SSブログ

生物多様性 [霊的存在]

少し前のことですが、TVの『人間の営みによる環境への影響』の番組で、人間の活動によって他の動物が絶滅に追いやられているみたいなことを言っていました。

道路をつくったために、シマウマが分断されて、縞模様が斑点になったとか、成長する前に死亡する個体が増えたとか、何かと人間が生態系を乱して他に悪影響を及ぼしていると。
それに対して、ある出演者“I”が、「あらかじめこういう疑問を投げかけてください」と頼まれたかのように、問い掛けました。
(I):「でも絶滅するのは仕方ないのではないでしょうか?」
それに対して、学者先生がこう答えました。(そのとき私はてっきり、もっと高尚なことを言うのかと思っていました)
「たとえば、人間がラッコを乱獲することによって、ウニが増え過ぎて、そのウニが海藻を食べ尽くしてしまって、生態系が崩れて、結果的に人間の生存を脅かすことになるんです」

みなさん、どう感じますか?
「あれっ?」
と思いませんか?
また、質問者(I)が素直に納得していたのも解せないかと思います。(TVだから、役だからかも)
もしみなさんが質問者だったら、おそらく、
「そんなつもりで言ったんじゃないよ」
と思うことでしょう。
まるで、
「仕方ないで済ませるなんて思ってやしないか?」
「人間に返ってこないなんて思うなよ」
みたいな言い方ですね。

そうではありませんね。
何億年も前から、生物同士の攻防は繰り返されてきたのですし、中には捕食しすぎてエサがなくなって自滅した種もあれば、ライバルに負けて絶滅した種もあることでしょう。
また、大隕石が落下したり、地球が凍結してほとんどの種が絶滅したこともあるでしょう。
最近の研究では、種子植物の大繫栄によって「大氷河期」が訪れたとか言われています。
いずれにしても、そのたびに生態系は崩壊し、また新たな生態系が出来上がるということを繰り返してきたはずです。
今でも一日に約7種の生物が絶滅しています。
「人類の存続」にかかわらず、それは生物の宿命であって、そういう意味で「絶滅は仕方ないことだ」と私たち一般人は言っているのです。
そもそも、人類を含めていずれみな絶滅するのに、なぜ現れるのかを考えてみないのでしょうか?

ならば、私が学者先生にどういう回答を期待していたのか、ですけど、

【*】たとえば、マンモスは人類の乱獲によって絶滅したとも言われます。
もしそれが本当だとしても、当時の人類には「乱獲」の概念はなかったことでしょう。
「社会」を作る前であって、ただ強いものが生き残るというのが「適者生存」の掟なのですから。
しかし、社会を作って「人間」になってからは、訳が違います。
知性を備えているのですから、その知性を「制御」する必要があります。
そのうえで、環境というものを捉えなければならないと思うのです。
単に「適者生存」ではいけませんし、表面的に生態系を維持するということでもないのです。

そんなところですか。

この番組の話の基になると思われる文献を見つけました。
【参考文献】
アメリカのデビット・ドゥギンズ博士は世界で最も有名なキーストーン種を見つけました。ラッコです。
アラスカから南カリフォルニアまでにかけて、その海岸周辺にはかつて、ケルプ(コンブに似た大型の海草の総称)が骨格をつくる生態系(ケルプ生態系)がひろがっていました。そこにはラッコが生息していました。
18世紀になると、ヨーロッパの人々や入植者により、北米の西海岸でラッコの乱獲がはじまりました。当時、ラッコの毛皮が高値で取引されたからです(図3)。乱獲の結果、19世紀末には、ラッコは絶滅寸前にまで追い込まれました(現在も絶滅危惧種に指定されています)。
すると、まったく想像もつかなかったことが起こりはじめました。ラッコの消失とともに、ケルプ生態系自体が姿を消しはじめたのです。
ケルプ生態系崩壊の理由は単純でした。
ラッコがいなくなった海では、ウニが爆発的に増えました。ラッコの主食はウニで、ラッコがウニの増加を抑える役割を担っていたのです。そして、ウニはケルプを食べます。つまり、ラッコがいなくなったことによりウニが大発生し、ケルプが食い尽くされてしまったのでした。
ラッコのいなくなった海には、こうして“ウニの荒野”がひろがりました。この歴史から、ラッコはケルプ生態系のキーストーン種だったことがわかります。
この例からもわかるように、やっかいなのは、どの種がキーストーン種なのかわかりづらいところです。ケルプ生態系の例でも、人類は、ラッコが絶滅寸前まで個体数を減らして初めて、キーストーン種であることに気がつきました。
《生物多様性保全はヒトのため》
生態系の生物多様性の喪失は、生態系機能の低下を導きます。加えて、キーストーン種を失った場合、直ちに生態系の崩壊がはじまります。
つまり、現在進行中の生物多様性の喪失が続けば、生態系の崩壊が、ある日突然、しかし確実に訪れるのです。そして、生態系サービスを失った私たちヒトも、生存を脅かされることになるでしょう。
では、どうすればいいのでしょうか?
まずは、生物多様性によりもたらされる生態系サービスはヒトの生活を支える基盤なのだ、と認識することが大切です。
また、現在進行中の大量絶滅の原因は人間活動にあります。ですから、私たちは自分で自分の首を絞めているようなものなのです。結局は、自分自身の生命を守る最も賢明な選択肢が生物多様性保全だと肝に銘じ、それに努めていくしかありません。
この結論に異を唱える人はいないでしょう。問題は、どうやって実践するかにつきます。保全活動と経済活動とのトレードオフもやっかいな問題です。
ただ、私たちの生活スタイルには、生物多様性保全のために改善できることがたくさんあります。生活スタイルの改善を進めながら、一方で、環境破壊をもたらす行為を拙速に是認することなく、躊躇し続けることが大切です。
【終】

