を軟弱化し、女子の闘争心をあおる。
・マスコミを総動員して愚民化をはかる。

日月神示には、ここのところが小気味いいぐらいにハッキリ書かれています。
【引用】
「差別、則(そく)平等と申してあろう。取り違い禁物ぞ」(『冬の巻』全1帖)
「平等愛とは、差別愛のことぞ。公平という声に騙されるなよ」(『黄金の巻』第56帖)
「悪平等は悪平等ぞ。世界丸つぶれのたくらみぞ」(『黄金の巻』第88帖)
「平等とか公平とか申すのは悪魔の罠(わな)であるぞ、天地をよく見よ、人民の申すごとき平等も公平もないであろうがな、一寸伸びる草もあれば一尺伸びる草もあるぞ、一寸の草は一寸が、一尺の草は一尺が頂天であるぞ。これが公平であり平等と申すもの」(『五葉之巻』第9帖)
「区別すると力出るぞ、同じであってはならん。平等でなくてはならんが、区別なき平等は悪平等である」(『月光の巻』第7帖)

こうした神示は、日月神示の後半部分にあたる「下巻」や「五十黙示録」に多く出されているのですが、日月神示を批判する人の中には、とくにこの後半部分を「偽物の神示だ」と決めつける人が多いのです。
さて、それはなぜでしょうか・・・?【終】
〔?昨今話題になっている杉田議員は、まさに神の意思を言葉に表していると言えます。男女の根本的性差と役割を説いている貴重な人物です。〕(実は賛同者多数)

みなさん、どうでしょうか?
『平等=善、差別=悪』の呪縛から解放されたでしょうか?
もとよりあなたは、はじめから呪縛されていない人でしょうか?
それとも『日月神示』を「偽物扱い」する人たちの1人でしょうか?

概して世間は、相変わらず「唯物論(実在論)」、「ユリゼン(偽神)信仰」、「悪平等」、「性善説・性悪説の曲解」で溢れ、思考が地上にへばり付いています。
私も相変わらず、真の平和を実現するために微力ながら少数派として「(?)可能性のある少数派」の人たちに働きかけています。
【?】考える切っ掛け、すなわち「道」を与えられても、「それができるのは聖人だけだ」と言って拒絶し居直る人がたくさんいます。
最後にオマケとして最新のネット記事を掲げます。

〈「差別だ」日本の水際対策を中国が批判 検査&隔離代も全面的に負担しているのに…〉
【周氏は「日本に対する非難の声も徐々に高まりを見せています。しかし、個人的にはPCR検査や隔離にかかる費用を全面的に負担する日本政府の対応は好意的で、差別的には見えません。また現在、変異株のゲノム解析を行っていない中国からの入国者に対して行っている水際対策は当然の措置と言えるでしょう。中国側の『差別』との主張は根拠に欠けるのではないでしょうか」と指摘している。】

《私のコメント》
必要な差別です。
ある人に対する言動や行動はすべて「差別(区別)」です。
問題にするかしないかだけです。
ある人にとって「不利益」が生じるということは、別の人にとっては必ず「利益」があるわけです。
この場合、中国の人にとっては「不愉快」でしょうけど、日本の平和のためには(義において)「必要」です。
言葉を正しく使ってください。
《終》
ところが、反応は〔良5・悪1〕で、理解者はいるものの、今一つであり、他の人たちのコメントに賛同する人のほうが圧倒的に多いのです。

〈他の人たちのコメント〉
・左翼共産は二言目には差別だ、だな。
同じ穴の狢が日本にも生息しているから分かりやすいな。
もう騙されないで皆さん。
・来るな塵共。
・日本も中国人にビザ発給停止すればいい。
・日本も中国からの入国禁止措置を執れば良い事だ。非常識国家中国に文句を言っても始まらない!
・内政干渉しないでもらいたい
・中国人の入国を原則禁止に
共産中国への渡航を原則禁止にしましょう。
〈終〉
反応はだいたい〔最良7・良5・悪1〕です。

要するに、他の人たちのコメントはただ「分かり易い」というだけで、なぜ、
「差別がどうのこうの」
と騒いで非難し合うようになったのか、その根本原因を突き止めて無駄な論争を止めようとはしません。
宗教に関しても、何か事があると、大衆は「寄付金」や「癒着」といった組織の堕落にばかりに焦点を当てて、その根底にある「盲信」の原理の解明と解消にはまったく関心を示しません。
私はいつもそれが歯痒いのです。
世間はみな「地上的な解決」はするけれど、〈地上的な善悪〉を「超越」する動きはないということです。

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