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論語と算盤 [中庸]

間が空いてしまいました。
次回にするつもりでしたが、先に出来てしまったのでお届けします。
今取り上げられている渋沢栄一の思想について少し。
NHKテキスト【100分de名著『論語と算盤』(守屋淳)】を読んで、私なりの見解を述べたいと思います。
長くなってしまいましたが、お付き合い願います。

始めのほうは、さすがに渋沢は論語を真剣に学んだだけあって、中庸の精神が染みわたっているなと思いました。
ただ、「論語と算盤」と2つを対極に置くというのには、私は初めから違和感がありました。
論語はそのものが中庸であり、極に置くのが変で、「何事においても中庸」というのがその教えだと思うからです。
渋沢は経済を目的としているので、どちらかというと「算盤上の論語」と言ったほうが良いのではないかと感じました。
そういう意味もあって、終わりの方に関して、肝心なことを述べさせていただきます。

【引用】
「算盤」の大きな問題の一つは、競争による優勝劣敗で二極化が進み、最悪の場合、弱者切り捨てに繋がってしまいかねないこと。
この問題に対して、渋沢は自らの行動で「論語」の価値観を体現し、「算盤」の欠点をカバーしていきます。・・・・・(略)・・・・・
良心と思いやりを意味する「忠恕」は『論語』の言葉です。・・・・・(略)・・・・・
たとえば、『論語と算盤』の中で渋沢は、権利や義務を声高に主張しすぎることで、資本家と労働者の間にあった「家庭的な関係」「長年にわたって結ばれてきた一種の情愛の雰囲気」が壊れてしまうことを危惧しました。そうした溝を生まないために、渋沢は互いが「王道」によって調和を目指すべきだと主張しています。「王道」とは、武力や権力で統治する「覇道」と対をなす概念であり、徳や思いやりで統治することをいいます。ここでは「思いやりの道」と訳してあります。

 〔*渋沢の言〕言葉を換えれば、資本家は「思いやりの道」によって労働者と向き合い、労働者もまた「思いやりの道」によって資本家と向き合い、両者のかかわる事業の損得は、そもそも共通の前提に立っていることを悟るべきなのだ。そして、お互いに相手を思いやる気持ちを持ち続ける心掛けがあってこそ、初めて本当の調和が実現できるのである。実際に両者がこうなってしまえば、権利や義務といった考え方は、無意味に両者の感情にミゾをつくるばかりで、ほとんど何も効果を発揮しないといってよいだろう。

この文章を読んで、「労使協調」という言葉を思い浮かべた方も多いのではないでしょうか。日本が高度経済成長を成し遂げた背景の一つに、労使協調による経営の安定と生産性の向上があったと言われています。渋沢の言う「王道」(思いやりの道)による調和が実現し、経済の発展をもたらした一つの例と言えます。

《今こそ求められる「対極を調和させる」力》
近年、日本でもダイバーシティー(多様性)という言葉がよく聞かれるようになりました。少子高齢化と人口減少が進むこれからの日本で、例えば企業が持続的に成長していくには、性別や年齢、国籍などにとらわれず、多種多様な人材を積極的に登用することが欠かせません。
【終】

みなさんどうでしょう?
概して、経済発展を前提とする企業側の論理になっているように思えますが、どうでしょう。
ここで言う「高度経済成長」とはいつからいつまでのことを指すのか不明ですが、少なくとも今は違います。(もはや先進国ではありません)
では、なぜそうではなくなったのでしょうか?
渋沢の言う「王道」(思いやりの道)がなくなったからでしょうか。
もしそうなら、なぜ王道がなくなったのでしょうか?
それならば、今回の企画で、もう一度渋沢の精神を取り入れて「高度経済成長」あるいはそれに匹敵する経済の発展を成し遂げようというのでしょうか?
果たして可能でしょうか?