この文献の中で、《生物多様性保全はヒトのため》という言い方に注意してください。
もし、
「あくまで人間の都合だけど」
と居直っているのなら、エゴを認めたうえでそれを諦観する「霊的視点」を設けていることになるのですから、健全なのです。
どころが、上の文章のニュアンスは、
「人間に返ってくるのだから、当然のこととして生物多様性を図らなければならない」
という感じです。
裏を返せば、
「人間に返ってこなければ、どうでもいい」
ともとれます。

エゴはいつの世にも何処にも誰にもあります。
どうやっても消えません。
でもこの文章を見る限り、それを弁えていません。
自明のこととして話を進めています。
つまり、エゴイズムに陥っているのです。
世の知識人たちがこんな調子なのですから、地球上にエゴイズムが蔓延しているということです。

近頃は、地球の周りの宇宙空間が「核廃棄物」であふれていると言われています。
それもこの思考回路の延長ではないでしょうか?
万物の霊長である人間が、霊的視点を設けずに相変わらず地上の攻防に終始するのはいかがなものでしょうか?
やはりここでも、「人類の義」で止まっているのが窺えます。

繰り返しますが、前述の『論語』の捉え方にも通じます。
「1ではなく多」というように「偏らないこと」で、ただ地上的な人間の活動の「繁栄」を計らうことではないはずです。
1であろうと多であろうと、それらを超越する霊的視点を設けること(神の義)、「人間の活動そのものが一面的にならない」ための省察が、すなわち「中庸」の意味だと私は思います。


nice!(0)  コメント(0) 

1/8対策 [霊的存在]

奇しくも、今年講師としてお世話になる高校の教育理念が『論語と算盤』であり、創始者が渋沢栄一に傾倒していたとのことです。
4月の頭に、講師の人たちの説明会があり、そのときに創始者伝の書籍をいただきました。
その本の帯には、
「女子の学校といえば女学校という時代にあえて女子商業学校を起こした。今日の女性の社会進出を予知していたかのように。・・・」
とありました。
ただ、渋沢のいう「公益」と「女性の社会進出」がどう関係あるのか、または別のことなのか?
また、
「強欲な経済を否定し、みなが富む社会を作る」
と戦前唱えたことを今取り上げることで、今の強欲資本主義の見直しになるというのか?
私にはその辺が腑に落ちません。

というのも、我々非常勤講師にとって、持ち時間の増減というのは物質生活に直結するのであって、昨年まで週18時間あったのに今年は週16時間というのは、今後の不安を含めて心情的にもかなり厳しいからです。
事情を聞けば、1年生のクラス数が1つ減ったからとのこと。
我々学校の教師、特に講師は、若者相手の職業ですから、子供の減少の影響を真面に受け、人口減少による閉塞感を肌で体感することになるわけです。

