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悪平等3⃣(多様性) [中庸]

くどいと思うでしょうが、もう少しお付き合いください。
日本政府はまた、
「多様性を認め、すべての差別をなくした社会の実現」
を打ち出していました。
多様性を認めておきながら、「差別をしない」とはどういうことなのでしょうか?

❶「待遇(給与)」を同じにするというのでしょうか?
❷それとも、「扱い(やること)」を同じにするという意味でしょうか?

前者なら、『ブドウ園の話』のように社会主義的な方策として健全です。
後者は多様性を認めることにはなりません。(だいいち同じことは無理です)
多様性とは、適材適所、役割分担という意味があるからです。
多様性は役割分担をして「和」をつくるためにあるのであり、それが(神の心を反映した)社会です。
賢者は和して同ぜず。
愚者は同じて和せず。
もし、政府の言う「すべての差別をなくす」が、扱い(やること)を同じにするという意味ならば、いっそのこと、男とか女とか日本とか外国とか60歳とかいう【言葉】を取っ払ってしまえばよいのではないでしょうか?

多様性を認めるのなら、はじめに「統率する側の人」がいて、はじめから「扱い」を変えて役割分担をしたうえで、もし、「不当な扱いだ」という訴えがあれば修正するというのが本来のあり方です。
「SDGs」のような聞こえの良い目標で固めるのではなく、地上の「善悪」の〈悪(闇)〉の方を認めたうえで目標を設定することで、社会が進歩するのです。(即非の実践でもあります)
そのへんにおいては、タリバンの言う、
「イスラム法が許す範囲内で権利を認める」
の方がよほど摂理に適っています。
悪平等に冒された人たちに言います。
「常識」が一つの偏見であるように、差別や偏見があるからこそ、社会が成り立っているということを肝に銘じてもらいたいのです。
再三言いますが、「利害損得」において「問題」が起こったときにのみ、「解決」するだけでよいのです。
どこにも利害が及ばないのに「蔑視だ」と問題にする人が世に蔓延っていますが、肉体と知性がある限りエゴは消えず、地上道徳的に人間の中身が良くなるわけがないのです。
「道徳や戒律では世の中は清浄にならない(ブッダの言葉)」

もう一度、悪平等に冒された人たち(特に、ユリゼン信仰者)に声を大にして言います。(ここでは伝わりませんが)
「性悪説を正しく理解しろ、性善説を履き違えるな」
「即刻言動をやめなさい!」
「あなたたちこそ(霊的な)害悪だ?」

ところで、『ワクチン差別』はどうでしょうか?(なにソレ?)
アメリカではもう実行しているようですが。
未接種の人は外の席に案内されるそうです。
もちろん、冷遇される側の人は面白くはないでしょうけど、優遇される接種完了者たちからすれば、
「摂取すればいいわけで、従うかどうかは勝手であるから、そんなのは『差別』ではない」と言うかもしれません。
でもこれはれっきとした差別です。
この場合の差別は、優遇される側の人たちにとってはもちろん「善」であり、冷遇される人たちにとっては「悪」ですが、統率者は「必要悪」として認めるでしょうから、社会全体にとっては〈善〉と見なされるでしょう。
この場合、平等(公平)はむしろ社会全体にとって〈悪〉とされます。(『日月神示』の言う悪平等ではありません)
このように、地上の善悪は逆転することがあります。
実はそのほかの場合も、差別が〈善〉だったり、少なくとも「必要悪」だということがたくさんあります。
それなのに、為政者が「すべての差別をなくす」と言うのは無責任であり、大衆を惑わし危険です。
「でもそれは『すべての問題になる差別』という意味ではないのか?」
と言うかもしれませんが、言葉というのは極めて「一面性」を帯びているのであり、問題にするべきかどうかなど、おもに冷遇される側が決めるわけで、瞬時に判断できるものではありません。
「差別はいけない」
「差別をなくす」
と言ってしまえば、必ずと言っていいほど「必要な差別」や「問題にしなくてよい差別」を問題にしてしまいます。

