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バシャールとインぺレーター [霊的存在]

私の物質生活は相変わらず逆風が吹き荒れ、良い報告はできません。
それに母親のことも相俟って、悲観的な見通しだけが私の前に立ちはだかります。
ともあれ、これも人生の糧なのだと自分に言い聞かせて、やっと生活を保っている次第です。
しかし、ここひと月ほどバシャールのメッセージを読んでいて、軌道修正できるのではないかと思うようになりました。
バシャールについてはみなさんもご存じだと思われるので、一部だけ引用させていただきます。

【引用1】
未来を心配する貴方は、”今ここ”のパワーを使って、自分の波動を下げてしまっています。
今ここでイライラして不愉快な想いをしている人は、”今ここ”のパワーを使って、自分の波動を下げてしまっています。
過去を後悔する貴方は、”今ここ”のパワーを使って、自分の波動を下げてしまっています。
”全て”は、”今ここ”のみにパワーが集結しているのであって、一瞬前でも一瞬後でもありません。”今ここ”の貴方がポジティブで、次の”今ここ”の瞬間もポジティブで、という具合に、”今ここ”のパワーを使ってポジティブ階段をどんどん上昇してゆくというわけなのです。
【引用2】
貴方のハイヤーマインドは、”心配したり、苦しんだり、物事に縛られたりする事なかれ”と、話していると、バシャールは伝えています。物質的脳にフォーカスしすぎると、こういった”ストレス”や”摩擦”が起きる原因となるのだと、バシャールは話しています。
ハイヤーマインドの仕事は、貴方を望む世界へと連れてゆく事です。そして貴方の仕事は、楽しく生きる事に尽きるのだと、バシャールは締めくくっています。
【終】

このところの私は、
「最低限の物質生活が確保できれば、あとはどうにでもなる」(本来の活動ができる)
という思いが頭を支配してしまっています。
たしかに結果的にはそうなのでしょうけれど、どうもその「プロセス」がいけないようです。
「先送りする」という負の思考が混ざっているからです。
よくバシャールが言う「ワクワクすること」とは、「今ここ」であって、後年の楽しみではないわけです。
一瞬一瞬が「空」であり、その自分の思いが目の前の現実を作っているのです。
でも、ワクワクすることって言われても何があるのか?
年齢のせいか、何か悪いことがあってもショックで落ち込むことがなくなった代わりに、良いことがあっても以前のようにワクワクするほどのことがなくなりました。
みなさんはどうでしょう?
若い人以外は同じではないでしょうか?

たしかに私は、いつかも紹介したように歌やピアノまたは絵で楽しむこともできますし、他人と共有して幸福に浸ることも可能です。
でもそれらはどこか中途半端で、性根を据えて人生をかけてやっているとは言えません。
あくまでも気分が乗った時だけであって、ワクワクするといっても持続的なものではありません。
そして物質的な負の状況がその穴を広げてしまっているのがまさに今の私です。

ならば、本来の活動すなわち「スピリチュアリズムに則った霊的活動」はどうなのかというと、口幅ったい言い方をすれば「責務」であり、ワクワクすることとは違う感じがします。
ただ、「これでどうなる」とか余計なこと(損得勘定)を考えなくてできること、つまり大変だけれど苦痛ではないことといえます。(言葉の違いであってこれでいいのかもしれませんが)
これならば、どんな状況であっても持続することができそうです。
世間の反応はどうあれ続けることが使命なようです。
思い起こせば、以前、著作を作るべくこの作業に没頭しているとき、わが身の物質的なことは二の次、いやほとんど心配していませんでした。(心配しても同じことですし)
先述の最近の私とは逆で、「本来の活動ができれば、あとはどうにでもなる」という思考でした。
また実際それで何とかなったのだと思います。
それが今は崩れかかっているということです。(なるようにしかならないのに思い煩っているのです)

思い起こせば、29歳の頃に凄いことを経験しました。
ヴィットゲンシュタインの『論理哲学論』(中央公論社)を読んでいるとき、
「世界とは自分の世界である」
と喝破する箇所で、私の身体に電撃が走りました。
いわゆる、絶対矛盾的自己同一を体得したときです。
腑に落ちたというか、幼少からのモヤモヤが一気に晴れたという感じでした。
そのときは、暫くの間、あらゆる肉体的な欲求が小さいことのように思えて、どうでもよくなりました。
それが「意識の拡大」というものなのでしょう。
残念ながら、次第に新鮮さを失い、適当に世俗的な欲求を満たすようになりましたが。

話が逸れてしまいました。
とにかく、ここらでやり残したことをやって活動の完成に向かって集中しようと思います。
しかしみなさんはなぜ私がここまで本気でスピリチュアリズムの普及に携ろうとするのかいささか疑問に思われることでしょう。
思い込みではないのか、思い上がりではないのか、ただの現実逃避ではないのか、などといろいろと思われるかもしれません。
でも私にはある種の確信があるのです。
その一つが、インペレーターやシルバーバーチの存在です。
特にインペレーターの既成宗教や哲学に対する向き合い方は私と驚くほど一致するのです。
念のために言いますが、私はインペレーターに感化されたわけではありません。
後から同じだということが分かっただけです。
ご存知の方もいらっしゃると思いますが、ともかく引用文を掲げました。
長いので、【①】【②】【③】【④】の個所だけでも見てください。

【引用】(霊訓18節)
われらの使命はもとより魂の宗教を説くことにあるが、その一部として身体の宗教も説かねばならぬ。そなたに、そして全ての人間に宣言するが、身体の健康管理は魂の成長にとりて不可欠の要件である。