昨年度、私が講師を勤めた高校でのこと。
私の隣の席の女性の数学講師は、前職場の学校で3年間専任教師をやっていたときに、そこの男性専任教師と結婚して、職場を移して非常勤を6年やっていると聞きました。
幼稚園生の子供がいて、何か行事などがあるときには、欠勤したり早退したり、大変な思いをしています。
もちろんその女性が専任教師を続けていれば、子供の面倒を看る暇はほとんどありません。
でもどうして、講師をして稼がなければならないのでしょうか?
主人は40歳ぐらいの専任教師なのですから、収入は充分あるはずです。
理由は簡単。
顧客(生徒)の数に対して、労働者(教員)の数が多過ぎるからです。
今私がいる講師室でも、結婚している女性教師が5年も10年もそこで講師を続けています。
まあそれでも、そうして生活結婚ができるのならいいでしょう。
でもそれは、女性だからできるのです。
逆はありません。
その講師室には、20代の若くて能力のある男性が何人もいて、3年も4年も非常勤講師をしています。
もちろんみな独身です。
では、専任や正社員の女性と結婚すれば、と言うかもしれませんが、男が家事や育児をするというのは、口で言うのは簡単ですが事実上無理です。(出産はもちろん、生理学的に育児は女性にしかできません)
だいいち、そのような条件では世の女性は承諾しません。
私も経験がありますが、現在の事情から、誠実さをもって「共稼ぎを条件」に結婚の話を持ち掛けても、出産可能な若い女性はまず受け入れません。
男女が同等に収入を得られる世でありながら、女性は自分が働かないでいられる相手を希望するのです。(それそのものはむしろ神の心に適っているのですが)
もはや女性の立場が強すぎて、一般男性は手も足も出ません。
(それでも女を求めるのが「寄生虫」のサダメ。どうしてもという場合、結局、男は嘘を言うしか手立てがありません。「いずれ実家の財産を分配する」とか、「いつかは独立して自分の店を持つ」とか美味い話をして・・・)

ともあれ、少子化、人口減少は、全国的に歯止めがかからないというわけです。
(政府の「不妊症治療の無料化」など焼け石に水です)

労働者側からすれば、人口が減れば、顧客が減り、さらに労働力も要らなくなるという確信を得ます。
ところが、企業側からすれば、人口が減るのなら、労働力と経済を維持するためにと、老若男女問わず駆り出そうと目論みます。
いわゆるワークシェアリングは、多数の労働者が身を削って価値のない報酬を取り合うだけとなります。
そして、ますます子供ができなくなります。
これは、最近言われている日本の「貧困率ワースト8位」と無関係ではありません。
もし今、渋沢栄一が生きていたらどう思うのでしょう?

⁂(参考までに)
〈給料があがらないのは「無能をクビに出来ない」から? ひろゆき氏発言に賛否両論〉
【キャリコネニュース2021年06月15日 21:01】
それに対するコメントです。
〔投稿者A〕:クビにしても給料上がらん。50代だぶついとる。
これに対して私はこう書き込みました。
〔私〕:給料が上がらないのは、働く人口が多いからですよ。「何とかフリー」のおかげで。所詮ワークシェアリングという企業側の論理で動いていますから。
すると、小山という方から返信がありました。
〔小山氏〕:マスコミと野党と労組が持ち出して、財界と与党がこれ幸いと尻馬に乗った結果です。


いくら「公益」とか「強い国家」と言っても、日本から人がいなくなってしまっては、元も子もありません。
それとも渋沢の思想が人口減少や貧困を食い止めるというのでしょうか?

以前にも一度言ったと思いますが。
私の周囲の同年代の友人や知人あるいは同僚たちを例にとると、その中で結婚している人が半分、その中で子供がいる人が半分、そのうちのほとんどは子供が1人だけです。
単純計算で、一世代過ぎると人の数が「8分の1」になります。
一世代を30年とすれば、90年で「512分の1」です。
もちろん、上の世代が生きていますから、それほど減るようには感じませんが、上の世代はいずれいなくなるので、子供の数だけ計算すればどうなるかわかると思います。

昭和40年頃は、人口が増えすぎて、土地が狭くなって困っているということで、人体を機械で8分の1に縮小して、ミニチュアのような町に住まわせるというSFのような話がTVでありました。〔ウルトラQ「1/8計画」〕
今は、30年で次世代の数が8分の1になってしまうという計算で、その対策をすることになるので、「1/8対策」とでも言っておきましょうか。

ここである学者(作家)の説を簡単に引用させていただきます。
『もうすぐ、日本人が「絶滅危惧種」になる日がやってくる』
〈冗談では済まないこの国の未来〉〔河合雅司教授〕

【引用】
そしてその見方が、気休めのような都合のよいデータをかき集めて、人口減少そのものに全く問題がないかのような幻想を抱かせようとするのであれば、あまりに無責任であり、非常に危うい考えであると言わざるを得ない。
今取り上げるべきなのは、人口の絶対数が激減したり、高齢者が激増したりすることによって生じる弊害であり、それにどう対応していけばよいのかである。経済が成長し続けたとしても、少子化に歯止めがかかったり、高齢者の激増スピードが緩んだりするわけでは断じてない。
先にも述べたように、日本の少子化は簡単には止まらない。このままでは、日本という国家が成り立たなくなる。楽観論を声高に語る人々が、日本という国がいかに危ない状況に置かれているかを知らぬわけはなかろう。見て見ぬふりをするつもりなのだろうか?
われわれは決して楽観論に逃げ込むことがあってはならない。“不都合な真実”であっても目を背けず、それに立ち向かう選択をしなければならないのである。

