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目には目を [中庸]

ネットを見たら、10万人のフォロワーがいるというMさんの記事がありました。

【引用】
『聖書の教え「目には目を、歯には歯を」、誤解されやすいフレーズの「意外な真意」 「復讐の連鎖」を望んではいない』

《目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を、火傷には火傷を、傷には傷を、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。》(出エジプト記21:24~25)

「目には目を、歯には歯を」と言うと、「相手にされたことを、同じだけやりかえしてやれ」と、復讐を肯定し推奨するフレーズだと思っている方が少なくありません。
しかし実は聖書が意図しているのはこれとは正反対に、過剰な復讐を抑制することなんです。
このフレーズが真に意図することは「目をつぶされたとしても、相手の目をつぶすだけにとどめなさい。歯を折られたとしても、相手の歯を折るだけにとどめておきなさい」ということです。
一昔前に「倍返しだ!」なんて言葉が流行しましたけれど、この言葉が象徴するように人間というのはついつい、人に何か嫌なことをされると、相手にはそれ以上に嫌な目にあってもらわないと気が済まない、と思ってしまう性質を持っています。
それは聖書の時代から同じだったようで、当時は「片目をつぶされて頭にきたから両目ともつぶしてやった」とか「歯を折られて頭にきたから殺してやった」とか、過剰な復讐が横行していました。
これをやってしまうと、復讐から復讐の復讐、さらに復讐の復讐の復讐……と復讐の連鎖が止まりませんし、連鎖するたびに行為はエスカレートしていきます。
現代の刑法にも通じる聖書の教え
「倍返しだ!」の例で計算すれば復讐で2倍、復讐の復讐は4倍、復讐の復讐の復讐は8倍……と、雪だるま式に、難しい言葉で言えば指数関数的に行為がエスカレートしてしまいます。
あのアインシュタインさんは「人類の最大の発見は複利だ」と言ったとか言わなかったとか言われていますが、こんな調子で復讐がエスカレートしたら「一人殺されたから家族を皆殺しだ」「家族を殺されたから村ごと皆殺しだ」「村を滅ぼされたから国ごと滅ぼしてやる」と、あっという間に世界が滅亡しかねません。
だから神様はそんな人間を見かねて「目をつぶされたら目だけにしておけ。歯を折られたら歯だけにしておけ」と、復讐のエスカレートを止めたわけです。
そして神様は別の箇所では「復讐はしてはならない」とも言っています。ですから聖書全体のニュアンスで言うならば「復讐はダメ。でもどうしてもというのなら、目には目を歯には歯をくらいで止めておきなさい」くらいです。

神様は「復讐はわたしのもの。わたしが報復する」とか「自分で復讐してはいけません」とも言います。これは現代の刑法の理論にも通じるものです。
少なくとも現代日本の刑法ではいわゆる「仇討ち」を禁止しています。これは自分で復讐する代わりに、国や社会がその悪者に罰を下すから自分でやってはいけません、ということですが、これと同じことを刑法が確立するずっと前から神様は言っているんです。
せめて「倍返し」はやめませんか
つまり「悪い奴には私がちゃんとお仕置きをするから、君が自分でそいつにお仕置きしなくてもいいんだよ。君の時間と労力はもっと他のことに使うべきだよ」ということです。
「復讐は何も生み出さない」なんてよく言われます。それに同意する方も多いかと思います。しかし実際に自分が被害者になると、たとえ頭では「復讐はいけない」とわかっていても、心がそれを許さなかったりします。
そして社会や刑法による処罰も、「被害者はひどい目にあって死んでしまったのに加害者はのうのうと生きている」とか「詐欺で逮捕されて服役したけれど、出所した後は裕福に暮らしている」とか、必ずしも加害者をちゃんと懲らしめていると言えないことが多々あります。
そんな時には「やっぱり復讐は自分で」と思ってしまうかもしれません。
人の作った法では被害者に寄り添うことはできません。しかし神様は「最終的に私がすべてを完全に裁くから安心しなさい」と、被害者心理に寄り添ってくれます。
それは必ずしも目には見えないものですから、被害者たる僕たちは理不尽を感じることもあるかもしれません。だからこそ僕たちは往々にして復讐を自分でしてしまうものです。
だからこそ「倍返し」なんて言葉が流行したりもするんです。しかしだからこそ、せめて「倍返し」はやめませんか、と思うんです。
【終】

それに対して、何名かのコメントがありました。
【Aさん】
『聖書は、キリスト教の布教を理由に他民族を征服して植民地化するために造られたバイブルなのではないか?〇〇キリスト教会は日本人のお金を奪って韓国を豊かにする為に考えたと教祖(韓国人)が言っています。』

【Bさん】
聖書とかって他人を不幸にさせるための書物でしょ。
だから、争いが絶えないと感じます。そんなの捨てて人が喜ぶ事を考え、尽くす。その考えだけが真の姿かと。

【Cさん】
イエスに騙されての他国侵略の例は枚挙に厭いません。それを「神が最終的に…」などと言うのは詭弁そのもの。神の詭弁・駄弁によってどれだけの人間がこの2千年の間どん底に落とされてきたか、この人知っている…?

もうわかりますね。
Mさんの見解はとても聖職者のものとは思えません。
それに対する他の方たちも、ピントがズレていて、話になりません。
昨今の宗教団体の金銭や癒着の問題に目がくらんで、本来の宗教はどうかという肝心なことが何も見えなくなっています。
そのためか、「宗教」と聞いただけで、拒絶する人がほとんどになりました。
組織の腐敗をイエスのせいにするなどは、戦争を天皇のせいにするのと同じ思考です。
概して思考があまりにも「地上的」です。
(それでも賛同する人が多いのですから呆れます)

私はたまらずコメントしました。
もっとも、理解していただけるとは思いませんが。

【私】
イエスの教えと、キリスト教の教義は別物です。
後世の教会(組織)が信者を手懐けて教会の権威を保つために都合よく作り替えただけです。
イエスは聖人であって、地上の法(善悪)に関しては、具体的には言及しません。
(カエサルのものはカエサルに)
聖書は比喩で表されていますから、解る人にだけ解かるようにできています。
「特定の竿で測る者は、自らがその竿で測られる」
「人を裁くものは、自分も裁かれる」
わかりやすく言えば、
「1円を笑う者は、1円に泣く」
ということです。
お金が多いか少ないかを気にする人は、お金に「執著」があるということです。
ダンテの神曲の地獄篇に、「浪費家と吝嗇家」がいがみ合っている場面がありますが、同じ穴の狢であり、どちらも「自分自身を攻撃している」ということです。
イエスは、こういった「執著」や「地上の攻防」を超越すること(中庸)を説いているのです。
それを後世の〈地上の住人〉たちは理解できずに、曲解して、別のものを作り上げたのです。
【終】

コメントを書き込んでからすぐに食事と買い物のために私は外出し、お隣の市川へ行きました。
駅ビルを出たところで、あるキリスト教会の女性から一枚の印刷物をもらいました。
https://photos.app.goo.gl/zpyPbRtXfGqU9ABTA
宗教にとって逆風の中、果敢に活動しているのですから感心します。
でも内容は、相変わらず、「信じるか信じないか」という〈賭け事〉になっています。
(盲信だからかえって挫けないのかもしれません)
何が天国で、何が地獄か。
賭け事ではなく、上記の〈浪費家と吝嗇家のいがみ合い〉からもわかるように、自らの省察という実践によって覚ることなのです。
イエスはそれを促すように「道」を与えているだけなのです。
また、「永遠の命を与えた」というのは本来は、「自分=自分の肉体」ではなく霊的存在だという『霊的自覚』を意味しているのですが、この文章では、イエスの超能力者ぶりがかえって邪魔して、《永遠の命》を〈肉体の永遠〉と曲解させてしまいます。

私はもう失望のどん底です。
私の活動がどれだけ無力か、痛感させられます。
地上の経験もせいぜいあと20年。
母親もすっかり老いてしまいましたし、送る責務を終えた後は、残りの人生に何の意味があるというのでしょうか。
早く『故郷?』に帰りたいという気持ちです。

