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無我=断見? [霊的存在]

正月になってから墓参りに行くというのは生まれて初めてですが、それは母親の身体が不自由になってきたために暮れに行けなかったからです。
それに母自身がそれを気にして毎日口に出すので、無理やり連れてタクシーで行ったわけです。
そのときに寺の奥さんから渡されたいつもの教化冊子『真宗の生活』を、通勤中の電車の中でいつものように私はパラパラめくってナナメ読みしました。
すると、8月の〈お盆〉の所の某寺住職で某大学名誉教授の記述が目に留まりました。

【引用】
日本では、昔からある庶民の仏教行事として、お盆が大切にされてきました。
一般的には、亡くなったご先祖の霊魂がこの世に戻ってきて、わが家では盆を過ごし、またあの世へ帰っていくと考えられ、そのご先祖の追善供養として送り火や迎え火が焚かれるのでしょう。
私が育った地域では、〔中略〕私自身もそうした光景を見るのは嫌いではありません。
〔中略〕しかし、そうしたお盆の行事が本当の仏教の教えを表しているかというと、そうとはいえないように思います。
古代インドに仏教以前からあったバラモン教の教えでは、すべての現象の背後には永遠不滅の実体である「我(アートマン:霊魂)」が存在し、それが輪廻転生を繰り返すと考えられてきました。
それは、いまもヒンドゥー教の文化圏に根強く影響が残るカースト制度のように、差別的な身分制度の基本にある考えです。
それに対して、お釈迦様の教えの根本には「無我」という思想があります。
つまり、肉体が滅んだあとに転生を繰り返すような「我」などは存在しないという考えです。
そして、ありもしない「我」が存在していると思い込み、それに執着することが人間の苦しみの原因だとされているのです。
昔から浄土真宗のご門徒は、亡くなった方を、私たちに「真実に目覚めよ」と呼び掛けてくださる仏さまとして仰いできました。
真宗門徒にとってお盆とは、その呼びかけに応え、本当の教えに耳を傾ける機会にしていくことが願われている行事なのです。
【終】

どうでしょう?
お盆のあり方どうこうの問題と、霊の存在をごっちゃにしていますね。
たしかにお盆の儀式は釈迦の教えとは無関係でしょうけど、我(アートマン)と輪廻転生は釈迦の教えの根本のはずです。
この住職はどこでどう釈迦の教えを知ったのでしょう?
だいいち、肉体が滅んだあとではなく、肉体が滅ぶ前の自分がどうして他の人ではなくて自分なのか、考えたことはあるのでしょうか?
それに、
《亡くなった方を、私たちに「真実に目覚めよ」と呼び掛けてくださる仏さまとして・・・》
と言っているその仏さまは「霊的存在」ではないのでしょうか?
また、
《ありもしない「我」が存在していると思い込み、それに執着することが人間の苦しみの原因・・・》
と言っていますが、「我」(アートマン)と「執着すること」とは別ではないでしょうか?
『順世派』に代表される断見は今の唯物論に当たりますが、現に、死んだら終わりの唯物論者たちには、「執着」に満ちている人がたくさんいます。
「人間、どうせ死ぬんだから」
と言って、無責任な振る舞いを平気でする人がたくさんいるのです。
同じ「人間、どうせ死ぬんだから」を、この住職のように地上の執著を捨てる方に考える人はまだいいのですが、そういう人はむしろ少ないと思うのです。
一般に〈断見〉というのは危険なのです。
むしろ、〈常見〉(我:アートマン・輪廻転生)は、そういう無責任な思考や行動を内側から食い止めてくれます。

仏教というのは釈迦の教えのはずです。
にもかかわらず、実体や輪廻転生がないという意味の「無我」が一部の住職や仏教関係者に受け継がれているのいうのは驚きです。
というのも、釈迦はハッキリと輪廻転生を説いているからです。
事実、『ブッダの言葉』には、
「この人はあと一回転生して解脱する」
というような言葉があります。
ということは、その前提となる実体(アートマン)を認めているということです。

「霊」という不滅の実体があることはスピリチュアリズムでは当然のことですし、エドガー・ケーシーもそのリーディングにおいて、
「人間の実体は霊である」
と言い切っています。
これは仮に地上に生を受けることが一回きりであっても、霊という自体はあるということを意味します。
いつものようにくどいのを承知で「断見」の人に問いますが、
「今居る貴方は、なぜ貴方でなければならないのですか?」
「なぜ他の人に生まれなかったのですか?」

ではなぜ「無我」を曲解したのでしょうか?
どうも伝道の途中で、「我」を肉体の欲求と関係する「我執」にすり替えてしまったからだと思われます。
「自分の状態」と「自分の存在」を混同して一緒くたにしてしまったのでしょう。
我執(地上的な執著)がなくなることで、我(アートマン)もなくなるのだということ。
どちらかというと「言葉」に欺かれてしまった感じがします。【*】

私が習っていた中国整体の学校に、張先生という気功の名人がいて、気功にとどまらず深い修行を実践していました。
その先生は私たちに、
「本当に肉体の感覚がなくなるよ」
と言っていました。
ということは、そういう境地の自分が居るということであって、実体がなくなるわけではないということです。
解脱して地上の執著がなくなって、地上に生まれなくなっても、霊は滅することはないのです。

たしかに死後の世界、殊に高い領域の霊界(生前も同時に居る、また、寝ている間に行っている世界)に関しては、エドガー・ケーシーは、
「肉体を持った者にはわからない」
と言い、ヴィットゲンシュタインは、
「生の経験ではない」
と言い、釈迦は、
「妄想だ」
と言って、口を閉ざします。
つまり、「無い」のではなく、時間や空間を前提に語る地上の人間には「語り得ない」というだけなのです。

夜ぐっすり眠れるときは、夢も見ずに、気がついたら朝だったということがあります。
全身麻酔で手術を受けると、気がついたら終わっていたということがあります。(私も6年前に経験しました)
寝ている間に旅しているはずの霊界のことは全く覚えていません。
それは、起きてからは地上の感覚では表現のしようがないからです。
死んで霊界の高い所へ行けば、逆のことが起こるでしょう。
でも、実体(アートマン)がなくなることはありません。


【*】(前回の引用から再度)ヒンドゥー教では永遠不滅・独立自存の個我、個人の本体としてのアートマンの存在を信じ、これを輪廻の主体と考える。ここで言うアートマンは、単なる個人の我としての「自我」ではなく、世界に対峙する個人の我としてのアートマンであり、よって個我と訳される。無我という言葉はウパニシャッドの atman(Sk.語 アートマン)に否定の接頭辞 an- を付けたもので、アートマンの否定の形になっているが、釈迦はウパニシャッドの形而上学的な梵我一如思想に対抗して無我(非我)を説いたのではないと考えられており、釈迦の無我説はアンチ・アートマン思想ではない。
なお、ある人はアートマンの代わりに「阿頼耶識」を当てます。
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