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要因 [思考実験]

自分でも忘れかけていましたが、私は高校1年の頃、顔にニキビが出来て悩んでいたことがあります。
と言いながら、
「こんなものは一時期のものであって、時が経てば自然になくなる」
「周りの同学年の連中にもたくさんいるし」
と思い、特に治そうともしませんでした。
それでも、
「ニキビの原因はいったい何なのか?」
と常に気にしてはいました。
母親は、
「顔を洗わない(清潔にしない)からよ」
と言いました。
同級生は、
「若さのシンボルだよ」
と言いました。
私自身は、
「コーヒーなどの刺激物だ」
と思いました。
原因は、洗顔しないことか?若さか?コーヒーか?それとも全部か?
なぜ、自分ではコーヒーが原因だと思ったかと言いますと、もともとコーヒーが好きで、当時、夜になると口が淋しくなり、自転車に乗ってまで少し離れた店の自動販売機の缶コーヒーを買ってきてよく飲んだのですが、そうすると、途端に、顔のニキビの先端が立ってきて、黄色い芯が出てくるのでした。
特に洗顔しないわけではありませんでしたし、若いから新陳代謝が激しいということは確かであって、それを認めるとしても、同級生全員にニキビがあるわけではありません。
それで、漠然とコーヒーが原因だと思ったのです。
どうでしょう?
私が「コーヒーが原因だ」と言うのは、正しいのでしょうか?間違いなのでしょうか?

結論から言いますと、とりあえず正しいのです。
「ええっ?そんな一方的なぁ」
「新陳代謝が激しいことを自分で認めているじゃないか」
「洗顔が足りないんじゃないのか?もっときちんと洗顔してから言え」
と思う人もいると思います。
詳しく言いますと、コーヒーという観点から見た場合に、ともあれ、コーヒーが原因だといえるのです。
もちろん、「洗顔が足りないから」と言うのも正しいのです。
「若いから」と言うのも正しいのです。
「全部が原因だ」と言うのも正しいのです。
ともあれ『語り得ること』は語り得るのです。

正しくないこと(間違い)とは何かと言いますと、たとえば、
「コーヒーが原因だから、洗顔不足や若さのせいではない」
というように、コーヒーという観点から、他のものを否定する(肯定する)ことです。
『語り得ぬこと』は沈黙しなければならないのです。
これは、非意義的命題と言って、論理的な間違いではなく、論理の「使い方」の間違いです。
ほかに、「全部が原因だから、コーヒーのせいではない」なども、論理の「使い方」の間違いです。

ある一つの観点から、他の観点からのものを否定したり肯定したりすることは、論理の「使い方」の間違いです。
言い換えれば、複数の要因があっても、「一つの要因で言い通せる」ということであり、人と話をする場合に、その省察が必要なのです。
「一つの要因で言い通せてしまう」ということにのめり込んで、省察を怠ると、語り得ぬことを語ってしまい、他に対する無理解が生じます。
人間は論理的にしか思考できません。
論理的に間違いがないからこそ、つい論理の「使い方」を間違えてしまうのです。
よく聞く「見えなくなって話にならない」というのは、まさにこのことです。

では、別の例を挙げます。
沖縄の人が一般に長寿なのは、何が要因でしょうか?
食べ物?気候?それとも、ストレスが少ないことでしょうか?
もう言うことはないと思います。
中には、
「いや、沖縄は台風がよく来るから気圧が低く、身体に作られる活性酸素が少ないからであって、食べ物や気候などのせいではない」
という人がいます。
よくある議論好きの集まりの尽きない論争は、この手の間違いがもとです。

「世の中カネだ」と言う人と、「世の中は愛だ」と言う人は、お互いに論駁できません。
ですから、私が唯物主義を撲滅することが出来るとすれば、論争ではなく、霊的事例を突き付けることによってでもありません。
省察を弘める活動によってだけです。


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