私が思うには、高度経済成長期は物質的に拡大していったので、みなが解放感という「感覚」に酔っていたといえます。
ストライキで賃金引上げ、消費が拡大、売り上げ上昇、の繰り返しで、一見好循環、労使とも利益が増して潤っていました。
そのため、労使は闘争しながらも同じ「拡大する方向」に向いていた、というより、いられたのです。
ならば、すべての人の行動がまさに「公益」になっているように取れますが、みなさんどうでしょうか?
(昭和30年代~昭和40年代の日本は、専業主婦が多く、けっして誰もが外で働いているわけではなかったということ、そのため賃金の相対的価値が高かったということ、それでいて、経済活性化において労働力が不足していたわけではないということを頭に入れてください)

この時代は、しわの寄せの対象が地球上の人間の「外」であり人間ではありませんでした。
「労使協調」はお互いに敵ではないという安心感が可能にしたと思います。
ところが、やがて閉じた空間が飽和状態になって、公害や温暖化などのしっぺ返しが始まり、拡大が止まりました。
「公益」というものが、人類の範囲にとどまるのなら、かつて言われたように、人類は地球における「がん細胞」にすぎないということになってしまいます。
「ろうそくの炎は、ろうそくを食い尽くし、やがて炎も消える」(レオナルド・ダヴィンチ)

今後、王道による「公益」は可能でしょうか?
またそれによって再び経済繁栄して、皆が幸せになることがあるでしょうか?
私は過去の経験から、高度経済成長そのものが「絶対的に無条件に素晴らしいことだ」というのが幻だということを省察する必要があると思うのです。
そもそも、人類が物質的金銭的に豊かになることが、そのまま幸せになるとは限らないはずです。(物質の充足は幸福の条件ではあるが、不幸のもとにもなる)
しかしながら、このテキストでは、かつての高度経済成長を素晴らしい成功例として、それを前提で渋沢の言う「公益」に結びつけて述べているようです。
渋沢の哲学「道徳経済合一説」が果たして神の心を反映しているのでしょうか?
思うに、「公益」は人間の幸福の方法論ではありますが、成功したとしても、それは「人類の義」までであり、「神の義」までは届かないかもしれません。

なにか渋沢の思想はこの地上における人間の営みを、一方的に「肯定的・積極的」にのみ捉えているように思えます。
冷静に振り返ると、人間は楽園を追放されて「社会」を作ったのです。
所詮「社会」は知性を得た人間の「迷い」の象徴です。
なので、もう一方で、「否定的・消極的」に捉える必要もあるはずです。
大まかに言って、
個人<家族の義<組織の義<国家の義<人類の義<神の義
であり、何においても「神の義」になっていることが、霊的に正しいのです。
放蕩息子が帰宅することで、はじめて本当の幸せに辿り着きます。

たとえば、以前にも言ったように、もともと「貨幣経済」の成り立ちは素朴なことからでした。
〔ある集落において、Aという家が食料が確保できなくて困っているときに、食物に余裕があるBという家が分け与えたとします。そうしたら、今度Bがいつか困ったときに、優先的にBに施すことにします。その証しとして、大きな「石のロール」をBの家の傍らに置いておきます。〕
これが貨幣の始まりです。(諸説あり)

使い古しの私のネタですが、ある日、散髪をして次の日に仕事に行くと、
〔若者〕:先生、髪切ったの?
〔私〕:いや、切ってないよ。
〔若者〕:えっ?
〔私〕:床屋が切ったんだよ。
〔若者〕:なんだ、一緒じゃん
〔私〕:床屋に切ってもらったんだよ。私はカネを払っただけ。自分でできないことを床屋にしてもらって、その感謝の証しとしてカネを渡したんだ。そして、床屋は自分でできないこと、たとえばパンを作ることをパン屋にしてもらって、その報酬としてカネを渡すんだよ。

貨幣経済の基本はこれです。
『♬お金はあとだ、仕事が先だ』〔♪ハサミ研ぎ〕
順番を間違えてはいけません。
順番を間違えると、貨幣の流れに翻弄されて、仕方なく過酷な労働をする羽目になります。
労働者は、
「カネをもらっているんだから顧客に喜んでもらえるように働かなければ・・・」
と言われたり、自分で言い聞かせたりします。
顧客は、
「カネを払っているんだからやれよ」
と、労働者に当たったりします。
つまり、みな「カネの奴隷」になってしまいます。
完全に本末転倒です。(構造が出来上がってしまって、自給自足も出来ず、みな仕方なく外で働いているのですから、それを弁えないと首を絞め合うことになります)

たしかにカネが流れれば自分にできないことをいろいろしてもらえて、有り難いことも起きます。
自分で作れない楽器を購入して演奏するなど、文化的な行動も可能になります。
しかしそれが過ぎるとかえって不幸を招きます。
貨幣経済に限らず、社会とは人間の生活に「柔軟性」を持たせるためにあり、言い換えればそれは「適応者生存・不適応者死滅」の対極でもあります。
しかしながら、倫理なき医療の進歩は「延命主義」を招き、省察なき経済の活性は「拝金主義」につながります。
以前にも言いましたが、人間社会における活動があまりにも活性化すると、すなわち倫理が追い付かず文明が進歩しすぎると、それだけ苦しみも増し、迷いも深まります。