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律儀が過ぎると [中庸]

16年前のこと。
私はT校で1年間だけ常勤講師として高2の学級担任をやり、年度の終わりの3月中旬に修学旅行の引率をしました。
行きは、大回りになりますが東京駅から指定された時刻の「成田エクスプレス」に乗って、車内で他の教員と合流し、成田空港からオーストラリアへ出発しました。
成田エクスプレスの特急代は、あらかじめチケットを学校が用意してくれていたので、問題ありませんでした。
ただ、帰りはチケットが用意されていないので、自分で買って乗って、あとで学校に代金を請求する形となっていました。
ところが、成田空港から自宅までは、在来線のほうが近いので、「快速」で小岩まで帰りました。
数日後、学校で交通費の請求をするときに、学年主任に言いました。
「実は私、帰りは快速で帰ったんですよ」
「どう書いたらいいんですか?」
学年主任はすかさず言いました。
「成田エクスプレスの代金を請求すればいいじゃないか」
私は少しためらいました。
というのも、先に貰ったのならともかく、また当然貰うべきものとはいえ、
「ウソをついてまで請求するというのは誠実さに欠けるのではないのか?」
結局、先か後かの違いだけであり、快速の料金を調べるのが面倒くさいこともあって、成田エクスプレス代を請求しました。
もちろん律儀な人ならば、かたくなに拒み、しっかり調べて快速代だけを請求することでしょう。
それでは、私の行動は霊的に不正になるのでしょうか?
律儀な人に言わせれば、私の行動は明らかに堕落でしょう。
でも神の目から見ると、けっして許されないことではないはずです。
なぜなら、神は地上の人間の損得や〈善悪〉には寛容であり、「否定」はしませんから。
いわゆる「地上の住人」ならば、迷わず成田エクスプレス代を請求するでしょう。
「損得勘定で得だから、金銭のためならウソをついてでも貰うのが当然だ」
という思考が霊的不正なのです。
「迷いがないこと」が霊格の低さを表しているのです。
地上の〈損得〉に執著しているということです。

では私はというと、「その気」にならなかっただけです。
「誠実」が先立ち、迷いが生じ、積極的な損得の意識が上らなかったのです。
ただ、徹底はしません。
要するに、欲はあっても強欲はないわけです。
そういう在り方は、ある種の地上的成功者からは「無能」に見えることでしょう。
ここが分かれ目なのです。
ならば、「律儀な人」はどうでしょう。
損得の観点から見て「道徳的に立派」なのであって、争い事は起きませんが、徹底しているということは、むしろ地上的な「執著」が強いということでもあります。
霊格が高いということは、「カネ」がないことではなく、「カネへの執著」がないことです。

まとめます。
本来の神仏の光、メッセージ、宗教というものは、感覚的なことではなく意識に上らないため、インパクトがなく、つい地上的なことにすり替えて解決に走ってしまいます。
ある人が言う「機会平等」を「結果平等」にすり替えることもそれを顕しています。
喩えれば、健康な状態に戻すはずの「漢方薬」は効き目が弱く遅いために、つい即効性のある「西洋の薬」に頼ってその場を解決してしまいますが、それだけだと身体を蝕んでしまいます。
神仏とは何か、宗教とは何かを感覚ではなく魂の目で(省察で)とらえることが必要不可欠です。

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エクスタシー [中庸]

一方で、盲信者、特に神盲信者は相変わらず根っ子が深いようです。
ある仏教寺院の住職がある欧米の教会に行った時の証言です。
「十字架から下ろしたイエスさまをマリアさまが抱いている像なんですが、時空が歪むような聖性を感じて、その前から動けなくなったんです。」
住職はいっそのこと洗礼を受けようと思いましたが、周囲から止められたそうです。

そういう霊感の強い人はみな、おそらく霊が直接注入されるような「エクスタシー」を覚えることでしょう。
そして、キリスト教に嵌まる人たちはみなこう言います。
「それはキリスト教信者でなければわからない」
と。
でも、あいにくそれは神ではありません。
高級霊でもありません。
ハッキリ言いますが、そこに居るのは〈(大勢の)人の想念が作った低級神〉です。
一足飛びに天国に行けるように救いを求めて祈るおびただしい盲信者の想念が作った「アンドロイド神」です。
キリスト教だけでなく、イスラム教もユダヤ教も同様です。
このことは、ペトル・ホボット氏ほか「霊に通じている人たち(霊格が高いとは限りません)」のすべてが証言しています。【*】
もはやそれは宗教ではありません。
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聖書も他の聖典もすべて地上の人間の「言葉」で書かれています。
言葉は末端の表現であり、一面的で不完全です。
ところが、ほとんどの信者は、末端の表現に囚われ、「本質」を見抜けません。
エクスタシーを覚えたうえでのことですから、聖典を『聖遺物』として扱い、一字一句を付け足したり削ってはいけないという「盲信」に簡単に陥るのです。
結果、自分の宗教は「鵜呑み、鸚鵡返し」、他の宗教に対しては「ツバメ返し」、挙句の果てに、
「コーランを暗唱できない人質は射殺する」
となるわけです。

宗教とは(字のごとく)切っ掛けを与える「教え」があって、実践して「中庸」を得ることです。
人間の活動を何もしないで救われるのは「宗教」ではありません。
ダンテは神に一足飛びに天国に行けるように救われることを願ったのですが、それは許されず、直接天国へ行く道には猛獣が立ちはだかっていて通れず、やむなく地獄煉獄巡りをすることになったのです。
「可愛い子には旅をさせよ」と言うように、ペットを飼うように箱に入れるだけで旅をさせないのは本当の親ではありません。
同様に、息子を放蕩させないでシャブ漬けにして引きこもらせるのは本物の神であるはずがありません。
それでもシャブ中の息子はエクスタシーを覚えて、救われた気でいるわけです。
これはいわゆる「疑似天国」という地獄の一種であり、死後も続きます。
もちろん、教会に居座る霊的存在が本物の神かアンドロイド神か、霊能者でない私には判断できませんし、このシャブ中の息子たちも一般人である限り判断できません。
私は霊に通じている人たちの証言を受け入れることと、放蕩息子に放蕩させる機会を奪うということで偽物と判断するだけです。
宗教的体験と言っても、神や仏と出会うことは、けっして「エクスタシー」の体験ではありません。
ひとえに中庸です。
しかしそれを言うと、キリスト教盲信者は、
「そんな東洋のものとはレベルが違うんだ」
と言い張り、あくまでもキリスト教の優位性を主張します。
でも一説によると、イエスは若い頃にインドに行ってインド哲学やインド占星術を学んだと言われます。
イエスの霊感もただで開花したわけでなく、何らかの刺激があって地上人生に具現化されたのです。
だいいちに、キリスト教自体が4世紀に別なものに変えられています。
聖書も教会組織に都合よく書き換えられています。
それでも聖書におけるイエスの言葉は、私からすれば、すべて「中庸」を促すものとして読み取れるのです。
「中庸」とは、即非や絶対矛盾的自己同一、性善説と性悪説の正しい解釈など、あくまで自分の実践によって、地上の〈善悪〉や〈白黒〉を超越し苦難を乗り越えることです。
悪人正機(性悪説・機の深信)によって、
「もう自分は救われないんだ」
と思った(覚った)とき、《霊の窓》が開いて、そこに上から神仏の光が差し込むのです。(性善説・法の深信)
放蕩息子は自分の経験を機に自分の意思で帰宅するのです。
そのときの境地はけっして受け身の「エクスタシー」ではありません。
地上経験の課題を克服したときのこの上ない《充実感》(親鸞会の言葉を借りれば渋柿が樽柿になって甘味になる)です。

当ブログでいつか言いましたが、〔2021.1.5〕
ジャコウネズミ:「無駄じゃ、無駄じゃ、まったく無駄じゃ、すべて無駄じゃ」
スナフキン:「無駄なことをするのが人間じゃないのかね?」
がすべてを語っています。
と言っても、けっしてジャコウネズミが思い違いをしているわけではありません。
ジャコウネズミのおじさんは、長い地上経験の末にその境地に達したのですから、それでいいのです。
いけないのは、それをはじめから若者や子供に押し付けることです。
あくまで『本人によるその過程そのもの』が、地上に生を受けた意味なのです。