《日本の人口はやがて2000人に》
人口減少をめぐっては、近年、衝撃的な2つの数値が相次いで公表された。
その1つは2015年発表の国勢調査で、人口減少が実際に確認されたことだ。総人口が約1億2709万5000人となり、5年前の前回調査に比べて約96万3000人減ったのだ。1920年の初回調査から約100年にして、初めての減少となった。
もう1つは、翌2016年の年間出生数が初めて100万人の大台を割り込み、98万1000人にとどまることである。
もちろん、ここ数年で日本が消滅するわけではない。だが、50年、100年の単位で将来人口推計を見ていくと、ぞっとするほど日本人は少なくなる。国立社会保障・人口問題研究所(以下、社人研)が「日本の将来推計人口」(2017年)を5年ぶりに改訂したが、本書ではこの最新データを駆使して、日本の未来図を描いていくことにする。
2015年時点において1億2700万人を数えた日本の総人口が、40年後には9000万人を下回り、100年も経たぬうちに5000万人ほどに減る。この推計はメディアでも繰り返し取り上げられているのでご存じの方も多いだろうが、こんなに急激に人口が減るのは世界史において類例がない。われわれは、長い歴史にあって極めて特異な時代を生きているのである。
人口グラフ.jpg
〔2017年4月に公表された最新データを反映2017年4月に公表された最新データを反映〕

あまり知られていないが、この社人研の推計には続きがある。
一定の条件を置いた“机上の計算”では、200年後におよそ1380万人、300年後には約450万人にまで減るというのだ。世界的に見れば人口密度が非常に高かったはずの日本列島は、これからスカスカな状態になっていくということである。
300年後というのは現在を生きる誰もが確認しようのない遠い未来の数字ではある。が、450万人とは福岡県(約510万人)を少し小ぶりにした規模だ。日本の人口減少が地方消滅というような生易しいレベルの話ではないことはお分かりいただけよう。
この“机上の計算”は、さらに遠い時代まで予測している。西暦2900年の日本列島に住む人はわずか6000人、西暦3000年にはなんと2000人にまで減るというのである。ここまで極端に減る前に、日本は国家として成り立たなくなることだろう。それどころか、日本人自体が「絶滅危惧種」として登録される存在になってしまいかねないのだ。
要するに、国家が滅びるには、銃弾一発すら不要なのである。「結婚するもしないも、子供を持つも持たないも、個人の自由だ」と語る人々が増え、子供が生まれなくなった社会の行き着く果てに待ちうけるのは、国家の消滅である。
「静かなる有事」が暮らしを蝕む
言うまでもなく、人口が激減していく過程においては社会も大きな変化を余儀なくされる。それは、時に混乱を招くことであろう。
日本の喫緊の課題を改めて整理するなら4点に分けられる。1つは、言うまでもなく出生数の減少だ。2つ目は高齢者の激増。3つ目は勤労世代(20~64歳)の激減に伴う社会の支え手の不足。そして4つ目は、これらが互いに絡み合って起こる人口減少である。まず認識すべきは、社会のあらゆる場面に影響をもたらす、これら4つの真の姿だ。
ところで私は、政府や政府関係機関の公表した各種データを長年、膨大に集め、丹念に分析を試みてきた。本文で詳しく述べるが、そこから見える日本の未来図は衝撃的だ。
最近メディアを賑わせている「2025年問題」という言葉がある。人口ボリュームの大きい団塊世代が75歳以上となる2025年頃には、大きな病気を患う人が増え、社会保障給付費が膨張するだけでなく、医療機関や介護施設が足りなくなるのではないかと指摘されている。
だが、問題はそれにとどまらない。2021年頃には介護離職が増大、企業の人材不足も懸念され、2025年を前にしてダブルケア(育児と介護を同時に行う)が大問題となる。
2040年頃に向けて死亡数が激増し、火葬場不足に陥ると予測され、高齢者数がピークを迎える2042年頃には、無年金・低年金の貧しく身寄りのない高齢者が街に溢れかえり、生活保護受給者が激増して国家財政がパンクするのではと心配される。
2035年までに、首都圏でも高齢者が激増!
少子化は警察官や自衛隊員、消防士といった「若い力」を必要とする仕事の人員確保にも容赦なく襲いかかる。若い力が乏しくなり、国防や治安、防災機能が低下することは、即座に社会の破綻に直結する。
2050年頃には国土の約2割が無居住化すると予測される。さらに時代が進んで、スカスカになった日本列島の一角に、外国から大量の人々が移り住むことになれば、武力なしで実質的に領土が奪われるようなものだ。
人口減少にまつわる日々の変化というのは、極めてわずかである。「昨日と今日の変化を指摘しろ」と言われても答えに窮する。影響を感じにくいがゆえに人々を無関心にもする。だが、これこそがこの問題の真の難しさなのだ。ゆっくりとではあるが、真綿で首を絞められるように、確実に日本国民1人ひとりの暮らしが蝕まれてゆく──。
この事態を私は、「静かなる有事」と名付けた。

