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悪平等3⃣(多様性) [中庸]

くどいと思うでしょうが、もう少しお付き合いください。
日本政府はまた、
「多様性を認め、すべての差別をなくした社会の実現」
を打ち出していました。
多様性を認めておきながら、「差別をしない」とはどういうことなのでしょうか?

❶「待遇(給与)」を同じにするというのでしょうか?
❷それとも、「扱い(やること)」を同じにするという意味でしょうか?

前者なら、『ブドウ園の話』のように社会主義的な方策として健全です。
後者は多様性を認めることにはなりません。(だいいち同じことは無理です)
多様性とは、適材適所、役割分担という意味があるからです。
多様性は役割分担をして「和」をつくるためにあるのであり、それが(神の心を反映した)社会です。
賢者は和して同ぜず。
愚者は同じて和せず。
もし、政府の言う「すべての差別をなくす」が、扱い(やること)を同じにするという意味ならば、いっそのこと、男とか女とか日本とか外国とか60歳とかいう【言葉】を取っ払ってしまえばよいのではないでしょうか?

多様性を認めるのなら、はじめに「統率する側の人」がいて、はじめから「扱い」を変えて役割分担をしたうえで、もし、「不当な扱いだ」という訴えがあれば修正するというのが本来のあり方です。
「SDGs」のような聞こえの良い目標で固めるのではなく、地上の「善悪」の〈悪(闇)〉の方を認めたうえで目標を設定することで、社会が進歩するのです。(即非の実践でもあります)
そのへんにおいては、タリバンの言う、
「イスラム法が許す範囲内で権利を認める」
の方がよほど摂理に適っています。
悪平等に冒された人たちに言います。
「常識」が一つの偏見であるように、差別や偏見があるからこそ、社会が成り立っているということを肝に銘じてもらいたいのです。
再三言いますが、「利害損得」において「問題」が起こったときにのみ、「解決」するだけでよいのです。
どこにも利害が及ばないのに「蔑視だ」と問題にする人が世に蔓延っていますが、肉体と知性がある限りエゴは消えず、地上道徳的に人間の中身が良くなるわけがないのです。
「道徳や戒律では世の中は清浄にならない(ブッダの言葉)」

もう一度、悪平等に冒された人たち(特に、ユリゼン信仰者)に声を大にして言います。(ここでは伝わりませんが)
「性悪説を正しく理解しろ、性善説を履き違えるな」
「即刻言動をやめなさい!」
「あなたたちこそ(霊的な)害悪だ?」

ところで、『ワクチン差別』はどうでしょうか?(なにソレ?)
アメリカではもう実行しているようですが。
未接種の人は外の席に案内されるそうです。
もちろん、冷遇される側の人は面白くはないでしょうけど、優遇される接種完了者たちからすれば、
「摂取すればいいわけで、従うかどうかは勝手であるから、そんなのは『差別』ではない」と言うかもしれません。
でもこれはれっきとした差別です。
この場合の差別は、優遇される側の人たちにとってはもちろん「善」であり、冷遇される人たちにとっては「悪」ですが、統率者は「必要悪」として認めるでしょうから、社会全体にとっては〈善〉と見なされるでしょう。
この場合、平等(公平)はむしろ社会全体にとって〈悪〉とされます。(『日月神示』の言う悪平等ではありません)
このように、地上の善悪は逆転することがあります。
実はそのほかの場合も、差別が〈善〉だったり、少なくとも「必要悪」だということがたくさんあります。
それなのに、為政者が「すべての差別をなくす」と言うのは無責任であり、大衆を惑わし危険です。
「でもそれは『すべての問題になる差別』という意味ではないのか?」
と言うかもしれませんが、言葉というのは極めて「一面性」を帯びているのであり、問題にするべきかどうかなど、おもに冷遇される側が決めるわけで、瞬時に判断できるものではありません。
「差別はいけない」
「差別をなくす」
と言ってしまえば、必ずと言っていいほど「必要な差別」や「問題にしなくてよい差別」を問題にしてしまいます。