ワクチン差別のように、必要性が明らかで扱いの差がさほどでない場合は何も起こりませんが、男女差別や人種差別の場合は、その必要性が微妙なうえ扱いの差が激しいため、厄介なことが起こります。
男性が女性を表現するだけで「蔑視した」と問題にして吊るし上げたり、白人が黒人やアジア人を表現したりするだけで「侮辱した」と言って処罰したりと、目に余る愚行が繰り広げられます。
究極は「女性」とか「黒人」という【言葉】を使うことそのものを咎めたりします。
もう狂っているとしか言いようがありません。
言葉そのものが「偏見」や「差別」であり、社会に言葉が必要である限り、差別や偏見があって社会が成り立っているということを認めなくてはなりません。
再度言います。
「無くて済めば無いほうがよいもの」があるのが社会であり、「しないで済めばしないほうがよいこと」をするのが人間です。
「社会=人間=迷い」です。
ともかく、地上の善悪に関しては一方的に白か黒かに走らず、落し所を据えることです。
そのうえで、中庸、止揚です。

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悪平等2⃣(人種差別) [中庸]

よくネットに投稿される懐かしい広告ですけれど。
反応はというと、決まって、
「クレームがついて見られなくなった」
と言って、惜しがることです。
クレームに反応する方もどうかと思いますが。
そこで私もコメントしました。
karupisu1.png
I:このポスターが好きで骨董屋で買いました。これはコピーですが、本物なら17万くらいするとのこと。

M:いいデザインだったのに。人種差別とかに結びつけること自体がおかしい。

【私】:もしこれが白人だったら人種差別にならないんですかね?
初めから黒人は蔑視や迫害の対象と一部の人たちが決め付けているみたいですね。
黒人を言葉や絵で「表現」するだけで「蔑視・迫害」していると言うんですかね?
それこそ蔑視ですが、日本ではそれで利害損得が生まれるわけではありませんし。
ともあれ問題にしなくていいことは問題にしないに限ります。

O:当人が不快(*)と言うなら即刻やめるべきだけど、文句言ってきたのは関係ないプロクレイマー(⁂)ですよね?

(*)「当人が不快」…これは物質的に利害が及ぶ場合にあります。
かつての日本の「トルコ風呂」がそうで、「そんなものではない」と、トルコ人が訴えて変えたと記憶しています。
(⁂)「プロクレイマー」にひと言、即刻辞めていただきたい。
それでどれだけ収入を得ているか知りませんが、特定の立場の人の自己保身を煽り、思慮の浅い大衆を惑わせて、社会を混乱させるだけですから。(霊的不正です)

近頃は利害が絡んで問題になった「迫害」を、問題にしなくていい個人の「蔑視」にも当てて、「差別」という言葉に置き換えて、誰々が「差別発言をした」などとマスゴミが問題にして世間を賑わせています。
是非やめていただきたいと思います。
でないと、かつてあった「必要な差別」や「問題にしなくていい差別」また、芥川作品にもある(差異や区別と同義の)「差別」が認められなくなり、「言葉狩り」などの非公認警察が平等ウィルスをいつまでもばら撒くことになるからです。

差別(本来は区別、差異と同意)というのは、人が対象の場合は、悪い思いをする側だけでなく、必ずいい思いをする側が伴います。(どちら側にとっても都合がいい場合もあります。トイレはもちろん、女性専用車両等も)
アメリカにおける黒人差別でさえ、白人から黒人が冷遇(迫害)されるというだけではなく、仲間の白人が(広い意味で)優遇されることを意味します。(権限を握っているとか多数派だとかの理由で、白人が物質的にだけでなく、優越感に浸るとか、憂さを晴らすとか)
日本における在日韓国人なども同じことが言えます。【※】
逆に韓国における日本人もそうです。
かつての男社会(*)というより「男性組織」における女性もそうです。
*男社会と言った場合、男女どちら側にも都合がいいという見方もできます。
(既述のように、そもそも「社会」とは生得の資質からして男が作るものであり、能力の違いではなく資質〈陰と陽〉に則した役割分担の意味があるからです。今の女性の社会進出も、女性が自発的に言い出したのではなく、一部の男が決めたのです。だいいち社会に出て働くことがそんなに素晴らしいのでしょうか?)

