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日月神示 [中庸]

形骸化した「教え」を刷新する必要性ということを私は常々言っていますが、それに値するものの一つに『日月神示』(ひつくしんじ)があります。
ちょうど10年前に購入して読んだ『「天の叡智」日月神示』〔中矢伸一著〕をもう一度パラパラと捲ってみました。
どこを開いても、もっともなことばかりで、道を得て霊的に生きる上で肝心なことが随所に記されていて、ここで私がどうこう言うよりも、ともあれまずは万人に読んでもらいたいとは思います。
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一つ一つ取り上げったらキリがないので、本文と「扉」の間にある箇条書きの一つを抜粋します。

奇蹟を求めるもの、
金を求めるもの、
人集めを求めるもの、
救いは自分のところの教え以外ないと言うもの、
天国を求めて地獄を生む人々、
みなみな下級霊に踊らされる者たち

もうこれだけで充分お分かりかと思います。
前回の顕正会の盲信者Kにしても、再三登場してもらう教会の盲信者Uにしても、これに当たるのは明らかです。
そういえば、以前Uと電話で話している時、
「オレは(鬱で考える力がないからか)信じるしかないんだもん」
と言ったので、私が、
「Uさん、それだと低級霊に乗っ取られちゃうよ」
と言うと、Uはすかさず、
「だって、今しゃべってるのはオレじゃないもん」
「低級霊がしゃべってるんだもん」
と、真面目に言ったのを思い出します。
別の機会にも、
「鬱になったことがある人じゃないとわからないと思うけど、自分が自分じゃないみたいで、なんて言ったらいいかわからないような変な感覚だよ」
と言っていました。
私に言わせれば、自分で考えないから低級霊に乗っ取られて、鬱になるのでしょう。
KもUも完全に「信じる=考えない」「信仰=賭け事」になってしまっています。

しかしながら、この『日月神示』も、道を行くための具体的な実践方法やそのための切っ掛けを充分示されているかというと正直微妙です。

以前取り上げたコーランも、盲信や偶像崇拝を排し、刷新する役割だったはずなのですが、「アブラハムの行動を見習う」にとどまり、実践法が具体的に示されていないため、一般の人は「理解不能」だったのかもしれません。
【再びコーランから引用】
*(アッラーは)汝らに、天使や予言者を神様あつかいしろなどと御命じになりはせぬ。せっかく汝らが立派な信者になったというのに、どうして今さら不信仰を命じたりなさるものか。
⁂こう言うがよい、アッラーの御言葉に嘘いつわりはない。されば、汝らイブラーヒ-ム(アブラハム)の信仰に従えよ。彼こそは純正なる信仰の人だった。偶像崇拝のやからではなかった。【終】

また、いつか取り上げた《春風学寮》における「イエスの行動を見習う」も同じで、聖書の中のイエスの言動や行動を「真似ること」はできるとしても、「理解」できる人がどれだけいるかというと甚だ疑問です。
【再び春風学寮から引用】
*聖書に書いてあることのすべてを事実として鵜呑みにしてはいけないし、かと言ってそのすべてを作り話として切り捨てることも許されない。厳しい疑いの目をもって作り話を見分けつつ、否定しきれない部分を受け入れながら読む必要があるのである。【終】

そもそも、イエスの言う「聞く耳を持つ」ということ自体が、「鵜呑みにしない」ことなのですから、結局自分自身しか頼れる者はいないのです。
聖人の教えとは、いわゆる「考える切っ掛け」だけを与える産婆術になるわけです。
もちろん『日月神示』にもそのことは記されているのですが、ならば「どうすればいいのか」となると、それも自分で考えるしかないのです。
いずれにせよ、切っ掛けを得て自らが実践するほどの哲学者でなければ土台無理なわけです。

〈あとがき〉にもあるように、日月神示を絶対視し、そこに示された内容を盲信してしまう人もいるのですが、そのものを広める『日月神示教』ではなくて、その奥に流れる「霊脈」に透徹する「神的意志」に目を向ける方が重要であって、それをなおざりにしては意味がないのです。

〔イエスもマホメットも、あくまで神の言うことを伝えることで形骸化したものを刷新するのが目的であって、『キリスト教』や『イスラム教』を広めるつもりはなかったのかもしれません。孔子も論語は広めても『儒教』を広めるつもりはなかったのかもしれません〕

それでも、著者の中矢氏は、日月神示を知らなくとも、同様なことに気づき始めている日本人や外国人は少なくなく、増加しているとも言っています。(ここに来てくださるみなさんもそうだと思います)