ワクチン差別のように、必要性が明らかで扱いの差がさほどでない場合は何も起こりませんが、男女差別や人種差別の場合は、その必要性が微妙なうえ扱いの差が激しいため、厄介なことが起こります。
男性が女性を表現するだけで「蔑視した」と問題にして吊るし上げたり、白人が黒人やアジア人を表現したりするだけで「侮辱した」と言って処罰したりと、目に余る愚行が繰り広げられます。
究極は「女性」とか「黒人」という【言葉】を使うことそのものを咎めたりします。
もう狂っているとしか言いようがありません。
言葉そのものが「偏見」や「差別」であり、社会に言葉が必要である限り、差別や偏見があって社会が成り立っているということを認めなくてはなりません。
再度言います。
「無くて済めば無いほうがよいもの」があるのが社会であり、「しないで済めばしないほうがよいこと」をするのが人間です。
「社会=人間=迷い」です。
ともかく、地上の善悪に関しては一方的に白か黒かに走らず、落し所を据えることです。
そのうえで、中庸、止揚です。

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悪平等2⃣(人種差別) [中庸]

よくネットに投稿される懐かしい広告ですけれど。
反応はというと、決まって、
「クレームがついて見られなくなった」
と言って、惜しがることです。
クレームに反応する方もどうかと思いますが。
そこで私もコメントしました。
karupisu1.png
I:このポスターが好きで骨董屋で買いました。これはコピーですが、本物なら17万くらいするとのこと。

M:いいデザインだったのに。人種差別とかに結びつけること自体がおかしい。

【私】:もしこれが白人だったら人種差別にならないんですかね?
初めから黒人は蔑視や迫害の対象と一部の人たちが決め付けているみたいですね。
黒人を言葉や絵で「表現」するだけで「蔑視・迫害」していると言うんですかね?
それこそ蔑視ですが、日本ではそれで利害損得が生まれるわけではありませんし。
ともあれ問題にしなくていいことは問題にしないに限ります。

O:当人が不快(*)と言うなら即刻やめるべきだけど、文句言ってきたのは関係ないプロクレイマー(⁂)ですよね?

(*)「当人が不快」…これは物質的に利害が及ぶ場合にあります。
かつての日本の「トルコ風呂」がそうで、「そんなものではない」と、トルコ人が訴えて変えたと記憶しています。
(⁂)「プロクレイマー」にひと言、即刻辞めていただきたい。
それでどれだけ収入を得ているか知りませんが、特定の立場の人の自己保身を煽り、思慮の浅い大衆を惑わせて、社会を混乱させるだけですから。(霊的不正です)

近頃は利害が絡んで問題になった「迫害」を、問題にしなくていい個人の「蔑視」にも当てて、「差別」という言葉に置き換えて、誰々が「差別発言をした」などとマスゴミが問題にして世間を賑わせています。
是非やめていただきたいと思います。
でないと、かつてあった「必要な差別」や「問題にしなくていい差別」また、芥川作品にもある(差異や区別と同義の)「差別」が認められなくなり、「言葉狩り」などの非公認警察が平等ウィルスをいつまでもばら撒くことになるからです。

差別(本来は区別、差異と同意)というのは、人が対象の場合は、悪い思いをする側だけでなく、必ずいい思いをする側が伴います。(どちら側にとっても都合がいい場合もあります。トイレはもちろん、女性専用車両等も)
アメリカにおける黒人差別でさえ、白人から黒人が冷遇(迫害)されるというだけではなく、仲間の白人が(広い意味で)優遇されることを意味します。(権限を握っているとか多数派だとかの理由で、白人が物質的にだけでなく、優越感に浸るとか、憂さを晴らすとか)
日本における在日韓国人なども同じことが言えます。【※】
逆に韓国における日本人もそうです。
かつての男社会(*)というより「男性組織」における女性もそうです。
*男社会と言った場合、男女どちら側にも都合がいいという見方もできます。
(既述のように、そもそも「社会」とは生得の資質からして男が作るものであり、能力の違いではなく資質〈陰と陽〉に則した役割分担の意味があるからです。今の女性の社会進出も、女性が自発的に言い出したのではなく、一部の男が決めたのです。だいいち社会に出て働くことがそんなに素晴らしいのでしょうか?)

【※】実は私は小学生の頃に、近所に住んでいた在日韓国人の女の子(1歳か2歳下)を侮蔑して罵ったことがあります。
「やいっ、朝鮮人!」
女の子は黙っていたので、
「日本語しゃべれるのかよ」
女の子は、揶揄われることに慣れているかのように、
「しゃべれるよっ」
とすました顔で言って、何事もなく終わりました。

みなさんどうでしょう?
これって「人種差別」でしょうか?

