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神の心 [中庸]

思索中ふと思い出したのが、故池田晶子女史の問い掛けです。

「人権が天与のものなら、どうして人がわざわざ文章にする必要があるのか?」

これはいったい何を言っているのでしょうか?
まず、社会があるということは同時に人権があるということであり、人権のない社会はない、人権のない集団は社会ではないということです。
近頃、特に若い人は、末端の表現である言葉にとらわれて白か黒かの思考から、
「人権がある社会なら、人権がない社会だってあり得る」
などと言う人たちが出現するかもしれませんが、それは根本的に間違いです。
〔今(以前から?)、ある意味で人権のない社会に近い状態があちこちで見られると思います。それに対して、「今は今なんだ、昔のことは言わないでくれ」みたいなことを言って、ただ順応や適応だけを考える若者が増えていると思いますが、完全に「様式」と「状態」を履き違えています。(進んで伝染病に感染する。楽だからだけれど、麻薬のようなもので自身を蝕む。)〕

それに、地上における世法と雖も、それは神の地上における人間の末端の表現であって、けっして人間が勝手に作ったものではないということ、「神の心」の反映であり、またそうでなければならないということを表しているのです。
どんな場合でも、「神がもとで人間がそれを表現している」ということを忘れてはいけません。
人間は神の様態(表現)なのです。
神が宝石だとしたら人間はカットされた面であって、一体なのです。
戻りますが、神から人権が与えられているからといって、
「もう保証されているのだから安全で守られているのだから、何もしなくてもいい」
とか、
「天与のものだといわれてもいても実際に人権が守られていないから、言葉で強化しているのだ」
と神と人間を切り離してはいけません。

もともと人間は攻撃的な存在ではありません。
もとから人間は社会的存在です。
原初の状態であっても、欲が出なければ殺し合いはなかったでしょうし、今のように法律があっても欲が出れば殺人は起こります。
すべては神の掌の上でのことで、それを人間の言葉で表現することで、はじめて人間の活動が可能になるのです。

まあこれは基本的なことで、学校の社会科で教わるはずですが、人権があるということは、人を殺めてはいけない、傷つけてはいけない、などの規制が伴います。
社会の営みを人間の言葉で表現しました。
ところが、言葉は末端の表現で常に「一面性」を帯びています。
人間に生きる「権利」があれば、同時に「規制や義務」が伴います。
社会契約を結んでいるわけですから。
言葉の一面性は拭えませんが、規制や義務もはじめから同時に神に内在しているものです。
ということは、社会において、完全なる「自由」はあり得ないということです。
完全に自由であるならば、人を殺すのも自由なのですから。

みなさんは、
「自由で平和な社会の実現」
などと聞きませんか?
まあ、この場合の自由は、「不当な抑圧がない」という意味なのでしょうが、自由を積極的にとらえて拡大解釈してしまっては危険です。
一面性があることを忘れてはなりません。
実際、「自由経済」や「自由競争」なるものがどんな結果をもたらしているかを見ればわかるはずです。
経済的に力のある者が自由に行動できれば、殺傷とまではいかなくても、どれだけ苦しめるか明らかです。(格差拡大とか、株価だけ上昇とか)

それでは、
「平等で平和な社会」
はどうでしょう?
もちろん「同じこと・同じ数」という意味の平等ではないとします。
再三言うように、同じことをしては「和」ができません。
ならば、百歩譲って「機会が平等で」ということにしましょう。
それで平和は実現可能だと思いますか?
前に紹介した識者たちの言うように、機会が平等であればその人の資質や趣向や意志によって能力を存分に発揮することができて、自然と役割分担ができて、結果みながそれなりに社会貢献できて充実な人生を送れるはずですけど。
今の日本は他国と比べてわりと機会が平等だと思いますが。
平和になっているでしょうか?(いわゆる「戦争」をしないという意味ではありません)
今後、さらに機会の平等が進んで、ますます平和になることを想像できるでしょうか?