【*】ホボット氏によれば、《神道》は良い、《仏教》は「人間が他の動物に輪廻転生するということはないが、そのことを除けば良い」とのことです。

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スターシード [霊的存在]

《スターシード》とか《ライトウォーカー》とかスピリチュアルではよく言われます。
以前もヤコブ・モルガン氏の分類で、私が1割にも満たない「改革派」に当たることを言いましたが、特徴からして、私はどうやらそれらしく、その中のプレアデス(?)のようです。
どおりで、地球上の人間世界で起きていることを見ると、やけに地べたに這いつくばっているように見えるはずです。
もしそうなら、少数派ながら地球を光で満たす使命があってこの地球に生を受けたのですから、困難が続くのは当然のことです。

今、新興宗教の2世信者が虐待を受けたとか、偏見を持たれたとか、進学を断念したなど、実害を被ったと言って世間を賑わせています。
これは新興宗教に限らないことで、組織宗教には付き物です。
私から見れば、唯物論者は宗教に携わっていても、やはり唯物論者であり、思考や行動はあくまで地上的です。

エホバの「輸血(拒否)」にしても、統一教会の「結婚」や「養子縁組」にしても、キリスト教一派の「中絶(妨害)」にしても、霊的に正しいことと正しくないことを、一方的かつ一面的に地上の社会における人間の活動にそのまま反映させるというのがそもそも間違いです。

イエスの言った、
「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」
を理解できないようです。
地上には地上の事情があり、それを神は超越するだけで、「否定」はしません。
神のものをカエサルに返してはいけません。
霊的な正不正をそのまま地上の正不正に反映させるのは間違いです。
これは、世界中のあらゆる宗教団体が陥る誤謬です。
特に盲信者が多いキリスト教は顕著です。

地上的に「否定」するのではなく、矛盾を認め、含んで、ただ「超越(止揚)」するだけです。
地上的なこと、感覚的なことや損得勘定に、ただ走らなくなるだけのことです。
地上の住人にならずに、地上の旅人になることです。(ただし、インパクトがありません)
この「中庸」を促すのが本来の宗教の役目なのです。

他では、フェルメールの『真珠の耳飾りの少女』標的に 環境活動家が頭突きつけ赤い液体を撒くという事件が起きたようです。
この活動家は「破壊」の意識をもって破壊を抑えているだけであって、同じ穴の狢です。
だから同じ行為ができるのです。
地上的に善か悪かと解決するのでは進歩はしません。
SDGsもこの環境活動家と同じ発想で提唱されたのだと思われますが、地上の解決だけでは根本的に「人間の幸福」をもたらしません。
地上的な善悪を超越(止揚)するのが人間の道です。

私の母はいま入院していまして、入院する少し前から立てません。
トイレにも行けません。
そうすると、どうしてもこう思うのです。
「立てることがどんなに幸せか?」
直後に、13年前にあの修行僧が言ったことをふと思い出しました。
私が、
「自分のできることで世の人々に問い、働きかけ、貢献したい。」
と言うと、
「それは欲ですね」
「雨露をしのぐことができるだけでも恵まれていると思うことです」
私は、直感的に違和感を覚えました。
「これだ、あるルーテル教会の信者が、『仏教は我慢しているだけだ』と誤解する要因は、修行者側にもあるのかもしれない」
「東洋の修行僧は自己実現に終始し、愛がない」
と、エドガーケーシーが言いましたが、その分岐点がここにあるようです。
こういうところで、『足るを知る者は富む』の曲解が生まれるのでしょう。
幸福は地上的な〈達成度〉で決まるわけではありません。
ということは逆に言えば、「足るを知る」は、
「出来ることの程度を我慢すること」
ではありません。
そもそも幸福とは「目に見えること」や「感覚的なこと」ではありません。
呼吸にしても、飲食にしても、立って歩くことにしても、
「満足している時は何も感じない」
ということを知ることです。
「感覚の目」で見るのではなく、「魂の目」で見るのです。(ソクラテス)
そうすれば、地上的、感覚的な〈善悪〉を全速力で追わなくなります。
誤解のないように、念のために言います。
魂の目で見ることで「足る」を知ったからといって、それで《愛》に目覚めるということではありません
「足るを知る」を「地上における(目に見える)達成度の下方修正」とするこの曲解が、内向きの自己実現にとどめさせ、世に働きかける《愛》を阻んでいると言っているのです。
いずれにしても、目に見えないことを目に見えることに、感じないことを感覚的なことに、「意識に上らないこと」を「意識すること」に、「神のもの」を「カエサルのもの」に、「鉛直」を「水平」へすり替える誤謬があらゆる場で生じています。

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鉛直から水平へ [中庸]

ご無沙汰しています。
更新しなかった理由はひとえに世間を賑わせている旧統一教会の問題を起点になぜかアクセス数が激減したからです。
まるで宗教そのものや宗教を扱う人にとにかく関わりたくないといった感じが伝わってきます。
私は本来の「道」を促し、逆に組織宗教の間違いを根本的に正すべくずっと前から活動しているのであって、繰り返しますが、もしそうなら、町の美化に努めるごみ屋さんを「汚い」とか「汚している」と見るくらいに心外なのです。
まあ私の方の内容も新鮮味がなくなったことは否めませんけど。
と言いながら結局、私は最近の世の中を見ていて同じことを思うだけです。

相変わらず宗教に関して日本では、「宗教団体に入信する」か「無宗教」かの二者択一になっていて、上記のように関わりたくない人たちは「無宗教」が健全だと思っているようですし、入信者の中でも純粋に信じる人は認めるけど純粋でない信者は排除するべきだと、そしてそれを「カネ目的か否か」で分けているようなのです。
まったく思考が地上的ですね。
というわけで、今回も【鉛直から水平へ】です。
それに尽きます。

日本の法律で「信教の自由」を認めていると言いますが、それが「性善説」に基づいているとネットの記事で言っているのを発見しました。
ところが、ネットで調べると、
「性善悦」をビジネス上で使用する場合、「性善説」の意味は本来の意味ではなく、
「間違った解釈」=「人の本性は善だから信じてよい」
という意味で使われることが一般的だといいます。(性悪説の対極として)
でも「それは間違いです」
と専門家は言っています。
そこまでは良いのです。
でもどうして間違いを引き起こすのかについては何も言っていません。
ならば、本来の意味とは何か?
専門家はただ、
「人間の本性は善であり、努力の有無など後天的な要因によって賢人や聖人になったり、悪に走ったりする」
とだけ解説しています。
これでは考える習慣に乏しい一般人は、「本性の善」というものを地上の延長に求めてしまい、
「賢人や聖人になって悪や欲が消えてなくなる」
「地上的道徳的に良い人間になる」
と履き違えてしまいます。【*】
賢人や聖人みたいになるというのは、道徳的に立派な人間になることではないのです。
むしろ有言不実行みたいなところがあります。
賢人や聖人というのは、中庸の実践によって、そういう地上の〈善悪〉を含んでいながら超越するだけなのです。(神のもの)
けっして悪や偽善が消えるわけではなく、一方的で極端なことをしなくなるだけです。
なので、どんな人でも本人の意識の有無にかかわらず、地上の道徳や法に触れることをする可能性があるということです。(カエサルのもの)
ネットの専門家はなぜかそこを指摘しません。〔宗教や哲学と関連付けていないのかもしれません〕
どうもこの「本性」というのが履き違えのもとだと思えます。
「本性は善」の善は地上の〈善〉ではなく、善悪を超越した《善》なのですが、専門家はそこを押さえていないのです。
たしかに本性に仏性が備わっています。
でもそれは地上における〈善〉と〈悪〉を含んでいることを意味します。
ある物体に光が当たって、明暗ができることを想像していただきたいのですが、それはどこかに「光源」があるからだとわかります。
ただし光源自体は地上生活では直接見ることはできません。
孟子の言う善とはこれであり、地上を超越した高い次元の《善》のことです。
神仏の光が人間には備わっているからこそ、地上ではそれが〈善悪〉となって表れるのです。
それを知ることで、明暗という〈影〉を盲目的に追わなくなるわけです。
西洋流に言えば、愛(love)から派生されて、地上では情愛(affection)と非情(heartlessness)に分かれるのです。
これは人間だからであり、他の生き物には悪も偽善も、情愛も非情もありません。
人に施す場合や人から施される場合に、純粋か不純かを気にする必要はないというより無意味です。
本来の《性善説》を持ち出すことは、自分自身の施しの中の不純さに悩む人、他人から受ける施しの中の欺瞞を気にする人を、「純粋なものなどない」と諦めさせることで安心させることです。
不純な動機や欺瞞があることこそ、人に仏性が備わっている証しなのだと思うことが肝心です。
それが人間であり社会なのです。
「全知全能であるはずの神はなぜ人間社会の悪を野放しにするのか?」
と疑問を抱く人がいますが、まったくわかっていないのです。
地上の〈善と悪〉は神の人間による顕れなのです。

