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地獄から天国へ(改) [中庸]

ポストを見ると、幸福の科学の冊子が入っていました。(No.426 ‘地獄も知らないで・・・’)
しばらく放っておいたのですが、暇になったこともあって捲ってみると、最初の見開きに気になることが書かれていました。

【引用】
世の中には、
勉強をすればするほど、
知恵を失い、バカになる人がいる。
シンプルな真理がわからなくて、
複雑に考えすぎたり、
「エポケー」という判断中止(*)に逃げこんだり、
懐疑論者(*)になることを、
知者になることだと思い込んでいる人がいる。

今の学校教育では、
魂も、天国、地獄も教わらない。
調査報道とかにあこがれるマスコミ人も、
この世のことしか扱わない。
幽霊話はエンタメになり、
幽体離脱は、
脳と神経の作用(?)ということにしてしまう。
いつから人間は、
こんな愚かになってしまったのだろう。

善悪(?)が分かるということは、
天国的か地獄的か(?)がわかるということだ。
地獄も知らないで、
地位や名誉、
財産や異性への欲望を追い求めて、
「知の巨人」もあったものではない。
・・・・・・・・・・・・
【以下略】

どうでしょう?
相変わらずですね。
まあそう言いたくなる気持ちは解ります。
〔そう言っている私も相変わらずですが〕
でも唯物論と自然科学世界観が浸透した現代社会で、シンプルな真理をまともに受け止めることができる人がいるでしょうか?
また、これを読んだ人はこのように言われて考えが変わるでしょうか?
というより、おそらく大半の人は善悪とか天国的とか地獄的とか、用語そのものの意味すら分からないと思うのです。

(*)複雑に考えたり、判断中止したり、懐疑することはむしろ重要です。
というより不可欠です。
そして、
「すべてを疑っても、(自分の世界を経験している)自分が居ることは疑いようがない」〔われ思う故にわれ在り〕
と覚ります。
ヴィットゲンシュタイン流に言えば、
「ともあれ語り得ることは語り得る、語り得ぬことは沈黙しなければならない」
「世界とは自分の世界である」
「自分がどの様であるかではなく、自分が居ることそのものが神秘的なのである」
つまり、《自分≠自分の肉体》であること、自分が霊的存在であることを知ります。(霊的自覚であり、唯物論(実在論)を前提とする証明ではありません)
哲学にしても宗教にしてもスピリチュアリズムにおいても、すべてはここから始まるのです。
もしそれを抜きにして受け止めればすなわち思考停止し盲信に繋がります。
その後の付随する弊害は見てのとおりです。

(?)あるいは、唯物論(実在論)と自然科学的世界観から抜けられずに、霊や神仏は脳の産物であり「肉体が死んだら終わり」になってしまいます。
その弊害は義のない利己主義者の無責任な行動を見ればわかります。

もちろん、大川氏の言うこともわからないではありません。
判断中止や懐疑論で止まってしまうと、斬新なことを受け入れるのに積極的でなくなり進歩がなくなります。
よくプロの学者が、《気》や《異なる波動の物質》あるいは《異星人》の存在を鼻で笑ってハナから否定することがあります。(そうすればいろいろな意味で安泰ですから)
もっとも、それは学問的に、さらに科学的に正しい姿勢ではありません。

何はともあれ、理性による《霊的自覚》が大前提です。

(?)ここで言う《善悪》とは、地上の〈善悪〉(小善小悪)とは別の次元・階層であって、霊的な《善悪》(天国か地獄か)です。
地上の〈善悪〉に執著すること(浪費吝嗇、自由束縛、平等差別、などを対立させて、一方を肯定、もう一方を否定と白か黒かに終始する)が地獄的なのです。
すなわち悪平等の《悪》です。
それら直線全体を超越すること、上からの光があって地上でその陰影を見ているだけだと知ることが、天国的なのです。
すなわち善知識や性善説の《善》です。
カエサルのものと神のものを区別する必要があるということです。

しかしながらいつも言うように、それを体感する具体的な方法が示されていません。
本来は、即非や絶対矛盾自己同一などの地道な哲学的省察から始まり、人によっては学業や芸術などの必要無駄が助けになります。
あとは本人の実践あるのみです。
残念ながら、大川氏が再三言う「教え」とか「 奇蹟」によっては定着しません。
足が地に着いていないので、それだけではいずれ消えてしまいます。〔ダンテの『神曲』の冒頭を参照されたし〕

つい先ほど、あるネットの書き込みを見て気になったことがあります。
それはやはり宗教における「救われる」ということが、「癒されること」と当たり前のように同義になっているということです。
それはギャンブルや麻薬と一緒で、宗教団体がカルトであろうとなかろうと、本人の問題であって、他人がとやかく言うことではないと言うのです。
もちろん私も、組織がどうであろうと本人次第だと思います。

ただ、「救い=癒し(麻薬)」が世間一般で通っていることには危機感を覚えます。
繰り返しますが、「救い」とは「道を行かせること」、またその切っ掛けを与えることです。
けっして楽にさせることではなく、むしろ迷わせることです。
それが地獄から天国へ移行させることです。

ついでに言いますと、天国や極楽浄土は「終着点」ではありません。
迷いながら行く「道」の出発点です。
解脱への第一関門に当たる「預流果」にやっと達したという段階です。

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