【※】実は私は小学生の頃に、近所に住んでいた在日韓国人の女の子(1歳か2歳下)を侮蔑して罵ったことがあります。
「やいっ、朝鮮人!」
女の子は黙っていたので、
「日本語しゃべれるのかよ」
女の子は、揶揄われることに慣れているかのように、
「しゃべれるよっ」
とすました顔で言って、何事もなく終わりました。

みなさんどうでしょう?
これって「人種差別」でしょうか?

もちろん、その家族も以前から住んでいました。もっと幼少の頃からお互い知っていて、特に何事もありませんでした。
私は高学年になるにつれて、変な知識が身について、自我や自尊心が芽生えたことで、どうしようもない悪ガキになったということです。
その女の子が一緒の学校ではなく、韓国の学校に通っていたからかもしれません。
その時の私の心境はと言うと、ただ《優越感》に浸りたいというだけでした。

日本人が統治する日本の中で、多数派に属する私は、世間で少数派の在日韓国人が冷遇されているのを知り、面白がって軽い気持ちで言ってしまったのですが、なにせ子供ですし、何の権限もありませんし、利害損得は生まれず、誰も問題にしません。
それに、なにかその子の親も、そういう時は気にしないように躾ている感じがしました。

(そのことがあったからかどうかはわかりませんが、数年後には女の子やその家族は引っ越したようで、見なくなりました。その時は私もさすがに胸が痛みました)

ともあれ差別は、物質的または心情的に、必ず都合のいい側が存在するからあるのです。

良い側に焦点を当てた例としては、「商品を差別化する」という場合の「差別」です。
この積極的な「差別」によって、消費が促され、利益を受けるのです。(もちろん、光と闇があり、競争相手は相対的に不利益を被ります)
消極的な言い方ですが、「無差別殺人」もそうです。(恨みを買う覚えのない貴方は犯人に「差別」してほしくないですか?)
それから、柔道などの格闘技には「無差別級」があります。
ということは、それ以外の級に分けることはその否定ですから、言葉には表しませんが、「差別」です。
その差別は、純粋な意味ではむしろ公正であり、多数の競技者たちや視聴者など周りの人たちにとって有難いから行われるわけです。

★なにか「差別」に勝手に特別な意味を持たせて騒ぎ立てる視野の狭い人たちがいますが、どんなに言い張っても、これらはれっきとした「差別」という日本語の使い方なのです。
言葉に惑わされている偏狭な人は、まずそれを改めてください。

もちろん、ある人たち(特に多数派)が都合がいいからと言って、その差別を押し進めるのを放っておくというのは、社会全体から言えば健全であるわけがありません。
逆に、ある人たち(特に少数派)が都合が悪いからと言って、その差別を徹底して排除する運動を扇動するというのも、社会世全体から言えば病的です。
地上の善悪とは、社会の秩序を保つためのあくまで「仮の通念」です。
そのため、地上の〈善〉を一方的に押し進めるのは、「感覚」を追うだけの民主主義病であって、人々の霊的進化には良くありません。
大切なことは、盲目的に感覚を追うことなく、真の意味で「足ること」を知ったうえで、《落とし所》というものを見据えることです。

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悪平等1⃣(死刑制度) [中庸]

少し前にネットで、死刑制度について投稿した人(常連)がいました。
「国家権力なら何をしてもいいのか?」
と、はじめは(珍しく)真っ当な問い掛けでした。
もともと死刑制度の是非は、罪に対して「死」をもって償うことが正当かどうかを問うものであり、刑の「重さ」の問題です。
ところが、この投稿に対する返信が増え、
「死刑は殺人ではない」
などの強い批判が相次ぐことで、投稿者はつい「ボロ」を出してしまいました。