【*】勝手な想像ですが、孟子が唱えた《性善説》を一般庶民は理解できず、善を地上の延長に求めてしまったことで、後輩にあたる荀子がそれに歯止めをかける形で性悪説を唱えたのだと思われます。
こういうことは古今東西で起きたようです。
ルターの宗教改革でも本意を庶民が理解できずに地上的な攻防に(つまり鉛直から水平へと)移行してしまったようです。
「人間の罪は神のみが宥すことができる」
教会の地上的権力を「超越」することを唱えたはずが、一般民衆はそれを「否定」することと履き違えた(農民戦争)と思われます。
地上の権力や上下関係は方便(神の反映)としてあることを認めながらも、一面的な服従や対立に終始しない《カエサルの物はカエサルに、神のものは神に》という霊的に高い視点を設けることが所詮は多数派の人間にはできないのでしょう。

聖書に記されているイエスの言葉、
「金持ちが天国に行くのは駱駝が針の穴を通り抜けるより難しい」
(ある貧しい女性がなけなしの金銭を寄付したのに対して)「この女性は天国に行く」
これらは、《カネが有るとか無いかという〈執著〉を捨てること》を意味していますが、これさえも、〈カネそのものを捨てること〉が天国なのだと曲解する人たちが後を絶ちません。(どこかの宗教団体における財産没収に似ていませんか?)
まさに「鉛直から水平へ」の愚行です。

15年前のT校におけるA主任との対話を思い出しました。〔詳しくは当ブログ『いま学校では』にあります〕
池田晶子女史の「人権が天与のものなら、なぜそれをわざわざ人間の法の言葉で表すのか?」
の問い掛けにA主任は、
「現実には人権が充分に与えられていないから、人間の法でそれを補ったんだよ」
と即答しました。
これもまさに「鉛直から水平へ」の愚行です。
賢人や聖人による《崇高な思考や霊的自覚》を促す活動を、世間はどうしてこうも地上的攻防にすり替えるのだろうかと呆れる次第です。

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反共 [中庸]

「日本という国に希望が持てなくなった」
と叫ばれるようになって何年も経ちました。
今日、報道番組である知識人が民主主義の劣化を指摘していました。
少子化で若者が少なくなり、選挙に行っても超マイノリティーゆえ影響力がないから行かないという「シルバー民主主義」がその象徴です。
もともとは資本主義において、支配者の暴走を防ぐという意味での民主主義だったと言います。
しかし、所詮民主主義とは〈多数派による暴力〉です。
民主主義は必ず劣化します。
選挙において多数派が《和》を重んじる代表者すなわち君主(霊的指導者)を選ぶのなら良いのですが、実際は自分の損得上都合の良い代表者、《和》を重んじない代表者を選びます。(?和して同ぜずの和です)
霊的に思考する人は常に少数派ですから、原理的に民主主義からは君主は生まれません。
つまり、利己主義に陥った多数派の国民が選んだその代表者が指導者なのです。
今の日本の指導者は、利己主義の国民の象徴なのです。
当然、自己保存のため政治家は票集めに奔走します。(学校の教員も然り)
これが民主主義の末路です。
〔再度言います。20年ほど前に大島監督が『国民がみな守りに入ってしまった。これは危険なことだ』と言いましたが、私はバブル崩壊後にすでにそれを感じました〕
報道番組でも紹介されていたように、世界的に見ても、ここ10年では民主主義国家は何においてもうまくいかず、むしろ専制国家のほうが成長しているようです。

私が絶望するのは、こういう状況下でさえ、ほとんどの人が民主主義を〈善〉として押し進め、ジェンダー平等を〈善〉とする(結果的に同じことをする)のが当然のこととして実現しようとしていることです。
今世間を賑わす報道を見ていると、私は人類全体が地べたに押し潰されるような感覚になります。

そんな中で特に気になったことがあります。
“旧統一教会が「反共産主義」を掲げるがゆえに自民党と親しい”
という報告です。
これって、その時点で本来の宗教からかけ離れているのではないでしょうか?
そもそも政治と宗教は、人間の活動として「一体」ではあっても、「別の次元」なのですから。
共産主義であろうと資本主義であろうと、主義というのは地上のイデオロギーであって、流動性確保や秩序維持の方便です。
神はそれらを超越するだけで、「肯定」したり「否定」したりはしないはずです。

現代の地上社会はあまりにも一方的なことが蔓延しているので、真っ当なことを言っても真っ当なことをしても通じないというのは確かです。
そのため、やはり極端なことや一方的なことをしなければ、影響力を持ち得ません。
結果、地上の攻防に終始して、神の心から離れてしまうのでしょう。

たしかに今の地上の人間は、概して言葉による極端で一方的な思考で動いています。
ジェンダー平等を善、ジェンダー不平等を悪と一方的に謳うのは悪平等です。
そこで旧統一教会はタリバン同様、「ジェンダー平等反対」を掲げます。(本来は男女分離であって、権利は平等、役割は別)
結婚の条件が経済力や社会的立場や容姿に偏るのは、ほとんど霊的に正しい結びつきではありません。
そこで旧統一教会は、霊的に正しい結びつきを教祖が決める「合同結婚式」を遂行します。
(※私はどちらもダメです。前者は条件が揃いません。後者は不可能です)
(☆純粋な意味では賛同するところもあります)
〈一方的なもの〉に対しては、どうしても〈一方的なもの〉で対抗しなければ太刀打ちできないという地上の事情はわかります。
でもその太刀打ちするというのは、どんな事情があるにしても本来の宗教のあり方ではありません。

ところで『共産主義』とはどういうものなのでしょうか?
あいにく歴史的背景や政治的な影響などに関して私は詳しく知りません。
ネットなどで調べても、曖昧なところや国や時代によって異なるところがあって、ひと言では言い切れないようです。
少なくとも経験として私が共産党の人たちと関わって感じることは以下のことです。

・はじめから偉い人がいてはいけない
・偉い人とはみんなが偉いと認めた人だ(ある意味民主主義的)
・ただし、そのよりどころが「地上の道徳」であり、偉い人とは、目に見える形で世の中を改善した人、犯罪者にならない人など、地上道徳的に立派な人である(理性神・偽神ユリゼン信仰)
・地上の延長上に本物の《善》があると思っているため、偽善はいけないと言って地上に本物の《善》を求め続け、結果として周りからは〈偽善者〉だという陰口が多くなる
・ただし、「勤勉と怠惰」のように、地上の〈善〉と〈悪〉はその場のよって逆転することがあることは認めている
・イエスやソクラテスなどの聖人は地上的には受刑者であり、地上的には権力者をやっつけられずに屈しただけであるから、ちっとも偉くないとする
・人間の意識はすべて脳の産物であり、色や形は誰にとっても同じに見えるはずだと、「語り得ぬこと」を語る(唯物論)
・生物の進化によって「人間(知性・社会)」が生まれた
・神や霊といった目に見えないものは根拠がないと言ってひとまず否定する
・宗教は神仏を「恐れ多いもの」として支配者や権力者の統率や戦争に利用されることはあっても、世の中を良い方に変えるような政治的な「力」はまったく持たないとする
・宗教に関しては、まったく認めないわけではないが、良い宗教と悪い宗教があって、その違いが、「カネをとるか取らないか」である
・組織における「上からの圧力」に対しては徹底して抗い、利己的でなく、自身のことでなくても「義」をもって行動する
〔⁑異論はあるかもしれませんがご容赦願います〕

何度も言いますが、社会には「落差」がなければすべてが流れません。
それに、唯物論(実在論)は顛倒妄想であって、人類の進化を阻んでいます。
そういう意味では、各宗教団体は動機としては「純粋なもの」があったと思われます。
まあ、共産主義が宗教を否定するから、宗教団体は反共産主義だというのは当然のことでしょう。
しかし、反共産主義がなぜ自民党に傾くのでしょうか?

