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人と人間(1) [霊的存在]

「自粛をお願いするだけではもはや感染収束は望めない」
「国が国民の生活を保障してロックダウンすべきだ」
という声が聞かれるようになりました。
みなさんの中にも歯痒い思いをされている方も多いと思います。
実は私も前からそう思っているのですが、ある人によると、そうすると国の「強制」を許すことになり、徴兵も行われて戦争に発展するということらしいのです。
本当にそうでしょうか?
ロックダウンした国が戦争を起こしたでしょうか?
だいいち、今世界戦争を起こしたら人類がいなくなるのはどこの国の誰でも想像がつくことであって、それだけの分別はつくでしょう。
なにか日本人は第二次大戦や原爆がトラウマとなって、国の首脳が独断で強制することに敏感になりすぎて、びくびくしているように思えます。
「あつものに懲りてなますを吹く」
そう思うのは私だけでしょうか?

私からすれば、もはや日本は国家ではありません。
言ってみれば、商人と客が駆け引きに精を出すだけの「市場」です。
首脳はそれを取り仕切る町の寄り合いです。
よく駅前で演説している日本愛国党の方たちが強調して、
「国家であるとは、戦争できるということです」
と言うのですが、けっして戦争しようというのではありません。
戦争が原理的にできない状態というのは、もはや国家とは言えないということであり、簡単に言えば、箍がはずれていて話にならないということです。
「愛国心」というのは、以前にも触れたように、単に敵国と戦うことではなく、自分の国のおかしい所があればそれを正す姿勢のことです。
彼らは彼らなりの方法で、弱体化した日本そのものを立て直そうとしているのでしょう。
付け加えるとすれば、戦争さえ起らなければ(どんな手段でも、何が起きても)いいという発想からは、真の自由や平等、平和はもたらされないということです。

人類が進化して人間社会ができたのではありません。
人間はもともと社会的存在なのです。
バラバラの集団ではなく、有機的な集合体です。
今の日本社会は、「人」はたくさんいるけど「人間」がいないと、誰もが感じるでしょう。
前回のムヒカ氏の言うように、強欲を満たすのが自由だと履き違えているからなのです。
機会が与えられるからといって、同じことをするのが平等だと履き違えているのもそうです。
私流に言えば、一面的な言葉に翻弄される知性の暴走、一つの病気です。
月並みですが、身体の病気と闘うことがその人の霊的進化を促すのと同様に、社会の知性の病気を癒すのが、霊的に生きる人間の使命と心得ているわけです。

そこで今回は、若者数人との直近の(やや一方的な)対話を紹介します。
ただし、かなり脚色しています。
先月、私の職務の合間に、ひょんなことから話が発展してしまいました。

【対話】
K:みんなどうだ?カネさえあればいいのか?
 S:カネが基本ですよ。他のことはそれから考えればいいじゃないですか。
K:もちろん私だって、働かなくても生活できるなら、もっと文化的な活動が出来て、自分本来の仕事を全うできるし、それによって世の中に貢献できると思うよ。
でもそういう意味じゃないんだ。
カネさえあればというのは、カネさえ得られるなら、そのために何をしてもいいのか?ということだ。
 S:悪いことをしなければいいんじゃないですか?
K:でもそれが、魂を売ることだとしたらどうだろう?
「守りに入る」って言って、地上の世法では合法であっても、利己主義に基づいたことってたくさんあるわけで、それは盗人の片棒を担いで物質的に豊かな生活をするのと同じなんだよ。
死んだら終わりの唯物論者には関係ないかもしれないけど、真面目に(霊的に)生きる人間としては、どんな理由があろうとやってはいけないことなんだよ。
 S:でもそうしないと、満足に生活ができない場合だってあるじゃないですか。
K:ホントにそうか?
現に私だってこうして生きてるじゃないか。
 S:でも先生は、物質的には不満足なんでしょ?
K:まあ、それは思い方しだいだね。
それより、自分が世の中に対して何ができるのかを考えろということだ。
「なんで生まれてきたんだ?」
「生きるために生きるのではなく、何かをするために生きるんだ」
「無難な人生など、なんの意味もない」
昔は学校でそういうことを教えたもんだよ。
今の学校は、特に進学校なんか、何かあると、「そんなことしてると食いっぱぐれるぞ!」だからね。
 S:(若者同士小声で)ここもそうだよね?
 先生は才能があるからそう言うんですよ。
 言ってることはわかります。
 でも私たちは平凡でいいですよ。
K:まあ、この状況じゃそう思うのも致し方ないとは思う。
だから積極的に志を持つことは押し付けないよ。
ただ、仕事は社会奉仕だからね。
消極的だけど、将来それに値しないことは極力やらないことだね。
それにしてもねえ、「大義」を失ったね。

K:そこでさっきの政府の歯痒い方策のことなんだけど。
戦争が起きなければ、どんなことが起きてもいいのか?
戦争が起きないためなら、どんなことをしてもいいのかということだ。
 S:先生は戦争したいの?
K:とんでもない、そりゃ誰だって戦争なんかしたくないよ。
でもそのための手段が「国家の解体」だとしたらどうなんだ?
たしかに国が国家でなけりゃ、絶対に戦争は起きないからね。
でもそれで平和になるのか?
変な国が攻めてきたら終わりだよ。
警察も軍隊も法律も道徳も、なくて済むならないほうがいいよ。
でもないとかえって安心して暮らせないからあるんだ。
鉄に付ける黒錆と同じで。
 S:でも、日本はある大国の傘下に入っていれば・・・
K:それによって、魂を売ることにならないか?
 S:でも、戦争しないことが第一の条件じゃないですか?
K:いや、私は魂を売らないことが最優先だけどね。
それに逆の結末も考えられるよ。
まあいいや、政治のことはよくわからないから。
それはともかく、「戦争」の否定が「平和」なのか?
 S:そうじゃないんですか?
K:そうとは必ずしも言えないよ。
それが言えるのは国家が成り立っている時だけだよ。
だから、「平和」の否定が「戦争」ではないんだよ。
今がまさにそれだよ。
「和」というのは、有機的であって、役割分担をして支えあっていることだ。
今の状態は、ドンパチをやらないだけで殺伐とした状態だ。
自由と平等の履き違えから起こる過度の競争、それから派生する経済的格差、過労死、貧困、いじめ、家庭崩壊、生涯独身、少子高齢化、学校崩壊・・・
とても平和なんて言えたもんじゃない。
戦時中の戦死者より、今の自殺者のほうがずっと多いんだよ。
 S:それは自己責任じゃないんですか?
K:そう言って済ませるのか?
まさにそこだよ、おかしいのは。
今の世の中は、悪魔のほかに、「強く生きろ」という「善魔」が支配しているんだ。
 S:えっ?善魔って?
K:悪魔と同じ直線上の対極にある「人間の地上的な側面」だよ。
地べたの上を行ったり来たり、地上に執着しているってこと。
一人一人が自己保身だけで、理想も義もない。
まあ、こんな話をするのも何かの縁だ。
考える切っ掛けと受け止めてほしい。
【終】

みなさんどうでしょう?
いくら授業の合間の雑談でも、ちょっと際どいのではないかと思われるかもしれません。
もしや三島由紀夫の霊に取り付かれているのか?
それこそ、
「こんなことをしていると食いっぱぐれるぞ!」
などと、意味深長な懸念をされる方もいるでしょう。
もちろんそんなことは承知の上でして、何があっても責務が優先なのです。
でなければ、自分がここで言っていることに反しますから。

次回もまた、人ではなく人間という観点から考えてみたいと思います。

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