「論語」の本質は「極端なことを避ける」です。
孔子その人も(言ったことを必ずしも実行しないほど)極端なことをしない人だったそうです。
渋沢が『論語』に何を見出したか正確にはわかりませんが、私から見ると、「様々な人」の中庸のように思えます。
「こういう人が良くてああいう人がダメ」というのではなく、様々な人の特性を認め、世の中に多様性を導入しようということです。
それに関しては私も賛同します。
ただ、その多様性を「経済」に組み込むというのは、違うと思うのです。
「経済」に直接関与しない人がいてもよいと思います。
(原初の人間は働いていませんでしたし、原始キリスト教では働いて良いのは年に4日です)
(今でも東南アジアの国では、家族の中の全員が働きに出なくても全員生活できます。かつての日本のように)
渋沢の言う「合本主義」が仮に成立したとしても、それは、日本の首相が唱えた「一億総活躍」と何ら変わらないと私には思われるのです。
労働力は充分足りています。
余っているくらいですから。(コンビニやスーパーの商品も余っていませんか?)
人口が減ればそれだけ顧客が減り労働者が要らなくなります。
子供や若者から減っていくので、学校の教員はますます就職難ですし、給与も減ってきていきます。
それなのに、老若男女問わず、これ以上外で働いたらどうなるのでしょうか?
ますます賃金の価値がなくなり、ますます人口が減り・・・
それ以上言う必要はないでしょう。

では、なぜ今「渋沢栄一」なのでしょう?(過去の功績はともかく)
だいいち、それによって『論語』を学ぶ人がどれほどいるでしょうか?(小中学校で導入しない限り浸透しないでしょう)
9割方は相変わらず、目先の損得で行動を選択し、労働者は奴隷になって(上手く騙されて)身の安全を確保し、資本家もそういう人を採用して安心を得ることでしょう。
それに、報道を司る人たちは何を目的とするのでしょうか?
「すべては公益のために」
「強欲な経済を否定し、みなが富む社会をつくる」
そう謳ってはいますが、今の日本の強欲資本主義を排するように見えて、結局は企業側の論理の「ワークシェアリング」に丸め込まれるのではないでしょうか?
なにか胡散臭いものを感じるのは私だけでしょうか?

ここで、先日届いた幸福の科学の冊子の一部を見てください。
〈正論が受け入れられない日本〉
【不思議なことに、この国は、正しいことを言っているところは評価されず、嘘を言うところがたくさん票を取れるようになっています。「嘘を言っている」ということはみな分かっているのに、「うまく騙されたい」ということの陶酔感に酔いしれている人が大勢いるのです。】〔2021年3月No.409より〕
〈世の中の間違いを正そう〉
【このあたりで、もう一度、“ぶち破る気分”を持たないといけないでしょう。
マスコミのほうも、嘘をつき、既成の事実を守って権力者を攻撃するふりをしながら、実は癒着しています。そうした”御用マスコミ“ばかりになっているのです。
やはり、これを“ぶち破って”、「本当の真理はこうだ!これに反するものよ、いつまでも生き残れると思うなよ」と言うぐらい若者の気分になって、もう一回、グワッと世の中の「常識」を引っ繰り返そうではありませんか。】
〈世の中に尽くす人生を選べ〉
【今は「神仏のための革命・戦い」の時なのです。みなさん、立ち上がってください!何をしているのですか。・・・(略)・・・
「光を選び取る」ということは、「世の中のために尽くす人生を選べ」ということです。それが、あなた自身のためにもなるのです。】〔2021年4月No.410より〕

既述のように、私は幸福の科学に全面的に賛同するわけではありませんが、スピリチュアリズムから見ると、世間一般に報道されていることの意図というのは、あまりにも「地上的」なのです。
社会の内部から社会を俯瞰するのではなく、社会そのものを超越した視点から社会を俯瞰する必要があると思います。

繰り返しますが、人間の課題は、「地上における人間の営みそのもの」を肯定も否定もせず超越し、推進力を内側から制御すること、(キリスト教的に言えば)霊長として地球を支配することです。
それが「神の義」であり、『論語』における中庸だと思います。



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