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生物多様性 [霊的存在]

少し前のことですが、TVの『人間の営みによる環境への影響』の番組で、人間の活動によって他の動物が絶滅に追いやられているみたいなことを言っていました。

道路をつくったために、シマウマが分断されて、縞模様が斑点になったとか、成長する前に死亡する個体が増えたとか、何かと人間が生態系を乱して他に悪影響を及ぼしていると。
それに対して、ある出演者“I”が、「あらかじめこういう疑問を投げかけてください」と頼まれたかのように、問い掛けました。
(I):「でも絶滅するのは仕方ないのではないでしょうか?」
それに対して、学者先生がこう答えました。(そのとき私はてっきり、もっと高尚なことを言うのかと思っていました)
「たとえば、人間がラッコを乱獲することによって、ウニが増え過ぎて、そのウニが海藻を食べ尽くしてしまって、生態系が崩れて、結果的に人間の生存を脅かすことになるんです」

みなさん、どう感じますか?
「あれっ?」
と思いませんか?
また、質問者(I)が素直に納得していたのも解せないかと思います。(TVだから、役だからかも)
もしみなさんが質問者だったら、おそらく、
「そんなつもりで言ったんじゃないよ」
と思うことでしょう。
まるで、
「仕方ないで済ませるなんて思ってやしないか?」
「人間に返ってこないなんて思うなよ」
みたいな言い方ですね。

そうではありませんね。
何億年も前から、生物同士の攻防は繰り返されてきたのですし、中には捕食しすぎてエサがなくなって自滅した種もあれば、ライバルに負けて絶滅した種もあることでしょう。
また、大隕石が落下したり、地球が凍結してほとんどの種が絶滅したこともあるでしょう。
最近の研究では、種子植物の大繫栄によって「大氷河期」が訪れたとか言われています。
いずれにしても、そのたびに生態系は崩壊し、また新たな生態系が出来上がるということを繰り返してきたはずです。
今でも一日に約7種の生物が絶滅しています。
「人類の存続」にかかわらず、それは生物の宿命であって、そういう意味で「絶滅は仕方ないことだ」と私たち一般人は言っているのです。
そもそも、人類を含めていずれみな絶滅するのに、なぜ現れるのかを考えてみないのでしょうか?

ならば、私が学者先生にどういう回答を期待していたのか、ですけど、

【*】たとえば、マンモスは人類の乱獲によって絶滅したとも言われます。
もしそれが本当だとしても、当時の人類には「乱獲」の概念はなかったことでしょう。
「社会」を作る前であって、ただ強いものが生き残るというのが「適者生存」の掟なのですから。
しかし、社会を作って「人間」になってからは、訳が違います。
知性を備えているのですから、その知性を「制御」する必要があります。
そのうえで、環境というものを捉えなければならないと思うのです。
単に「適者生存」ではいけませんし、表面的に生態系を維持するということでもないのです。

そんなところですか。

この番組の話の基になると思われる文献を見つけました。
【参考文献】
アメリカのデビット・ドゥギンズ博士は世界で最も有名なキーストーン種を見つけました。ラッコです。
アラスカから南カリフォルニアまでにかけて、その海岸周辺にはかつて、ケルプ(コンブに似た大型の海草の総称)が骨格をつくる生態系(ケルプ生態系)がひろがっていました。そこにはラッコが生息していました。
18世紀になると、ヨーロッパの人々や入植者により、北米の西海岸でラッコの乱獲がはじまりました。当時、ラッコの毛皮が高値で取引されたからです(図3)。乱獲の結果、19世紀末には、ラッコは絶滅寸前にまで追い込まれました(現在も絶滅危惧種に指定されています)。
すると、まったく想像もつかなかったことが起こりはじめました。ラッコの消失とともに、ケルプ生態系自体が姿を消しはじめたのです。
ケルプ生態系崩壊の理由は単純でした。
ラッコがいなくなった海では、ウニが爆発的に増えました。ラッコの主食はウニで、ラッコがウニの増加を抑える役割を担っていたのです。そして、ウニはケルプを食べます。つまり、ラッコがいなくなったことによりウニが大発生し、ケルプが食い尽くされてしまったのでした。
ラッコのいなくなった海には、こうして“ウニの荒野”がひろがりました。この歴史から、ラッコはケルプ生態系のキーストーン種だったことがわかります。
この例からもわかるように、やっかいなのは、どの種がキーストーン種なのかわかりづらいところです。ケルプ生態系の例でも、人類は、ラッコが絶滅寸前まで個体数を減らして初めて、キーストーン種であることに気がつきました。
《生物多様性保全はヒトのため》
生態系の生物多様性の喪失は、生態系機能の低下を導きます。加えて、キーストーン種を失った場合、直ちに生態系の崩壊がはじまります。
つまり、現在進行中の生物多様性の喪失が続けば、生態系の崩壊が、ある日突然、しかし確実に訪れるのです。そして、生態系サービスを失った私たちヒトも、生存を脅かされることになるでしょう。
では、どうすればいいのでしょうか?
まずは、生物多様性によりもたらされる生態系サービスはヒトの生活を支える基盤なのだ、と認識することが大切です。
また、現在進行中の大量絶滅の原因は人間活動にあります。ですから、私たちは自分で自分の首を絞めているようなものなのです。結局は、自分自身の生命を守る最も賢明な選択肢が生物多様性保全だと肝に銘じ、それに努めていくしかありません。
この結論に異を唱える人はいないでしょう。問題は、どうやって実践するかにつきます。保全活動と経済活動とのトレードオフもやっかいな問題です。
ただ、私たちの生活スタイルには、生物多様性保全のために改善できることがたくさんあります。生活スタイルの改善を進めながら、一方で、環境破壊をもたらす行為を拙速に是認することなく、躊躇し続けることが大切です。
【終】

この文献の中で、《生物多様性保全はヒトのため》という言い方に注意してください。
もし、
「あくまで人間の都合だけど」
と居直っているのなら、エゴを認めたうえでそれを諦観する「霊的視点」を設けていることになるのですから、健全なのです。
どころが、上の文章のニュアンスは、
「人間に返ってくるのだから、当然のこととして生物多様性を図らなければならない」
という感じです。
裏を返せば、
「人間に返ってこなければ、どうでもいい」
ともとれます。

エゴはいつの世にも何処にも誰にもあります。
どうやっても消えません。
でもこの文章を見る限り、それを弁えていません。
自明のこととして話を進めています。
つまり、エゴイズムに陥っているのです。
世の知識人たちがこんな調子なのですから、地球上にエゴイズムが蔓延しているということです。

近頃は、地球の周りの宇宙空間が「核廃棄物」であふれていると言われています。
それもこの思考回路の延長ではないでしょうか?
万物の霊長である人間が、霊的視点を設けずに相変わらず地上の攻防に終始するのはいかがなものでしょうか?
やはりここでも、「人類の義」で止まっているのが窺えます。

繰り返しますが、前述の『論語』の捉え方にも通じます。
「1ではなく多」というように「偏らないこと」で、ただ地上的な人間の活動の「繁栄」を計らうことではないはずです。
1であろうと多であろうと、それらを超越する霊的視点を設けること(神の義)、「人間の活動そのものが一面的にならない」ための省察が、すなわち「中庸」の意味だと私は思います。


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