友人に尋ねると、自民党はある右翼団体と関係があるのだと。
ネットで調べたら、それらしき事実はあるものの、自民党の「右翼」の意味が「国粋主義」ということではなく、単に「保守政党」だから「右翼的」ということらしいのです。
共産党が左翼的だから反共は右翼的というのは短絡的な気もしますが。
どうやらリベラル(左派)の対は、保守(右派)というよりパターナル(権威主義)らしいのです。
もはや反共というより勝共という感じです。
要するに、権力を得て政治的に「支配」の側に立つという目論見があるのでしょう。
創価学会も幸福の科学もそれで政治参入を図っているようです。

たしかに「神の王国」や「仏国土」の実現のために地上的力にじかに対抗するには、方便としても地上的力が必要です。
そして、地上的力で勝れば神の王国や仏国土が実現するはずだと想像することはできます。
しかし本来の宗教としては、同時にその時点で必ず堕落の道へと進みます。
なぜなら、いたずらに盲信者や悪しき聖職者を増やすことになるからです。
人間には知性があり貪欲があるからです。
そしてその組織のトップや幹部たちは、神の子からベリアルの子へ成り下がります。
最初に純粋な動機があったにせよ、いつの間にか、「ベリアルvs.ユリゼン」(正反対とは限らない)という地上の攻防になってしまいます。
共産側からすれば、
『見えないものを排除する』から「見えるものと闘う」への変換です。
《鉛直》から〈水平〉への移行です。
そもそも権力とか権威というものは、本来の宗教と相容れないものです。
あってはならないというのではなく、執著から離れる、超越するのが宗教です。
人間は社会的な生き物であって、権力とか権威とか差別などの「落差」があって流動性や秩序が保たれるわけですから、神の心の中にあることはあります。
ただそこで分岐点があって、知性が貪欲を生んで、いわゆる「媚び諂い」になると、ベリアルの子への道へ進みます。
地上的勝利を目の前にぶら下げられて魂を売ることはすなわち霊的敗北です。
純粋な宗教者、道の人にとっては、パンを得るために純粋無垢を捨てるくらいなら、飢え死にしたほうがマシなのです。
親鸞聖人のように流刑にされても、あるいは西田先生のように退学させられても、また究極的にイエスやソクラテスのように死刑にされても、信念を貫くのが道であり霊的勝利なのです。

【反共産主義に関するネットでのある方のコメント】
これまでの皆さんのご意見には大きなポイントが抜けています。
共産主義は宗教を否定しています。
(*)「宗教はアヘンだ」とまで言っています。
(⁑)唯物論からは帰結として無神論となります。
ここが宗教との大きな対立点となり、公明党と共産党が激しく対立しているのはこのためですし、キリスト教もイスラム教も神道も共産主義には反対です。
【終】

一方で、本来の宗教を実践するある仏教寺院の住職は言います。

《本当の宗教とは「迷う力」を与えるものです》
《生きる苦しさから逃げる宗教はすべてニセモノです。》

まさにその通りです。
本来の宗教は、「道」を行く切っ掛けと力を与えるものです。
キリスト教的に言えば、単に息子を帰宅させるのではなく、息子に放蕩するだけの力と帰宅する機会を与えるものです。(はじめからおとなしく家に居るような「いい子」にはさせません)

何度も言いますが、今の地上の組織宗教のほとんどが「ニセモノ」です。
思考停止の盲信です。
神という見えないものが、空間を占めるように自分とは別にどこかに居ると「信じる」という神盲信です。
信じれば救われる(=楽になる)、すなわち家畜になるというのが信仰の目的になってしまっているのです。
その前提で言えば、共産主義者の言うように、間違いなく宗教はアヘンです。
ある共産党員が、
「坊主に何ができる」
と、口癖のように言っていましたが、まさに、
「アヘン中毒者に何の力もない」
ということになります。
たしかに今蔓延るエセ宗教なら、共産主義が宗教を否定するのはもっともなことです。

でも実は、共産主義が宗教を否定するのは、それが「ニセモノだから」というわけではないのです。
〔★そもそも本物が何かを知らないので、ニセモノかどうかを見破れません。ひとえに、思考がすべて「地上的」だからです。一般に〈地上の住人〉には自分が地上にへばり付いていることさえわからないのです〕
唯物史観が前提にあるので、目に見えないものはすべて物質から生まれた副次的なもので、あらゆる問題は物質ですべて解決できるという思考なのです。
「神というものは、支配者や権力者が大衆を恐れさせて、従わせるために人間が作ったものだ」
とまで決め込むのです。
やはり、共産主義も神仏や霊的な存在を「信じるか信じないか」の域を超えず、「信じない」というだけなのです。

*もっとも、何を言っても解らない〈地上の住人〉たちは、この『放蕩息子の帰宅』でさえ〈敗者〉だと言うでしょう。
*〈地上の住人〉の支配者は、魂を売らないで権力に媚びない人に対しても、「逃げ口上」だとか「自己弁護」だとか言って、唆して奮い立たせようとします。
*概して、状況にアジャストして自己保身で解決するだけの〈地上の住民〉は、道を説く人の《逃避》を、盲信者の〈苦しさから逃げること〉(アヘン)と一緒くたにして、宗教全体を排除してしまいます。
*良心のある人は、自分や周囲の人々の首を絞めることに助力するだけで、媚びるのが馬鹿馬鹿しいから、(給料をもらえるという)執著から離れるのです。〔天山遯〕
〔⁂保健所の職員は、保証金目当てで『陽性』を装う人たちに健康を気遣うのがバカらしくなって辞める人が続出しているそうです〕

まとめるとこうなります。
今のほとんどの組織宗教と共産主義は、いずれも唯物論(実在論)を前提とする地上的思考法であり、
「信じるか信じないか」
「神盲信か無神論か」
の違いに尽きます。
どちらも、自らの省察による霊的自覚から神仏を「知る」ことはしません。
よって、現在目にするような地上の攻防に終始することになるわけです。
いずれもそこから生まれた統率者は、あくまでも地上的であり、霊的指導者ではあり得ないので、過去の事実を見れば明らかなように、一般の民衆は人間性を阻害されることになります。

みなさんどうでしょう。
地上的観点で、一方を立ててもう一方を排除するということが、いかに地獄的かがわかると思います。
それよりも、良心で生きる私たちは霊的視点に立って、たとえ小規模であっても、《義》をもって責任ある充実した行動をとろうではありませんか。
今回も長くなりました。

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5次元世界 [霊的存在]