【①】魂が地上という物質の生活の場において自己を表現していくために肉体に宿るかぎりは、その肉体によりて魂が悪影響を受けぬよう、これを正しく管理していくことが必須である。ところが衣食の選択と日常の生活習慣に賢明なる配慮が為されることは実に稀である。今の地上に見られる人工的傾向、健康に悪影響を及ぼすものに関しての無知、ほぼ地上の全域に見られる暴飲暴食の傾向、こうしたものは全て真の霊的生活にとりては障害であり妨害となる。

そなたの質問であるが、これまで幾度も述べた如く、われらはそなたの精神の中に存在するものを取り出し、付属せる夾雑物を払い落とし、霊的意義を賦与してこれを土台とし、有害なるもの、真実にあらざるものは放棄する。古き言説につきては、イエスがユダヤの律法を扱える如くに扱う。イエスはその字句にこだわることを戒め、その律法の精神に新たなる崇高なる意味を賦与した。われらが現代のキリスト教の言説とドグマを扱うに際しても、イエスがモーセの律法とパリサイ派的学説、並びにラビ的学説を扱える如くに扱う。

【②】イエスは中身の精神を生かすためには字句にこだわらぬがよいと説いた。これはいつの時代にも同じであり、われらも聖書の言葉を引用して、儀文は殺し霊は生かす、と述べておこう。律法の字句にあまりに厳格にこだわることは肝心の意味を疎かにすることと同じ、と言うよりは、次第に疎かにさせて行くものである。儀文の一つ一つを几帳面に遵守する信仰態度は高慢不遜にして鼻もちならぬ独善家を生み、やがて神学の流れの中に完全に巻き込まれて、自分は他の者とは違うとの特殊意識を抱き、その意識で神に感謝するようになる。
こうして知らぬ間に進行する信仰上の悪弊に対して、われらは断固たる闘いを挑むものである。人間の勝手な産物である神学の中に束縛されるよりは、たとえ迷いは多くとも、きっと神を見出すとの信念のもとに、いかなる教義にもすがることなく暗中模索するほうが、真理を求むる魂にとりてどれほど良いか知れぬ。神学は神への道を規定する。その道へ入る狭き門は神学という名の鍵なくしては開かぬことになっている。が、それのみに留まらぬ。神学が神そのものを規定するのである。かくして魂はその自然の発露を閉ざされ、思想の高揚を抑えられ、一片の霊性もなき機械的信仰生活へと落ちぶれ果てる。

【③】確かに、そなたの仲間の中には、高位高階の者ばかりとも限らぬが、宗教の深き哲学に関しては出来合いの信仰教義でなければならぬ者がいる。彼らにとりて、その教義から逸脱して自由に思いを巡らすことは即ち疑うことであり、躊躇することであり、絶望することであり、死を意味する。目も眩む高所に登り、隠れたる秘密を覗き込み、曇りなき真理の太陽の輝きを目のあたりにすることなどは思いもよらぬ。永遠の真理の横たわる深き谷間を見下ろす高き峰に登ることは、彼らには出来ぬ。落ちることを恐れて覗き込むことが出来ぬ。その前に、その峰に登ることがすでに苦痛なのである。そこで彼らは、たとえ辛く不確かではあっても、すでに他の者が通れる、より安全なる常道を選ぶことになる。その道は両側に高き壁がそそり立ち、その外側を見ることは出来ぬ。油断なく一歩一歩、転ばぬよう、すべての起伏を避けつつ歩む。そうするようにと教会の教説が説いているのである。疑うことは破滅を意味する。思考することは結局は迷いに終る。信ずることが唯一の安全策である。故に信じて救われよ、信じぬ者は地獄へ落ちるがよい――そう説くのであるが、彼らにはそれが素直には受け入れられぬ。受け入れられる筈がないのである。彼らは知的理解の入口に横たわる真理の断片すら理解することが出来ぬのである。ならば真理を秘納せる奥の院までどうして入ることを得ようか。

【引用】(地上人生の意義と目的)
【④】霊的真理を知らない地球上の大半の人々は、地上での生活がすべてであると考えています。なかには、「今から死後のことなど心配するのは愚かしいことである。それは現実の人生からの安易な逃避にすぎない」と言う人もいます。死後のことなど考えずに、今を精いっぱい生きるべきだ、と言うのです。
しかし実際に霊界がある以上、そうした地上世界をすべてとする考え方(人生観・価値観)は間違いです。それは広い世界を見たことがない井の中の蛙(かわず)が「自分は偉い!」と独り自慢をしているのと同じであり、その人の人生は、おそらく的外れで無駄なものになってしまうことでしょう。

「地上人生の意義と目的は何か?」についての答えは、霊界まで含めた視点に立って得られるようになるものなのです。霊界の実在を知らない人間が、いかに地上人生の意義を探ろうとしても不可能です。地上世界という小さな枠の外へ出て、初めて地上人生の真の意義と目的が分かるようになるのです。

① 「健全な肉体に健全な魂が宿る」という方法論としての唯物論であり、よく誤解されますが、中国人の唯物論はこれに当たると思います。
② キリスト教というより「教会の教え」に洗脳された盲信者のことです。
結局自信が持てないのです。
③ ②と同じです。
④ 地上と霊界、生前と死後をトータルで生きるということです。
「今を精いっぱい生きるべきだ」というのは、取り方次第でしょう。
バシャールの言うように、「今ここ」という意味ではそうとも言えますが、死んだら終わりの唯物論から来る「目先の物質的損得」という意味では違うと言えます。

みなさんどうでしょう?
わかっていただけたと思います。
長くなるので、続きは次回にします。







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