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量子論とスピリチュアル [霊的存在]

先月、科学雑誌Newton(2020.6)『哲学』を買って、パラパラと捲りました。
途中に、決定論「未来は決定されている」と経験論「扉の向こうの椅子は存在しない」、「『条件が同じなら結果は同じ』は幻想」、さらに、哲学におけるコペルニクス的転回「私たちの認識が世界をつくっている」などがありました。

一面的な観念論では、見ているもの、聞いているもの、感じているものはすべて『幻』だと言い通すことができます。
物があるというのも、それを感じているだけと言えるのです。
しかし、よくよく振り返れば、「幻」だということは、あくまでも前提に「幻でないもの」があるのです。
その幻でないものとは、「物自体(時間空間)」です。
物自体がはじめから前提にあって、それを何らかの理由で私たちが感じているのだと「暗黙の裡に」考えているからであって、その観念論者から感じているものを取り除けば、頭の中に残っているのは物自体です。
つまり実在論と観念論は同じ直線上のものです。
ただその省察(即非)だけでは、まだ主客は完全には一体化しないでしょう。
広がりとか時間の流れという純粋な時空に関しては、一体感を覚えるでしょうけれど、好むと好まざるにかかわらず物質はそこにあるわけですから、どう考えても、ゆるぎない時間空間がはじめから用意されていて、その中に自分や他の人がいて営みをしているという感覚から逃れられません。
また自由意志があるといっても、それは機械論決定論的に物理法則に繋がれたものと感じられ、自分が世界を創っているなどとは到底思える余地はありません。
そうやって共有の時間空間を前提にして、普段、人は社会生活をしています。
そうでなければ他の人と共同作業ができません。
はじめから宇宙空間がなければ古典物理学は成り立たちません。
はじめから過去と未来がなければ歴史や地質学は意味がありません。

しかし、量子論はその前提を覆しました。
物が在るか無いかは、観測されることで確定します。
これは迷える観念論者や実在論者に完全な「主客合一」のきっかけを与えてくれました。

もちろんそれより以前から、一部の哲学や宗教ではその省察を実践しています。
例えば、円周率(π)を小数で表した場合の末端の数は、未だに明らかにされ続けています。
それらは、はじめから定まっているとも言えますし、創っていくとも言えます。
主客合一やいわゆる「普遍論争の終結」は省察を実践すればできます。
でも物質となると、よほど深い悟りに達しないと難しいでしょう。
しかし、量子論は物質に関して実証してくれました。

「知覚されるまでは、神の観念(イデア・『空』)として存在している」〔バークリー・今回のNewtonから抜粋〕

では、それで何が変わるのか?
人が感じているものそのものはけっして幻ではなく、れっきとした存在となります。
「はじめから在る(無い)」という「思い込み」が『幻』になるのです。
以前、無限に遠い所や無限の過去未来について、省察を実践することで主客合一を体得することができると言いました。
同じように、すぐそこに見える有限に離れた所や、覚えているぐらいの過去と予想できるぐらいの未来についても、自分が創っていると言えるのですが、けっして幻なのではありません。
はじめから在る(無い)という思い込みが幻なのです。

そこで、それを最近の『スピリチュアル』に応用してみます。
『スピリチュアル』では「今ここを生きる」をよく言います。
禅僧も言います。
「今やっていることを一生懸命やれ」
今というのは、「目先の未来を含む立場や役職上の業務」ではなく、「只今」のことです。
「もし今、お茶を入れているのなら、お茶を入れることに専心しろ」
ということです。
一瞬一瞬が「空」であり、自分の未来は「今」の集積で作られます。
「今」を疎かにして、過去を悔いたり、ただ良い未来を期待するのではなく、「今」を良く生きることによって良い未来が現実として引き寄せられるといいます。

近頃いろいろなスピリチュアリストたちが共通して言うことは、
「今が満たされていることを発見すること」
です。
例えば、
「今こうして生きていられるのは、自分を取り巻く人たちのおかげだ」
という風に、何でもポジティブに。

でも、それは所詮やせ我慢ではないでしょうか。
なぜなら、人には「欲」があって、消えることはないからです。
なので、私は常々、
「満たされていることは、感覚の目では捉えられず、ただ魂の目で捉える」(足るを知る)
と、言うわけです。
それによって、欲を消すことはできませんが、超越して「貪欲(強欲)」の発動を避けることができます。
私自身いろいろなことで満たされていることは10年以上も魂の目で捉えているはずですが、特に目立って良いことは起きていないように思います。
これはどうしたことか?
もしかしたら、冷めた目で「足るを知る」だけではなく、「素晴らしいことだ」と感動する必要があるのかもしれません。
今が冷静ならば、未来も冷静であって、今がワクワクしたり感動すれば、未来も感動することが起きるのだろうと。(でも、やせ我慢をワクワクに持っていくのには無理があると思いますが)
この前、TVで木久扇師匠が、
「ワクワクすることを常に作ってください。何でもいいんです。明日おいしい中華料理を食べようかな。そんなことでもいいんです」
みたいなことを言っていました。(それなら私はしょっちゅうやっています)

要するに、未来のことであっても今のことであっても過去のこと(?)であっても、「今」がワクワクすればよいわけです。
明るい未来と暗い未来などのように、パラレルワールドは量子論にもスピリチュアルにもあります。
自分の心のあり方次第で、思う世界に飛び移ることはできるかもしれません。

でも、一つ疑問があります。
そんなに感動するほど良い未来が、道を行く者にとって、地上経験において必要なのでしょうか?

私はあくまでも地上経験を霊的進化のためと心得ています。
好ましい出来事や人に出会うのも、好ましくない状況や人に悩まされるのも、みな自分が招いていることだと受け止め、霊的成長の糧とするだけです。
良い未来にしても悪い未来にしても、執著を残すほど極端な方へ行くのを避けることが道だと思います。
まあここが今流行りの「スピリチュアル」と本来の「スピリチュアリズム」の違いかと思います。

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