もちろん、その家族も以前から住んでいました。もっと幼少の頃からお互い知っていて、特に何事もありませんでした。
私は高学年になるにつれて、変な知識が身について、自我や自尊心が芽生えたことで、どうしようもない悪ガキになったということです。
その女の子が一緒の学校ではなく、韓国の学校に通っていたからかもしれません。
その時の私の心境はと言うと、ただ《優越感》に浸りたいというだけでした。

日本人が統治する日本の中で、多数派に属する私は、世間で少数派の在日韓国人が冷遇されているのを知り、面白がって軽い気持ちで言ってしまったのですが、なにせ子供ですし、何の権限もありませんし、利害損得は生まれず、誰も問題にしません。
それに、なにかその子の親も、そういう時は気にしないように躾ている感じがしました。

(そのことがあったからかどうかはわかりませんが、数年後には女の子やその家族は引っ越したようで、見なくなりました。その時は私もさすがに胸が痛みました)

ともあれ差別は、物質的または心情的に、必ず都合のいい側が存在するからあるのです。

良い側に焦点を当てた例としては、「商品を差別化する」という場合の「差別」です。
この積極的な「差別」によって、消費が促され、利益を受けるのです。(もちろん、光と闇があり、競争相手は相対的に不利益を被ります)
消極的な言い方ですが、「無差別殺人」もそうです。(恨みを買う覚えのない貴方は犯人に「差別」してほしくないですか?)
それから、柔道などの格闘技には「無差別級」があります。
ということは、それ以外の級に分けることはその否定ですから、言葉には表しませんが、「差別」です。
その差別は、純粋な意味ではむしろ公正であり、多数の競技者たちや視聴者など周りの人たちにとって有難いから行われるわけです。

★なにか「差別」に勝手に特別な意味を持たせて騒ぎ立てる視野の狭い人たちがいますが、どんなに言い張っても、これらはれっきとした「差別」という日本語の使い方なのです。
言葉に惑わされている偏狭な人は、まずそれを改めてください。

もちろん、ある人たち(特に多数派)が都合がいいからと言って、その差別を押し進めるのを放っておくというのは、社会全体から言えば健全であるわけがありません。
逆に、ある人たち(特に少数派)が都合が悪いからと言って、その差別を徹底して排除する運動を扇動するというのも、社会世全体から言えば病的です。
地上の善悪とは、社会の秩序を保つためのあくまで「仮の通念」です。
そのため、地上の〈善〉を一方的に押し進めるのは、「感覚」を追うだけの民主主義病であって、人々の霊的進化には良くありません。
大切なことは、盲目的に感覚を追うことなく、真の意味で「足ること」を知ったうえで、《落とし所》というものを見据えることです。

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悪平等1⃣(死刑制度) [中庸]

少し前にネットで、死刑制度について投稿した人(常連)がいました。
「国家権力なら何をしてもいいのか?」
と、はじめは(珍しく)真っ当な問い掛けでした。
もともと死刑制度の是非は、罪に対して「死」をもって償うことが正当かどうかを問うものであり、刑の「重さ」の問題です。
ところが、この投稿に対する返信が増え、
「死刑は殺人ではない」
などの強い批判が相次ぐことで、投稿者はつい「ボロ」を出してしまいました。

投稿者:「国家が人々に『してはいけない』と言っていることを、自分がするのは矛盾ではないのか?」〔*〕

もちろんこれは「死刑は殺人である」を前提にした論理のすり替えですけれど。
これも私からすれば、
「《はじめから偉い人》がいてはいけない」〔⁂〕
という左翼思想とか民主主義病の思考法で、悪平等の一つです。(★)

私は衝動的に、
「『禁錮』は『監禁』にならないのですか?」
「してはいけないと人に言っていることを自分がするのがおかしいと言うのなら、すべての受刑者を即刻開放するべきです」
と返信しようとしたのですが、この投稿者は上の例からもわかるように、いつもピントがずれたことを言う人なのでやめました。
でも、どうしたことか(私と同じ理由か?)、他の投稿者はだれも私が言おうとしたことを返信しませんでした。
また、はじめから偉い人がいなければ社会は成り立たないということを言う人もいませんでした。(あくまで終始一貫、死刑と殺人の違いを訴えるだけでした)