機会の平等が進めばそれだけ規制がなくなるわけで、ある意味「自由」が拡大されるのです。
自由が拡大されれば前述のように自己責任が増すわけです。
それに、忘れてはいけないこととして、人間には「強欲・貪欲」があるということです。
ということは、地上的物質的な損得勘定で行動をすることで、ある所に殺到して過度の競争が始まったり、ある所にはなり手がいなくなったりします。
それでも選択できるうちはいいのです。
エスカレートすると、一方的に物質的有利なことの選択を余儀なくされるのです。
精神的霊的に健康だという理由で物質的不利なことを承知で選択したらどうなるでしょうか?
「不利になる」にとどまらず、そこから「生活できなくなる」に変わります。
「誰でも大学進学できる」が「みんなが大学進学しなければならない」に変わり、
「70歳まで働ける」が「死ぬまで働かなければならない」に変わり、
「男女問わず雇用される」が「男女ともに労働しなければならない」に変わります。
これで平和と言えるでしょうか?
もうすでに結果は出ているではありませんか。

ではどうすれば平和が実現するのでしょうか?
ひとえに、「君主」が現れることです。(またか!?)
よく言われるのは、今のコロナ禍などで人々が不安になると、大衆はつい「強いリーダー」を求める傾向があるけれど、それは危険なことだと。
もちろん、今の状態のままなら、強いリーダーが生まれれば、「右か左か」という地上に張り付いた思考のため、軍事的な国家主義を招く可能性が充分あるでしょう。
また、カネ持ちとか地上的な力のある者が主導権を握ると、例外なく今の日本のような奴隷王国になります。
再三言うように、上に立つ人とは(肉体的欲はあっても)強欲のない人、地上的なものを超越した人であって、必ずしも地上的に立派な人ではありません。(喩えれば交差点の真ん中の台の上に立つ交通整理のおじさんでいいのです)
言い換えれば、「神の心を具現することができる人」すなわち「霊的指導者」です。
超古代文明にはそういう指導者がいたそうです。(古代の天皇もそれなのかもしれません)
そういう人が君主として擁立されるように、要人も大衆も意識が変わる(拡大する)ことが大前提です。
私は人々の理性の発動と意識拡大のために、このように懲りもせず省察を促しているわけです。
人権の確保に「規制」が伴うように、平和の実現には何でも機会平等ではなく、ある程度「あらかじめ定められた分業」が伴うことを理解する必要があります。

それと、池田女史はこうも言っていました。(哲学者はみな言います)
「幸福とは当たり前のことができることである」
周囲を見て、今の世の中に当たり前のことが出来ている人がどれだけいるでしょうか?
本来することをして「生きて」いるでしょうか?
みな生存はしていますが、おそらく生きている実感がないと思います。
自分自身の「生活」がやっとだと思います。
それはひとえに、「分業」が出来ていないからです。
劇薬「平等(病同)」の副作用が激しすぎるのです。

してみると、前に取り上げた聖書の中の、
【神は男には労役の苦しみを与え、女には出産の苦しみを与えた】
は、まさに「神の心」の表現ではないでしょうか?
これが人間界の戒律に定められていたとしても、けっして偏った法ではなく(言葉の一面性は拭えませんが)、人間の幸福のために、「当たり前のこと」をするように定められた神の心の反映といえるはずです。
もちろん、原始返りをするというのではありません。
物質的な条件を超越して、本来の姿になるのです。
そうすることで、男は失った肋骨を取り戻すことができるのです。

再三取り上げる幸福の科学は言うまでもなく、たまに郵便ポストに入っている冊子『陽光ライフ』(崇教真光)には、神の時代から現代を経て未来へと、文明の流れがイラストで示されています。
今の争いに満ちた唯物主義から、いずれはまた芸術やその他文化に満ちた愛の時代に戻ることになっています。
ただし、それもパラレルワールドの一つであり、その人が光(本質)を取るか闇(末端)を取るかで入り込む世界が決まります。
スピリチュアリズムに則った健全な宗教団体は、みなその実現を目指して大衆に働きかけているのです。

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