投稿者:「国家が人々に『してはいけない』と言っていることを、自分がするのは矛盾ではないのか?」〔*〕

もちろんこれは「死刑は殺人である」を前提にした論理のすり替えですけれど。
これも私からすれば、
「《はじめから偉い人》がいてはいけない」〔⁂〕
という左翼思想とか民主主義病の思考法で、悪平等の一つです。(★)

私は衝動的に、
「『禁錮』は『監禁』にならないのですか?」
「してはいけないと人に言っていることを自分がするのがおかしいと言うのなら、すべての受刑者を即刻開放するべきです」
と返信しようとしたのですが、この投稿者は上の例からもわかるように、いつもピントがずれたことを言う人なのでやめました。
でも、どうしたことか(私と同じ理由か?)、他の投稿者はだれも私が言おうとしたことを返信しませんでした。
また、はじめから偉い人がいなければ社会は成り立たないということを言う人もいませんでした。(あくまで終始一貫、死刑と殺人の違いを訴えるだけでした)

〔*〕私が大学生の頃、TVである芸能人司会者が、死刑制度反対を訴えるときに、
「死刑を執行する側も殺人を犯しているのだから」
と声を張り上げて言いました。
私はたまらなく違和感を覚えたので、それを大学の友人に言ったところ、真剣な面持ちで、「詭弁だ」
と静かに答えました。
〔⁂〕この件の省察からもわかると思いますが、はじめから偉い人がいなければ社会は成り立ちません。
「落差」がないと社会はダメ。
これは光も闇も両方認めていた古い日本人にとっては「当たり前」のことです。
この落差がなくなったおかげで日本の学校がどういうことになっているか、教員をやってみれば日本の病が肌で感じ取れます。
「言うことを聞いてほしければ、私たちに尊敬されるような教師になってください」
(また報道などで)「信頼関係が出来ている教師に限っては体罰をしてもいい」・・・・・・
一見もっともなようですが、『詭弁』です。
どこまでも権限は生徒側にあるということです。
肝心なことを付け加えると、今の日本人は「落差(折り目)」が刷り込まれていないのではなく、「平等(=善)」が刷り込まれているのです。

★今後、『日月神示』の高級霊が使う「悪平等」という言葉を幾度か使わせていただきますが、理解していただくためには補足が必要だと思われます。
悪平等の【悪】は、地上の「善(小善・偽善)悪」の〈悪〉ではなく、超越(止揚)する真の霊的な【善】に対する霊的な【悪】です。
水平ではなく垂直(鉛直)です。
けっして、「地上では『差別(区別)が善で、平等(公平)が悪の場合』があって、そのときの『平等』だ」という意味ではありません。
前々回に取り上げた例の中で、地上においては、「生存・生誕〈善〉死滅・死去〈悪〉」とすることで秩序を保っていると言いましたが、それは仮のもの、方便であり、一方的盲目的に善を追求すれば幸福と平和を得られるというものではありません。
同様に、もし仮に地上において、「平等〈善〉差別〈悪〉」とすることで秩序を保つとしても、〈悪〉とされる差別を認めずに一面的に地上の〈善〉とされる平等を追求することで、幸福や平和をもたらすことはありません。〔一体なのですから(即非、陰陽)〕
「ミロクの道は〈悪〉を抱き参らせてこそ進む」
つまり、高級霊が「悪平等」と言っているのは、「差別平等」という地上の直線の平等の延長を一方的かつ盲目的に追求することです。
一般に「霊的な【悪】」とは、地上にへばり付くことです。

☆前回も言いましたが、私はこのところ、世間があまりにも地上的な思考に満ちていることに嫌気がさしていて、もう地球とオサラバしたいくらいです。(異星人、故郷へ帰る?)
これらの話題は、私がいくらここで真摯に向かい合ったうえで訴えても、人気はありません。
関心がないとか、考えるのも嫌だとか、聞くのも鬱陶しいとか、いろいろあるでしょう。
それは重々承知です。
ともあれ1割の少数派の叫びを聞いてください。
内容はこれまでと変わりませんけど、次回、次々回は一気に行きます。

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