みなさん(?)暑いところをわざわざ来てくださってありがとうございます。
気長にお付き合いください。

夏季休暇ということもあって、平日に姉が来ました。
いつものように姉は母と私に昼の食事を買ってきて、近況を語り母の認知症を一緒に嘆いていたのですが、点いたままのテレビで、たまたま沖縄の食べ物を紹介していたので、その話になりました。
姉が言いました。
「私は沖縄にはあまりいい印象はないのよね」
「だって、食べ物が合わないんだもん」
「良かったのはゴルフ場だけ」(会社の関係でゴルフに行くのです)
「いったい沖縄のどういうところがいいって言うの?」
私は一瞬言葉に詰まりました。
本当なら、
「食事は自分には合う、空気が違う、真夏は東京より熱くない、ただ青い海を見ているだけでいい・・・」
と言いたいところですが、説得力がなさそうなのでやめました。
沖縄には30代から40過ぎ頃にはよく行っていて、計10回ぐらいですが、一緒に行く仲間は同期の英語教師Nさんか高校時代の友人ぐらいで、自分一人で行ったこともありました。
でもそれ以来、20年近く行っていません。
理由はおもに経済的なこと。
今は母親の面倒でそれどころではなく、温泉にも行けません。
それにもう一つ、一通り経験したので新鮮味がないということです。
そこでやっと思いついて、姉にはこう言いました。
「今はもうそんなに行きたいとは思わないよ」
「経済的な理由で楽しめないし」
「30代の頃は経済的に心配なかったからね」
「Nさんと宮古島に行った時なんか、費用が高かったんだけど、何とも思わなかったよ、東急が仕切っているから高いんだとNさんに言われて、やっと意識したくらいでね」
「だから、何をしても楽しめたし、初めてのことばっかりで新鮮だったのもあるしね」
なにやら消極的かつ退廃的な言葉が支配するようになりました。

そうこうしているうちに3時になり、買い物に行くため、2階へ行って着替えをしていると、固定電話が鳴りました。
1階に居る姉が応対しました。
どうせどっかの業者だろうと思っていたのですが、どうも違う様子でした。
なんとNさんでした。
いつもは夜の8時頃なのに、この時間帯に掛けてくるというのはどういうことか?
話はいつもと変わらず、食事に行くことでしたが、今年3月にNさんに伝えた「年金」のこともありました。
「月収が47万を超えなければ厚生年金の分をもらえる」
という新しい情報です。(今年4月から、限度額が28万円から47万円になったのです)
そのときは「専任教師はダメだ」と伝えられたのですが、どうやら今になって、その一部がもらえたそうで、その報告もあったようです。
私は、ともかく「よかった、よかった」と言って、電話を終えて買い物に行きました。
途中、熱いので喫茶店でアイスコーヒーを飲んでいると、ふと不思議な感覚になりました。
「あれっ?これって、いつかも同じことがあったなあ」
そうなのです、半年ぐらい前にも母親との会話の中で、
「Nさんって、何でも形にして結果を出してしまうところがすごいんだよ」
などと話していたら、1時間後にNさんから電話が掛かってきて、食事の誘いがありました。
そのときも私は偶然とは思えませんでした。
なぜなら、Nさんの話題を口に出すのも、Nさんから電話があるのも、多くて3か月に一度ぐらいだからです。

そこで、たまたま10年前に買って読んだそこにある本を開いたら、関連することがあったので紹介します。

【『5次元世界への超扉(エハン・デラヴィ)』より抜粋】
〈共時性(シンクロニシティ)は主観的な世界と客観的な世界のあるつながりを見せてくれる〉〔ユング〕
すべては心の反映です。
自分の毎日の体験はすべて心の働きであり、それこそ般若心経の世界、仏教の世界です。
病気も、事故も、不幸も含めて、起こることは、すべて自分の心の反映です。
(※)偶然は、まったくありません。
シンクロニシティとは、そういうことを常に意識することです。
意識のレベルが高くなればなるほど、すべてが「共時性」というレベルになって、それよりさらに上のレベルになると、すべてが神になります。
・・・・・〔略〕・・・・・
何も起こっていないという心境を私たちは想像できない。
自分の心がすべてを引き起こしていることを自覚できるレベルになると、自分の行い、一つひとつの発想にものすごく責任感が生まれて、注意を払うようになります。
私が以前見かけたきれいな女性のことを思い出していたら、友達と一緒にレストランから出てくる彼女と出くわした。
それがシンクロニシティです。
「それは偶然だ」と思うかもしれませんが、そうではなく、私はそういうことに注意を払ったわけです。
・・・・・〔略〕・・・・・
(⁂)5次元も中間の次元にすぎず、その先がまだまだあるのです。
アセンションの後に展開されるはずのシンクロニシティ文明は、日本人にはすごくよくわかるはずです。
日本には、「袖すり合うも他生の縁」とか、「一期一会」という言葉があります。
(*)英語には「縁」に相当する言葉も、そういう概念もありません。
日本人がなぜそういうセンスを持っているかと言うと、日本人はシンクロニシティに敏感な素質を持っているからです。
だから人との付き合いを非常に大切にする。
・・・・・〔以下略〕・・・・・
【終】

(※)偶然はないということは、すべては必然だと言えるかもしれませんが、必然という意識もなくなって(即非)、溶け合って「(霊的な)法則」となることが神の領域です。
上記の他にも、想像していたことが現実に起きた(良いことも悪いことも)ということが私には何度かあります。
(*)これに関しては、英語に「pretend」という語があります。
これは〈引き寄せ〉だと思うのですがどうでしょうか?
(⁂)5次元といえば、パラレルワールドの存在を証明(?)した女性物理学者リサ・ランドール博士を思い出します。
そのへんのことをエハン・デラヴィ氏はこう説明しています。
【抜粋】
パラレル次元、パラレル宇宙があるということは、私たちはこの3次元だけでなく、他の次元にも同時に存在していることになります。
(⁑)この次元における自分という存在は、氷山の一角がたまたま海の上に出ているだけ。海中のパラレル次元にはずっと存在し続けているということです。
だから、私たちには、もともと多様な側面があり、そのことをこの次元にいる自分が自覚していないだけなのです。
・・・・・〔略〕・・・・・
同じ魂が何度もこの次元に生まれ変わるという、いわゆる輪廻転生という考え方には、実は私は深い疑問を持っています。
幼児の前世の記憶の正しさや天才たちの実例を挙げて輪廻転生があることを証明したりします。
もちろん事実を否定したりしません。
でも、別のアプローチもある。
それは多次元というアプローチです。
つまり、1つの魂がパラレルで複数の次元に同時に存在し、すべての体験の記憶にアクセスできるならば、クレオパトラの記憶はあなたにもあるといえるわけです。
(⋆)現代人の60%以上は輪廻転生を信じていますが、それは多次元の記憶かもしれないということです。
輪廻転生はあるのかもしれないし、ないのかもしれない。
多次元意識論でいえば、それはどちらでもいいことです。
【終】

(⁑)これは樹の枝のように大本ではみな繋がっているという古来の考え方で、真我と偽我、潜在意識と顕在意識、大河の一滴、海と波、人間と神などといろいろ表現されていて、臨死体験者が「何とも表現しようがない」と言い、高級霊が「肉体を持った者にはわからない」と言うように、地上ではまず体験できない境地です。
(⋆)退行催眠でまったく関係ない人の記憶が出てしまうことは以前にも言いましたが、それはあくまでも、奥で繋がっていて記憶を共有しているということであり、その実体(アートマン)が幻だとか消滅するという結論には至りません。
エドガーケーシーのリーディングでも輪廻転生する「実体」を認めていますし、スピリチュアリズムにおいても、類魂として地上に生まれたり守護霊の側に回ったりと、一回きりか転生するかはわかりませんが、「実体」の不滅を前提として説いています。
また、デラヴィ氏は言います。
【抜粋】
(★)「5次元世界を理解するためにはまず、ある現代科学のドグマを乗り越えなければなりません。そのドグマとは、『脳が意識を作り出す』という妄想です。脳は、ラジオのような電波の受信機、あるいは端末機のパソコンのようなものにすぎません。」〔脳と意識は因果関係ではなく単なる対応関係〕
さらには、
(✤)「たとえスーパーマンになっても、愛がなければ無に等しい。それは『ラブ』ではなく『アガペー』(スピリチュアル・ラブ、無償の愛)です。人間はハート(心)とヘッド(頭脳)、この2つのHで混乱している。それがいちばんの問題です。愛は頭で理解することはできません。ハートがすべての秘訣を示してくれます。」
【終】