大人たちは何かを隠している
では、われわれはこの「静かなる有事」にどう立ち向かっていけばよいのだろうか?
出生数の減少も人口の減少も避けられないとすれば、それを前提として社会の作り替えをしていくしかないであろう。求められている現実的な選択肢とは、拡大路線でやってきた従来の成功体験と訣別し、戦略的に縮むことである。日本よりも人口規模が小さくとも、豊かな国はいくつもある。

戦略的に縮んでいくためには、多くの痛みを伴う改革を迫られるだろう。しかし、この道から逃げるわけにはいかない。国家の作り替えを成功に導くには、社会の変化を先取りし、まずもって人口減少社会の実態を正しく知らなければならない。

〈関連記事〉
もし「共謀罪」が成立したら、私たちはどうなるか【全国民必読】
誰も逃げ切れない
書店には少子高齢社会の問題点を論じた書物が数多く並ぶ。しかし、テーマを絞って人口減少社会の課題を論じるにとどまり、恐るべき日本の未来図を時系列に沿って、かつ体系的に解き明かす書物はこれまでなかった。それを明確にしておかなければ、講ずべき適切な対策とは何なのかを判断できず、日本の行く末を変えることは叶わないはずなのに、である。
拙書『未来の年表』が、その画期的な役目を果たそう。
〔以下略〕
【終】

みなさんどう思いますか?
河合教授は、人口減少は「必至」だという前提で述べています。
*「結婚するもしないも、子供を持つも持たないも、個人の自由だ」と語る人々が増え、・・・
これは、思想や制度の問題というよりも、日本人から「義」が消えたことを意味します。
(国の要人が「産めよ増やせよ」などと言えば、「マタハラだ!」などと訴えることでしょう)

さらに河合教授は、せめて人々の心が「豊か」でいられるための対策を考えています。
⁑出生数の減少も人口の減少も避けられないとすれば、・・・(略)・・・従来の成功体験と訣別し、戦略的に縮むことである。日本よりも人口規模が小さくとも、豊かな国はいくつもある。

国の目先の経済の維持のために無理やり労働力を確保するのではなく、全体的に戦略的に規模を小さくするという考えです。
日本列島を緩やかに四国にするようなものでしょうか。
今の日本のような急激な閉塞感だけは避けてもらいたいものです。

話は少し変わりますが、昭和の時代を懐かしむあるサイトにこんな投稿がありました。

昭和中盤時代
女子の入社時の念書…
今ならパワハラ セクハラ
大問題
念書.jpg
捉え方の違う時代なのであった。
♂は働き金を持って家族を養う。
♀は家庭を守り家事一般を司る。
何等この時代は問題ではなかった。

これに対して、ある男性(K)からこんな書き込みがありました。

現代は♂がチャンとチャンと金を稼ぎ家族を養えないが故に……♀も働かなければ食えないし家族を養えなくなった。
故に……♂の権威が失墜 ♀が台頭せざるを得なくなった。
男女同権 男女雇用均等
法等々起こるべくして起こった事象。
故に……能無き♂は♀に管理されなければならない[がまん顔]
と、同時に♀と仲良くして子供養育&家庭全般を割り振りしなければならん。
これは……当然至極な有り様なのである。
ここで間違ってならないのは♂が上♀が下と言うような従属な関係ではなく……生活して行く上で♂も♀も同等である。
的、観念論が永久平和構築の根幹にならざるを得なかっただけ……
♂も♀もお互いの得意的ところを援け合って生きなければならないのである。
以下同文

私はそれを見て、「男がだらしなくて稼ぎが少なくなった」みたいな言い方は同じ男として許せなかったのと、「だから女が外で働くようになった」というのは誤りだと思い、コメントしました。

〔私〕:♀が稼ぐようになったから、♂の稼ぐカネの価値が相対的に半減したとも言えますよ。もはや専業主婦は無理。子供も減り、日本人はいなくなります。

すると、K氏から返信がありました。
K: 断言は出来んな[がまん顔]
続いて、Y氏から返信がありました。
Y:2050年には人口が8,000万人に減り、江戸時代に戻ります[冷や汗2]
再びK氏から。
K:だから良いんだよ
原点回帰
(笑ってお仕舞いを意味する絵文字がありました)

みなさんどうでしょう?
人口が江戸時代並みになるからといって、社会が江戸時代になるわけではないのであって、原点に戻るどころか、マイナスに突き進むだけなのです。
一般大衆はそのぐらいの意識しか持ち合わせていないのです。
私は呆れて返信するのをやめました。

