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反戦と平和 [中庸]

ある僧侶が言っていました。
「『戦争と平和』と言うけれど、《反戦(運動)》というのは戦争と同じであって、平和ではありません」
「平和というのは、心の平穏なのです」

反戦は地上の攻防あるいは解決であり、そこには「緊張」が持続しています。
均衡を保つだけで精一杯であって、「平穏」を実現するだけの思考の余裕がありません。
いわゆる「霊的な思考停止」になってしまいます。
反戦がまったく意味がないとは言いません。
核には核、銃には銃もそうですが、地上の善悪や損得に対する仮初めの「地上的思考停止」を作ることによって、仮初めの「安堵・余裕」を得るかもしれません。
でも「反戦がそのまま平和をもたらす」と思うのは間違いです。
やはり地上を超越する霊的視点を設けること、すなわち「中庸」が前提として必要なのです。

これは平和に限らず、自由や幸福も同じことです。
利便性や経済力などを、地上的感覚的なもの以上ではないことと覚ることが肝心なのです。

かつて大阪万博の時、反パク者の岡本太郎は、
「機械の進歩は人間の進歩ではない(退化だ)、機械の奴隷になるだけだ」
と言いました。
パソコンやスマホが普及した今、文化的活動や利他的活動をするほど仕事が楽になったでしょうか?(支配者たちが仕事を増やしていませんか?)
また、逆にそれらの機械に縛られてはいないでしょうか?(まさに今私は悪戦苦闘しています)

万博と同時期に、経済一辺倒となった日本を憂いて、三島由紀夫が演説や対話を重ねた末に割腹自殺しましたが、当時の中曽根長官は、
「(その一連の行動に対して)『三島、よくやった』っていうヤツいないだろ?」
と言って、戦後日本がやってきたことを正当化していました。(ほとんど多数派による同調圧力が理由でしょうけれど)
もし中曽根氏の言う通りならば、それだけ日本の病は重症だということです。
それで今どうでしょう?
経済の進歩によって、日本人はカネの奴隷になっていないでしょうか?

これらはもちろん本人次第ではありますが、為政者にも原因があります。
「地上的思考停止」が出来て国民はむしろ楽だということで、今地上の半数以上の国が「専制政治」ですが、ご存知のように為政者が霊的な人間でないとかえって悲劇になります。
では日本人の多数派に支持される「民主政治」はいかがなものでしょうか?
思考が反戦一色ではないでしょうか?

今世界中の為政者たちが試みている計らいはどうでしょう?【※】
地上的な計らいだけになっていないでしょうか?

人類の平和の実現には是が非でも《霊的指導者=君主》が必要です。


【※】SDGsやCOPなど国連が掲げているものは、みな地上の解決です。
たしかに、核廃棄物や分解しないプラスチックゴミなど、負の遺産の処理は必要ですが、解決だけでよいのでしょうか?
また、その根底には「人類存続」という一面的な動機があります。
良く見積もっても、人類の義で止まっています。(一つのエゴ)
喩えれば、解熱剤、鎮痛剤、興奮剤という西洋の薬を同時に飲んで、健康な身体を作ろうとするようなものです。
私も普段やっている対症療法は不可欠であり、ストレスを回避し、結果的に延命にはなり得ますが、健康になるかどうかは別です。
度が過ぎると、管で繋がれて苦しいままベッドに横たわる病人になります。
押したり引いたりと圧力をかけ合って均衡を保つことだけで平和な社会が実現するのでしょうか?
いえ、そこには緊張しか残りません。
必要なのは「中庸」なのです。
外側からの圧力ではなく、意識を上に持っていくことで内側からの推進力を減退させることです。
これは決して一面的な肉体の延命ではなく、霊的に健全な生命を実現することであり、人類の義にとどまらず神の義です。

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信仰=洗脳? [中庸]

幸福の国ブータン王国の子供たちに、日本における「いじめ」の事実を伝えると、
「そんなことをすれば、自分が幸せになれない」
と、驚いたように言うのです。
もしかすると、日本人の多数派は、
「それは生まれた時から仏教が心身に刻み込まれているからだ」
という為政者による「刷り込み」または信仰の[強要」を理由にするかもしれません。
とりわけ実在論者の中の唯物論者に言わせると、宗教においては、
「信仰=洗脳」
と決めて、あたかも、自分たち宗教に無縁の人間こそがまっさらで「健全」であるかのように思い込むわけです。

そこで私は、数か月前、ネットにおけるその手の実在論者の「信仰=洗脳?」という問題提示に対して、遠回しに応えたのです。
《現代人のほとんどは、生まれた時から『幸福=社会的成功』と刷り込まれています。もしそれに疑問を抱かないならば、すなわちベリアル教というカルト教に洗脳されているということです。
そういう人が宗教団体に入れば、間違いなく『信仰=洗脳』となります。
でも、もしそういった地上的な執著を哲学的省察によって超越(止揚)することが出来れば、それがそのまま真の信仰に繋がります。
そういう人が宗教団体に入っても、洗脳されることはありません。
というより、宗教そのものは不要になるでしょう。》

日本のみなさんに問いますが、「自分は健全な思考をしているから危険はない」と思っているでしょうか?
もしや、「いじめ」に対して、
「少なくともいじめる側は、征服感と優越感に満たされて幸福を『感じる』」
などと言うのでしょうか?
いくらブータン王国でも、悪やエゴがないわけではないでしょう。
ただそれをどこかの先進国のように地上の押し合い引き合いで解決することで幸福を得られると思っていないはずであって、中庸によって推進力を上に引き上げて幸福を得ているのです。