(★)再三言う『唯物論(実在論)』の克服です。
絶対的客観的に「物がある」とか「時間空間がある」という妄想、また、それがはじめに用意されていて、そこからすべてが生み出されすべてが起こるという「自然科学的世界観」の刷り込みを省察することが第一の関門です。
これはまた、我々の意識が、生物の進化で偶然生まれたものではなく、初めからあるものだということを言っています。
(✤)これは地上の〈善〉ではなく、霊的な《善》〔神仏の光、慈悲〕を言っているのです。
陰影を見るのではなく光源の存在を知れということです。

長くなってしまいました。
疲れました。

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地獄から天国へ(改) [中庸]

ポストを見ると、幸福の科学の冊子が入っていました。(No.426 ‘地獄も知らないで・・・’)
しばらく放っておいたのですが、暇になったこともあって捲ってみると、最初の見開きに気になることが書かれていました。

【引用】
世の中には、
勉強をすればするほど、
知恵を失い、バカになる人がいる。
シンプルな真理がわからなくて、
複雑に考えすぎたり、
「エポケー」という判断中止(*)に逃げこんだり、
懐疑論者(*)になることを、
知者になることだと思い込んでいる人がいる。

今の学校教育では、
魂も、天国、地獄も教わらない。
調査報道とかにあこがれるマスコミ人も、
この世のことしか扱わない。
幽霊話はエンタメになり、
幽体離脱は、
脳と神経の作用(?)ということにしてしまう。
いつから人間は、
こんな愚かになってしまったのだろう。

善悪(?)が分かるということは、
天国的か地獄的か(?)がわかるということだ。
地獄も知らないで、
地位や名誉、
財産や異性への欲望を追い求めて、
「知の巨人」もあったものではない。
・・・・・・・・・・・・
【以下略】

どうでしょう?
相変わらずですね。
まあそう言いたくなる気持ちは解ります。
〔そう言っている私も相変わらずですが〕
でも唯物論と自然科学世界観が浸透した現代社会で、シンプルな真理をまともに受け止めることができる人がいるでしょうか?
また、これを読んだ人はこのように言われて考えが変わるでしょうか?
というより、おそらく大半の人は善悪とか天国的とか地獄的とか、用語そのものの意味すら分からないと思うのです。

(*)複雑に考えたり、判断中止したり、懐疑することはむしろ重要です。
というより不可欠です。
そして、
「すべてを疑っても、(自分の世界を経験している)自分が居ることは疑いようがない」〔われ思う故にわれ在り〕
と覚ります。
ヴィットゲンシュタイン流に言えば、
「ともあれ語り得ることは語り得る、語り得ぬことは沈黙しなければならない」
「世界とは自分の世界である」
「自分がどの様であるかではなく、自分が居ることそのものが神秘的なのである」
つまり、《自分≠自分の肉体》であること、自分が霊的存在であることを知ります。(霊的自覚であり、唯物論(実在論)を前提とする証明ではありません)
哲学にしても宗教にしてもスピリチュアリズムにおいても、すべてはここから始まるのです。
もしそれを抜きにして受け止めればすなわち思考停止し盲信に繋がります。
その後の付随する弊害は見てのとおりです。

(?)あるいは、唯物論(実在論)と自然科学的世界観から抜けられずに、霊や神仏は脳の産物であり「肉体が死んだら終わり」になってしまいます。
その弊害は義のない利己主義者の無責任な行動を見ればわかります。

もちろん、大川氏の言うこともわからないではありません。
判断中止や懐疑論で止まってしまうと、斬新なことを受け入れるのに積極的でなくなり進歩がなくなります。
よくプロの学者が、《気》や《異なる波動の物質》あるいは《異星人》の存在を鼻で笑ってハナから否定することがあります。(そうすればいろいろな意味で安泰ですから)
もっとも、それは学問的に、さらに科学的に正しい姿勢ではありません。

何はともあれ、理性による《霊的自覚》が大前提です。

(?)ここで言う《善悪》とは、地上の〈善悪〉(小善小悪)とは別の次元・階層であって、霊的な《善悪》(天国か地獄か)です。
地上の〈善悪〉に執著すること(浪費吝嗇、自由束縛、平等差別、などを対立させて、一方を肯定、もう一方を否定と白か黒かに終始する)が地獄的なのです。
すなわち悪平等の《悪》です。
それら直線全体を超越すること、上からの光があって地上でその陰影を見ているだけだと知ることが、天国的なのです。
すなわち善知識や性善説の《善》です。
カエサルのものと神のものを区別する必要があるということです。

しかしながらいつも言うように、それを体感する具体的な方法が示されていません。
本来は、即非や絶対矛盾自己同一などの地道な哲学的省察から始まり、人によっては学業や芸術などの必要無駄が助けになります。
あとは本人の実践あるのみです。
残念ながら、大川氏が再三言う「教え」とか「 奇蹟」によっては定着しません。
足が地に着いていないので、それだけではいずれ消えてしまいます。〔ダンテの『神曲』の冒頭を参照されたし〕

つい先ほど、あるネットの書き込みを見て気になったことがあります。
それはやはり宗教における「救われる」ということが、「癒されること」と当たり前のように同義になっているということです。
それはギャンブルや麻薬と一緒で、宗教団体がカルトであろうとなかろうと、本人の問題であって、他人がとやかく言うことではないと言うのです。
もちろん私も、組織がどうであろうと本人次第だと思います。

ただ、「救い=癒し(麻薬)」が世間一般で通っていることには危機感を覚えます。
繰り返しますが、「救い」とは「道を行かせること」、またその切っ掛けを与えることです。
けっして楽にさせることではなく、むしろ迷わせることです。
それが地獄から天国へ移行させることです。

ついでに言いますと、天国や極楽浄土は「終着点」ではありません。
迷いながら行く「道」の出発点です。
解脱への第一関門に当たる「預流果」にやっと達したという段階です。

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像を拝むとは [霊的存在]

ある方のブログを拝見しました。
それは、「高級霊のメッセージ」を扱ったものです。〔定期的に更新していて、読者も数十人います〕
冒頭にこうあります。

《像を拝めばもはや自主的に考える力を失っており、自分の拝んでいるものが自分の思考を破壊する。なぜならば、その人は無智の中に迷い、自己の裡に宿る唯一無二の生ける神という真理を見ることができないからである。》
 
まあこれは、前回の盲信(思考停止)を排する私の活動と相通じるものです。
その中で特に根幹となる内容が、再三言う『神や霊の存在と実在論(唯物論)』であり、そのことが的確に示されています。
【引用①】
成る程、幾千にものぼるあなたたち(霊人)は、時間・空間の入らぬ境城で現に生きてい乍ら今この瞬間わたしの話に傾聴している。しかしまだ肉体の中に留まっているあなたたちの兄弟姉妹である人々にわたしが話をしている此処、外界では、彼らは時間と空間と(が存在している)と妄想している。時間と空間とは彼らがこの地上で克服しなければならない難問である。あらゆる者が克服しなければならぬ難問は時空感覚である。
あなたたちは未だ距離、年・月・日と時間(制)とを墨守している。
それは時間と空間との幻影である。
(既に)天国の中にある自分自身を観じてみるがよい。
自己の裡なるみ霊こそ世界を創造し給うたみ霊と同一のみ霊なのである。
このことが真に把握された時、あなたたちは時間・空間の世界を超越した彼方のことが解るようになるであろう。
【終】
肝心なのは、「時間・空間」がはじめから絶対的に存在しているということが〈顛倒妄想〉だということです。
それから、神盲信者に対しても、次のような啓示があります。
【引用②】
あなたたちは神の息子、娘なるが故に、神はアバ・アヴォン(おお、父よ、われらの父よ)と叫ぶあなたたちの胸(ハート)に神我というみ霊を送り込み給うた。故にあなたたちはもう(ただの)僕、はしためではなく、(神の)息子、娘であり、あなたたちの中に宿る神の一人子たる神我の故に、あなたたちは神の資産であるすべてのものの相続者である。
【終】
これも、空間のどこかを占める神が自分と離れて存在するという間違いを正したものです。
神は霊の集合体、本源であり、すべての人の内にあり、すべての人を包括します。