たしかに遠い未来のことですから、今の人は人口減少そのものに危機感は覚えないでしょう。
特に唯物論者は死んだら終わりですから、未来のことはすべて「他人事」です。
私は唯物論者ではありませんが、未来そのものに対して危機感はありません。
上述のように、「数より質」や「物より心」を追求するなど、未来は未来でそれなりに対処するでしょうから。
もし私がその頃に生まれたら、今回と同じく、「何か霊的意味があって生まれた」と受け止めるでしょう。
それよりも、上記のような今の一般大衆の精神状態や霊的状態に危機感を覚えます。
今の急激な人口減少は、あくまでこの精神状態や霊的状態の(地上における末端の)反映です。

それでは、500年後、1000年後に日本人の人口が増加に向かうことはあるのでしょうか?
断言します。
「ありません」
理由は単純、出生率が「2」を超える要素がまったくないからです。
多数派の意識を見れば、細かいことを言わなくてもわかると思います。
かくして、「1/8計画」は幻と化し、「1/8対策」は自然消滅します。


nice!(0)  コメント(0) 

論語と算盤 [中庸]

間が空いてしまいました。
次回にするつもりでしたが、先に出来てしまったのでお届けします。
今取り上げられている渋沢栄一の思想について少し。
NHKテキスト【100分de名著『論語と算盤』(守屋淳)】を読んで、私なりの見解を述べたいと思います。
長くなってしまいましたが、お付き合い願います。

始めのほうは、さすがに渋沢は論語を真剣に学んだだけあって、中庸の精神が染みわたっているなと思いました。
ただ、「論語と算盤」と2つを対極に置くというのには、私は初めから違和感がありました。
論語はそのものが中庸であり、極に置くのが変で、「何事においても中庸」というのがその教えだと思うからです。
渋沢は経済を目的としているので、どちらかというと「算盤上の論語」と言ったほうが良いのではないかと感じました。
そういう意味もあって、終わりの方に関して、肝心なことを述べさせていただきます。

【引用】
「算盤」の大きな問題の一つは、競争による優勝劣敗で二極化が進み、最悪の場合、弱者切り捨てに繋がってしまいかねないこと。
この問題に対して、渋沢は自らの行動で「論語」の価値観を体現し、「算盤」の欠点をカバーしていきます。・・・・・(略)・・・・・
良心と思いやりを意味する「忠恕」は『論語』の言葉です。・・・・・(略)・・・・・
たとえば、『論語と算盤』の中で渋沢は、権利や義務を声高に主張しすぎることで、資本家と労働者の間にあった「家庭的な関係」「長年にわたって結ばれてきた一種の情愛の雰囲気」が壊れてしまうことを危惧しました。そうした溝を生まないために、渋沢は互いが「王道」によって調和を目指すべきだと主張しています。「王道」とは、武力や権力で統治する「覇道」と対をなす概念であり、徳や思いやりで統治することをいいます。ここでは「思いやりの道」と訳してあります。

 〔*渋沢の言〕言葉を換えれば、資本家は「思いやりの道」によって労働者と向き合い、労働者もまた「思いやりの道」によって資本家と向き合い、両者のかかわる事業の損得は、そもそも共通の前提に立っていることを悟るべきなのだ。そして、お互いに相手を思いやる気持ちを持ち続ける心掛けがあってこそ、初めて本当の調和が実現できるのである。実際に両者がこうなってしまえば、権利や義務といった考え方は、無意味に両者の感情にミゾをつくるばかりで、ほとんど何も効果を発揮しないといってよいだろう。

この文章を読んで、「労使協調」という言葉を思い浮かべた方も多いのではないでしょうか。日本が高度経済成長を成し遂げた背景の一つに、労使協調による経営の安定と生産性の向上があったと言われています。渋沢の言う「王道」(思いやりの道)による調和が実現し、経済の発展をもたらした一つの例と言えます。

《今こそ求められる「対極を調和させる」力》
近年、日本でもダイバーシティー(多様性)という言葉がよく聞かれるようになりました。少子高齢化と人口減少が進むこれからの日本で、例えば企業が持続的に成長していくには、性別や年齢、国籍などにとらわれず、多種多様な人材を積極的に登用することが欠かせません。
【終】

みなさんどうでしょう?
概して、経済発展を前提とする企業側の論理になっているように思えますが、どうでしょう。
ここで言う「高度経済成長」とはいつからいつまでのことを指すのか不明ですが、少なくとも今は違います。(もはや先進国ではありません)
では、なぜそうではなくなったのでしょうか?
渋沢の言う「王道」(思いやりの道)がなくなったからでしょうか。
もしそうなら、なぜ王道がなくなったのでしょうか?
それならば、今回の企画で、もう一度渋沢の精神を取り入れて「高度経済成長」あるいはそれに匹敵する経済の発展を成し遂げようというのでしょうか?
果たして可能でしょうか?