再三言うように、道を得るかどうかは、「教え(の内容)」によるのではなく「その人(の活動)」によるのです。
どんな場合でも、経典は「考える切っ掛け」として読むことが前提です。
とはいえ、その成果に関しては先程「微妙」だと私自身言いました。

★哲学書ではないため、〔霊的自覚を促すこと〕や〔即非や絶対矛盾自己同一という実践(性善説と性悪説の本当の意味)〕あるいは〔語り得ることを語り、語りえぬことを語らない実践の徹底〕などが示されていないからです。

強いて言えば、ただ一か所、省察の実践に相当する箇所があることはあります。
本の表紙にある、
〈ミロクの道は悪を抱き参らせてこそ進む〉
「なぜこの世から悪がけっしてなくならないのか?世界を動かす無限のパワーは、悪を活用することでしか発動しない!悪による神の存在証明」
です。
本文から詳細を抜粋します。
*【原文】善のみにては力として進展せず、無と同じこととなり、悪のみにてもまた同様である。故に神は悪を除かんと為し給わず、悪を悪として正しく生かさんと為し給うのである。何故ならば、悪もまた神の御力の現れの一面なるが故である。悪を除いて善ばかりの世となさんとするは、地上的物質的の方向、法則下に、総てをはめんとなす限られたる科学的平面的行為であって、この行為こそ、悪そのものである。この一点に地上人の共通する誤りたる想念が存在する。悪を消化し、悪を抱き、これを善の悪として、善の善悪となすことによって、三千世界は弥栄となり、不変にして変化極まりなき大歓喜となるのである。この境地こそ、生なく、死なく、光明、弥栄の生命となる。(『地震の巻』第九帖)
⁑【原文】霊人に於いては、善悪の両面に住することは、原則として許されない。一時的には仮面をかぶり得るが、それは長く続かず、自分自身耐え得ぬこととなる。地上人といえども、本質的には善悪両面に呼吸することは許されていない。しかし、悪を抱き参らせて、悪を御用の悪として育て給わんがために課せられたる地上人の光栄ある大使命なることを自覚しなければならない。悪と偽に、同時に入ることは、一応の必要悪、必要偽として許される。何故ならば、それがある為に弥栄し、進展するからである。悪を殺すことは、善をも殺し、神を殺し、歓喜を殺し、総てを殺す結果となるからである。(『地震の巻』第四帖)【終】

みなさんどうでしょう?
ここに来てくれている方たちは、充分わかると思います。
いわゆる「二元性の体験と克服」であり、それが地上における霊的課題だということです。
私が再三言う、即非と絶無、神仏の光(善)と地上の光と闇(小善と悪)、孟子と荀子の本当の性善説と性悪説、第一の絶望と第二の絶望、機の深信と法の深信、肯定か否定ではなく超越、預流果、等々、道を得るための切っ掛けがそれとなくそこに示されています。
とはいえ、その切っ掛けを与えてくれているかどうかは、その人によるでしょう。
でもどうでしょう、一般人が上記の原文を理解できると思われますか?
理性を発動して、道を得ると思いますか?
おそらく、あまり良い答えは返ってこないでしょう。

中矢氏の最初の『日月神示』(1991年)が(予想外にも)ベストセラーになり、この[天の叡智]のほか[地の叡智]と[人の叡智]の三部作が世に出たとのことです。〔読み手のほとんどは興味本位なのか?〕
特に[人の叡智]は「私たちは何を為すべきか。どうやって道を開くべきか」という実践論についてということで、それを読んでみないと何とも言えないのですが、昨今のTVやネットを見る限り、広く世間には浸透していないようです。
もはや、地上における「善悪」の悪を前提とする善(小善・偽善)を、悪を排して追求することに終始しているのは明白です。(前提の悪が消えないにもかかわらず、悪を認めない「善魔」が支配しています)

近頃、町を歩いていて気になることがひとつありました。
どこの工事現場の壁にも「SDGs」のマークが表示されているのです。
学校でも取り上げられています。
sdgs.png
でもどうでしょう?
どう考えても、「両立しないもの」があるように思いますが、いかがでしょうか?
(もうお分かりと思います)
上述の「前提となる悪を認めない善の追求」と同じ思考回路の多数派の地上人が、同じ直線上の一方向だけの理想を掲げています。
ここでさらに「互いに【逆ベクトル】の組み合わせ」があるとしたらどうなるのでしょうか?
各国の首脳は、未来は良い方向に向かっているという暗黙の前提で動いているようですが、多数派の地上人が求めているのは所詮「乾し草」ではないでしょうか?
私には神の心が反映されているとは思えません。
果たして私のような者どもの活動が反映される時が来るでしょうか。
それとも我々少数派は見切りをつけて次へ進むべきでしょうか。


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