世の中には、それまでずっと無神論者だったけれど、ある時以降一転して神を信じるようになった人がいます。
その人が言うには、
「生まれてからこのかた神などいるわけがないと『思って』いたが、ある時、神に『出会った』ので神はいる」
とのことです。
いるわけがないと『思って』いたというのは、いるのならどこか空間を占める唯物論的実在として「五感」で捉えることができるはずだという意味であって、けっして理性でとらえようとしたわけではありません。
なので、その人が『出会った』とのいうのも「五感」で捉えたということであり、理性で捉えたわけではないのです。
神がいないと思っていた時と同じ唯物論的思考法で神を信じたのです。
つまり、その体験が事実だとしてもそれは神ではありません。

人の姿をした者が目の前に突如現れて、
「私は全知全能だ」
「光あれ!」
「えい、やー」
と言って、いろいろなものを作り出したとしても、それは単なる超人であって、(聖人たちの言う)神ではありません。

この方のように、ブログや著作で正しい霊的存在の在り方を発信している人はたくさんいます。
たしかにその通りなのです。
でもみなさんどうでしょう?
これでシックリいくでしょうか?
時間空間が妄想だと言う『実在論(唯物論)』の克服を唱えているものの、それを自分のものとして「体得」するための具体的方法あるいは、その切っ掛けを与えているでしょうか?
おそらく何十人もの読者は、
「へえー、そうなのか」
としか思わないのではないでしょうか?
(それでも心地いいでしょうけど)

高級霊の啓示として以前に取り上げた『日月神示』も、その時述べたようにその(中矢氏のブログの)読者のほとんどが「興味本位」だということが暴露されました。
読者は自分の理解力を超えると「偽物呼ばわり」するのです。(当ブログ『日月神示(補足)』参照)
依然として地上の言葉による地上的な善悪・白黒(平等=善、差別=悪、など)に終始していて、霊的視点を設けるに至っていないからです。
そもそも霊的に考えるとか行動するとかが、実践できていないということです。
その理由は、自らの省察によって体感したわけではないからです。
ならば、たくさんいる読者とは何なのでしょうか?

実は、冒頭に示したその方の「冒頭」にある《像》を拝んでいるということです。
「像を拝まないようにというメッセージ」を《像》として拝んでいるのです。
姿かたちはなくとも、高級霊という「権威」にすがっている(思考停止している)のです。

これは、あるキリスト教信者が、
「偶像崇拝はいけない」
という意味を、
「教祖という生身の人間を拝まないこと」
と受け止めて、イエスという過去の人物を神扱いして拝み、またある信者が、
「イエスという過去の人物を拝まないこと」と受け止めて、イエスの残した言葉(聖書)を聖遺物として拝み、その言葉を鵜吞みして再生するのと同じことです。
要するに、「権威」という《像》に従っているのです。
しかもそれに気付かないのです。

私がこう言うのを聞けば、引用したブログの方はムッとするかあるいはがっかりするかもしれませんが、そんなものなのです。

その点、私の活動では実際的な省察の方法を示しているはずなのですが、残念ながらイマイチ反応がありません。(当ブログも、多い時もありましたがここ数日訪問者数一桁、読者0です)
たしかに読んでいて心地よくはないでしょうし、実践するのは楽ではないでしょう。
また紋切り型の人はハナから「悪魔」扱いするでしょう。
でも、微力ながら私の助力によって『道』を得た方がもしいるならば、その人はこの上ない充実感を覚えることと確信するのですが、どうでしょうか?

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心のよりどころ [中庸]

ここに来てくださるみなさんはもう私が何を言うかわかると思います。
今回の事件で、今の地上宗教がいかに本質から離れているかが窺えると思います。
もっと言えば、推進する側も非難する側も、紋切り型の盲信者もすべてを否定する無神論者及び唯物論者も、いかにピントがずれているかがわかります。
インペレーターやシルバーバーチの嘆きが聞こえます。

さっそくある報道番組で、かの宗教団体の献金の問題を取り上げていました。
そして最後に、お決まりの念押しのひと言がありました。
「断っておきますが、宗教は『心のよりどころ』となるものであって、宗教そのものが悪いわけではありません。ただそれを悪用することがいけないのです」
でもどうでしょう?
一見すると公正で健全な見解のようですが。

ここが核心部分です。
まさにこの《よりどころ》というのが曲者で、私に言わせれば、
「悪用してください」
と言っているようなものなのです。
なぜなら「思考停止」を意味するからです。
よくネットの書き込みで、
「宗教施設に行って話を聞くと、楽になるのはなぜでしょうか?」
というのがありますが、私は返信します。
「思考を委ねて〈思考停止〉するから楽になるのです」
そう言うと、
「楽になるからそれではそれで良いではないか?」
と言う方もいらっしゃるかもしれません。

たしかに地上的には「思考停止」は必要だとも言えます。
地上生活では楽になることは重要です。
社会においては、偏ったものとして刷り込まれた思想があってこそ速やかな行動ができます。
躾とか常識などもそのためにあります。
もちろん、あとで言うように「仮のもの」だという省察は必要ではありますが、ある程度思い込みがあってよいのです。
振り返れば、私たちは社会契約をして身柄を世法や国の権力に委ねているからこそ、信用して人と接し安心して街を歩けるのですから。
むしろ損得や自己保存など地上的計らいに関しては「すべて自己責任」では身が持たず、適当に思考停止したほうが、ストレスを回避し余裕を持って文化的な行動ができます。

しかし、霊的には「思考停止」はいけません。
地上での修行にならないからです。
霊的に進歩しないからです。
教会や寺の人がこう言ったからとか、聖書や仏典にこう書いてあるからと、権威に依存して本質を捉えることなく、儀式やノルマに終始する「外で熱心な信者〔良きクリスチャンにして悪しき聖職者〕」になり、あとはただ神仏に委ねて祈るだけというのは道を外れています。
(金銭問題の有無にかかわらず)魂の奴隷または家畜になってしまいます。

先ほど言った地上的な思想が「仮のもの」であること、白黒や損得という感覚的なものを追求することで幸福が訪れるというのが「幻」だということを、「自らの省察」によって体得し、それらを超越して霊的視点を設けること、中庸を得ることが地上経験における課題です。
肝心なこととして、神仏を内在するものであり包括するもの(内包かつ外延)と覚ることであり、けっして外界のものとして自分と切り離さないことです。(神仏は信じるのではなく知るのです)
そして、その切っ掛けを与えることが聖人であり、聖人の言葉を受け継ぐ宗教団体の役目です。
宗教は「切っ掛け(啓発・産婆術)」だけでいいのです。
〔既述のように、イエスや孔子はそれであり、聖書や論語にも表れています。鵜呑みにしないということ。わかる人だけにわかるように隠れています〕
それ以上のことは余計であり、むしろ思考を奪って盲信を促し無理解を生むだけです。

日本では、宗教と聞くとどうしても「カルト教団[→]洗脳[→]テロ」だとして、なくていいとかないほうがいいと言う人が多いでしょうけど、宗教とは本来は「心の問題」あるいは「心の教育」であり、他の国では当たり前のように必要なこととされています。
では日本は何がいけないのでしょうか?
悪い人が悪用するからではありません。
冒頭で示したように、「心の《よりどころ》」とすることです。
平たく言えば、「考えないことがいいことだ」という教えが各宗教団体で蔓延っているということです。(人智は神に及ばないから捨てるものだと)
「考える切っ掛けを授けられて、自分で道を得る」
という心構えがほとんど見られません。(これなら本当にないほうがいいと思いますが)
これは私自身がいろいろな宗教団体の人たちと接して率直に感じたことです。

そして、繰り返すように、冒頭のTVの出演者たちが当たり前のように宗教に対して、
「心の《よりどころ》であり〈楽になる〉から」
で止まっていること、そして本来の宗教の意味を言わない(言えない?)のを見ると、悲観せざるを得ません。
そんな中でも私は地道に活動を続けます。

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