私が思うには、高度経済成長期は物質的に拡大していったので、みなが解放感という「感覚」に酔っていたといえます。
ストライキで賃金引上げ、消費が拡大、売り上げ上昇、の繰り返しで、一見好循環、労使とも利益が増して潤っていました。
そのため、労使は闘争しながらも同じ「拡大する方向」に向いていた、というより、いられたのです。
ならば、すべての人の行動がまさに「公益」になっているように取れますが、みなさんどうでしょうか?
(昭和30年代~昭和40年代の日本は、専業主婦が多く、けっして誰もが外で働いているわけではなかったということ、そのため賃金の相対的価値が高かったということ、それでいて、経済活性化において労働力が不足していたわけではないということを頭に入れてください)

この時代は、しわの寄せの対象が地球上の人間の「外」であり人間ではありませんでした。
「労使協調」はお互いに敵ではないという安心感が可能にしたと思います。
ところが、やがて閉じた空間が飽和状態になって、公害や温暖化などのしっぺ返しが始まり、拡大が止まりました。
「公益」というものが、人類の範囲にとどまるのなら、かつて言われたように、人類は地球における「がん細胞」にすぎないということになってしまいます。
「ろうそくの炎は、ろうそくを食い尽くし、やがて炎も消える」(レオナルド・ダヴィンチ)

今後、王道による「公益」は可能でしょうか?
またそれによって再び経済繁栄して、皆が幸せになることがあるでしょうか?
私は過去の経験から、高度経済成長そのものが「絶対的に無条件に素晴らしいことだ」というのが幻だということを省察する必要があると思うのです。
そもそも、人類が物質的金銭的に豊かになることが、そのまま幸せになるとは限らないはずです。(物質の充足は幸福の条件ではあるが、不幸のもとにもなる)
しかしながら、このテキストでは、かつての高度経済成長を素晴らしい成功例として、それを前提で渋沢の言う「公益」に結びつけて述べているようです。
渋沢の哲学「道徳経済合一説」が果たして神の心を反映しているのでしょうか?
思うに、「公益」は人間の幸福の方法論ではありますが、成功したとしても、それは「人類の義」までであり、「神の義」までは届かないかもしれません。

なにか渋沢の思想はこの地上における人間の営みを、一方的に「肯定的・積極的」にのみ捉えているように思えます。
冷静に振り返ると、人間は楽園を追放されて「社会」を作ったのです。
所詮「社会」は知性を得た人間の「迷い」の象徴です。
なので、もう一方で、「否定的・消極的」に捉える必要もあるはずです。
大まかに言って、
個人<家族の義<組織の義<国家の義<人類の義<神の義
であり、何においても「神の義」になっていることが、霊的に正しいのです。
放蕩息子が帰宅することで、はじめて本当の幸せに辿り着きます。

たとえば、以前にも言ったように、もともと「貨幣経済」の成り立ちは素朴なことからでした。
〔ある集落において、Aという家が食料が確保できなくて困っているときに、食物に余裕があるBという家が分け与えたとします。そうしたら、今度Bがいつか困ったときに、優先的にBに施すことにします。その証しとして、大きな「石のロール」をBの家の傍らに置いておきます。〕
これが貨幣の始まりです。(諸説あり)

使い古しの私のネタですが、ある日、散髪をして次の日に仕事に行くと、
〔若者〕:先生、髪切ったの?
〔私〕:いや、切ってないよ。
〔若者〕:えっ?
〔私〕:床屋が切ったんだよ。
〔若者〕:なんだ、一緒じゃん
〔私〕:床屋に切ってもらったんだよ。私はカネを払っただけ。自分でできないことを床屋にしてもらって、その感謝の証しとしてカネを渡したんだ。そして、床屋は自分でできないこと、たとえばパンを作ることをパン屋にしてもらって、その報酬としてカネを渡すんだよ。

貨幣経済の基本はこれです。
『♬お金はあとだ、仕事が先だ』〔♪ハサミ研ぎ〕
順番を間違えてはいけません。
順番を間違えると、貨幣の流れに翻弄されて、仕方なく過酷な労働をする羽目になります。
労働者は、
「カネをもらっているんだから顧客に喜んでもらえるように働かなければ・・・」
と言われたり、自分で言い聞かせたりします。
顧客は、
「カネを払っているんだからやれよ」
と、労働者に当たったりします。
つまり、みな「カネの奴隷」になってしまいます。
完全に本末転倒です。(構造が出来上がってしまって、自給自足も出来ず、みな仕方なく外で働いているのですから、それを弁えないと首を絞め合うことになります)