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唯物論者の闇(改) [中庸]

「自我(霊も神も)は脳の産物だ」とする唯物論者が後を絶たないので、堪りかねて前回、ここでもネットでも実在論の誤謬を徹底的に指摘しましたが、それでもなお食い下がる唯物論者がいるのです。
「脳の状態はその人の行動や性格に関係する」
というように。
まるで、脳が先に出来てその人が作られるという「因果関係」であるかのようです。
まったく絶対空間なる「顛倒妄想」から抜けられていません。
脳と行動は対応関係であり、脳で行動を説明はできます。
しかし、脳が自我(霊)を生むわけではありません。

自分が自分だという顕在意識は、記憶で成り立っています。
どこで生まれ育って、どういう経験をして、それによって他の人ではない自分は作られます。
境遇はたしかに、肉体の場所や時代に大いに関係します。
なので、かりにもし、自分が翌日突然他の誰かになったとしても、自分は以前からずっとその人だと思っていることでしょう。
ではなぜ今の自分はこの自分なのでしょうか?
それとも、自分の肉体や脳を構成する炭素原子や酸素原子に自分の名前でも付いているのでしょうか?

脳と人のあり方は、音楽に喩えれば、楽譜と楽曲の関係です。
楽譜があっても、それだけでは曲は流れません。
演奏者がいて、演奏して初めて曲が成立するのです。
たしかに楽譜でその曲を説明はできます。
しかし、楽譜が音楽を生むわけではけっしてありません。(逆も然り)
また、楽譜が演奏者を生むわけではありません。(お互いに選ぶことはあっても)
楽譜と楽曲はあくまで対応関係であって、因果関係ではありません。
そして、演奏者はそれらに関係なく、はじめから独立して存在するのです。
楽譜を脳に、楽曲を人の活動に、演奏者を自我(霊)に置き換えるとわかると思います。

以前から自然科学では、
「宇宙が開闢してから今に至るまで」
をともあれ説明できるけれど、
「宇宙がどうして在るのか」
は説明できないと言われています。
ヴィットゲンシュタイン流に言えば、
「宇宙がどのようであるか(在り方)が神秘的なのではない。宇宙が在ること自体が神秘的なのだ」
そこでさらに、「世界とは自分の世界である」を組み合わせると、
「自分がどのようであるか(在り方)が神秘的なのではない。自分がいること自体が神秘的なのだ」
となります。

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初夢〔3〕 [霊的存在]

近頃は歳のせいか、正月になると、初夢はどんなものかと気にするようになりました。
元旦の夜から2日の朝にかけて見る夢…
今年は見ました。
と言っても、短くて意味不明でした。
取るに足らないものなので、ここで紹介するのも気が引けるのですが、聞き流してください。

✤何の用か、ある細長いビルの上の階にある部屋に階段で駆け上がって入って、用を終えてまた階段で降ろうとしました。
そこからはハッキリしていて、どこにでもあるビルのジグザグの階段があり、さらに上に上がる人がいるのを左手に見届けて、自分は降るのだからと、なぜか勢いよく降り始めました。
その階段は、壁や手すりまでもすべて真っ白(少し象牙色)なプラスチック製の板で張り詰められていました。
私は階段のヘリの部分を足裏で撫でるように3弾4段飛ばしで素早く降りていき、仕舞いには折り返しの踊り場まで一気に飛び降りました。
途中、例の友人が上から降りてくるのを察知して、なぜか追い付かれまいとさらに急いで降りていきました。
下の方の回はもう階段ではなく、同じ材質の滑り台みたいになっていて、一階では遊園地にあるようなデコボコの不規則な突起があって、体が心地よく揺れながら最後の地点に到着しました。
すると直後に友人が追い付いて、背後からボソッと言いました。
「外から見えちゃうね」
1階の入り口のドアの脇にはガラス窓がいくつかあって、外が見えました。
そこで夢は終わりました。
もちろんこれが何を意味するかわかりません。
いつかのようにこれが正夢になるとも思えません。✭

それはともかく、本来の活動の方はどうしたんだと言われそうですけど、特に目新しいことがないのと、前回同様、ほとんどボヤキみたいになってしまうので、初夢と同じく紹介するのに気が引けるというのが正直なところです。
それに、私のような者は所詮は少数派であり、それを弁えているので、どこぞの宗教団体の人たちのような盲目的な推進力はありません。
それに関して少しだけ言わせてもらいます。

❂伝道に関しては、諦めることは肝心です。
例の幸福の科学の女性がよく、「諦めちゃダメ」と言いますが、私に言わせればむしろそれは「努力」をよりどころとして「気休め」にしているだけです。
9割を占める「無関心な人」はもちろん、筋金入りの唯物論者や盲信者には、原理的に「言っても無駄」なのであって、それを弁えるのも道だからです。(わかる人だけでよいのです)
諦めるとは「明らかにすること」なのです。
古今東西の聖人たちの言動の端々にもそれが顕れています。(聞く耳を持つ者は…)
それがわからないというのは伝道する人自身の信仰が盲目的だからです。✪

それでも、前回の実在論の続きはあります。
その他、付け足しもあります。
長くなるので、この後に切り分けて報告します。

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