たしかにカネが流れれば自分にできないことをいろいろしてもらえて、有り難いことも起きます。
自分で作れない楽器を購入して演奏するなど、文化的な行動も可能になります。
しかしそれが過ぎるとかえって不幸を招きます。
貨幣経済に限らず、社会とは人間の生活に「柔軟性」を持たせるためにあり、言い換えればそれは「適応者生存・不適応者死滅」の対極でもあります。
しかしながら、倫理なき医療の進歩は「延命主義」を招き、省察なき経済の活性は「拝金主義」につながります。
以前にも言いましたが、人間社会における活動があまりにも活性化すると、すなわち倫理が追い付かず文明が進歩しすぎると、それだけ苦しみも増し、迷いも深まります。

「論語」の本質は「極端なことを避ける」です。
孔子その人も(言ったことを必ずしも実行しないほど)極端なことをしない人だったそうです。
渋沢が『論語』に何を見出したか正確にはわかりませんが、私から見ると、「様々な人」の中庸のように思えます。
「こういう人が良くてああいう人がダメ」というのではなく、様々な人の特性を認め、世の中に多様性を導入しようということです。
それに関しては私も賛同します。
ただ、その多様性を「経済」に組み込むというのは、違うと思うのです。
「経済」に直接関与しない人がいてもよいと思います。
(原初の人間は働いていませんでしたし、原始キリスト教では働いて良いのは年に4日です)
(今でも東南アジアの国では、家族の中の全員が働きに出なくても全員生活できます。かつての日本のように)
渋沢の言う「合本主義」が仮に成立したとしても、それは、日本の首相が唱えた「一億総活躍」と何ら変わらないと私には思われるのです。
労働力は充分足りています。
余っているくらいですから。(コンビニやスーパーの商品も余っていませんか?)
人口が減ればそれだけ顧客が減り労働者が要らなくなります。
子供や若者から減っていくので、学校の教員はますます就職難ですし、給与も減ってきていきます。
それなのに、老若男女問わず、これ以上外で働いたらどうなるのでしょうか?
ますます賃金の価値がなくなり、ますます人口が減り・・・
それ以上言う必要はないでしょう。

では、なぜ今「渋沢栄一」なのでしょう?(過去の功績はともかく)
だいいち、それによって『論語』を学ぶ人がどれほどいるでしょうか?(小中学校で導入しない限り浸透しないでしょう)
9割方は相変わらず、目先の損得で行動を選択し、労働者は奴隷になって(上手く騙されて)身の安全を確保し、資本家もそういう人を採用して安心を得ることでしょう。
それに、報道を司る人たちは何を目的とするのでしょうか?
「すべては公益のために」
「強欲な経済を否定し、みなが富む社会をつくる」
そう謳ってはいますが、今の日本の強欲資本主義を排するように見えて、結局は企業側の論理の「ワークシェアリング」に丸め込まれるのではないでしょうか?
なにか胡散臭いものを感じるのは私だけでしょうか?

ここで、先日届いた幸福の科学の冊子の一部を見てください。
〈正論が受け入れられない日本〉
【不思議なことに、この国は、正しいことを言っているところは評価されず、嘘を言うところがたくさん票を取れるようになっています。「嘘を言っている」ということはみな分かっているのに、「うまく騙されたい」ということの陶酔感に酔いしれている人が大勢いるのです。】〔2021年3月No.409より〕
〈世の中の間違いを正そう〉
【このあたりで、もう一度、“ぶち破る気分”を持たないといけないでしょう。
マスコミのほうも、嘘をつき、既成の事実を守って権力者を攻撃するふりをしながら、実は癒着しています。そうした”御用マスコミ“ばかりになっているのです。
やはり、これを“ぶち破って”、「本当の真理はこうだ!これに反するものよ、いつまでも生き残れると思うなよ」と言うぐらい若者の気分になって、もう一回、グワッと世の中の「常識」を引っ繰り返そうではありませんか。】
〈世の中に尽くす人生を選べ〉
【今は「神仏のための革命・戦い」の時なのです。みなさん、立ち上がってください!何をしているのですか。・・・(略)・・・
「光を選び取る」ということは、「世の中のために尽くす人生を選べ」ということです。それが、あなた自身のためにもなるのです。】〔2021年4月No.410より〕

既述のように、私は幸福の科学に全面的に賛同するわけではありませんが、スピリチュアリズムから見ると、世間一般に報道されていることの意図というのは、あまりにも「地上的」なのです。
社会の内部から社会を俯瞰するのではなく、社会そのものを超越した視点から社会を俯瞰する必要があると思います。

繰り返しますが、人間の課題は、「地上における人間の営みそのもの」を肯定も否定もせず超越し、推進力を内側から制御すること、(キリスト教的に言えば)霊長として地球を支配することです。
それが「神の義」であり、『論語』における中庸だと思います。



nice!(0)  コメント(0)