〔*〕私が大学生の頃、TVである芸能人司会者が、死刑制度反対を訴えるときに、
「死刑を執行する側も殺人を犯しているのだから」
と声を張り上げて言いました。
私はたまらなく違和感を覚えたので、それを大学の友人に言ったところ、真剣な面持ちで、「詭弁だ」
と静かに答えました。
〔⁂〕この件の省察からもわかると思いますが、はじめから偉い人がいなければ社会は成り立ちません。
「落差」がないと社会はダメ。
これは光も闇も両方認めていた古い日本人にとっては「当たり前」のことです。
この落差がなくなったおかげで日本の学校がどういうことになっているか、教員をやってみれば日本の病が肌で感じ取れます。
「言うことを聞いてほしければ、私たちに尊敬されるような教師になってください」
(また報道などで)「信頼関係が出来ている教師に限っては体罰をしてもいい」・・・・・・
一見もっともなようですが、『詭弁』です。
どこまでも権限は生徒側にあるということです。
肝心なことを付け加えると、今の日本人は「落差(折り目)」が刷り込まれていないのではなく、「平等(=善)」が刷り込まれているのです。

★今後、『日月神示』の高級霊が使う「悪平等」という言葉を幾度か使わせていただきますが、理解していただくためには補足が必要だと思われます。
悪平等の【悪】は、地上の「善(小善・偽善)悪」の〈悪〉ではなく、超越(止揚)する真の霊的な【善】に対する霊的な【悪】です。
水平ではなく垂直(鉛直)です。
けっして、「地上では『差別(区別)が善で、平等(公平)が悪の場合』があって、そのときの『平等』だ」という意味ではありません。
前々回に取り上げた例の中で、地上においては、「生存・生誕〈善〉死滅・死去〈悪〉」とすることで秩序を保っていると言いましたが、それは仮のもの、方便であり、一方的盲目的に善を追求すれば幸福と平和を得られるというものではありません。
同様に、もし仮に地上において、「平等〈善〉差別〈悪〉」とすることで秩序を保つとしても、〈悪〉とされる差別を認めずに一面的に地上の〈善〉とされる平等を追求することで、幸福や平和をもたらすことはありません。〔一体なのですから(即非、陰陽)〕
「ミロクの道は〈悪〉を抱き参らせてこそ進む」
つまり、高級霊が「悪平等」と言っているのは、「差別平等」という地上の直線の平等の延長を一方的かつ盲目的に追求することです。
一般に「霊的な【悪】」とは、地上にへばり付くことです。

☆前回も言いましたが、私はこのところ、世間があまりにも地上的な思考に満ちていることに嫌気がさしていて、もう地球とオサラバしたいくらいです。(異星人、故郷へ帰る?)
これらの話題は、私がいくらここで真摯に向かい合ったうえで訴えても、人気はありません。
関心がないとか、考えるのも嫌だとか、聞くのも鬱陶しいとか、いろいろあるでしょう。
それは重々承知です。
ともあれ1割の少数派の叫びを聞いてください。
内容はこれまでと変わりませんけど、次回、次々回は一気に行きます。

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たんぴん族 [中庸]

近頃中国で『たんぴん族(躺平族)』が問題になっていますが、これは資本主義および民主主義の一つ末路でしょう。
これは日本にも他の国にも当てはまると思います。
努力しても無駄だと悟ってしまって、やる気が出ずに寝そべっているわけです。
まさに、易で言う「(天山)遯」の世にあると言えます。
賢人たちが隠遁するほど、どうにもならない世になっていることを言います。

下剋上がないというのは本来決して悪いことではなく、無益な競争がないという点でむしろ健全です。
ただしそれは、「庶民が生活に困らない」というのが必須条件です。
しかし、あいにく、「たんぴん族」はその水準に達していません。
日本の場合もだいたい同じですから、庶民は自分のことに置き換えればわかると思います。

それに対して政府は、何ら対策を打たねばならないと言って、老若男女問わず全員に雇用の機会を与えるなど経済活性化を図ります。
しかしこれは国の経済力を保持するためであり、すなわちそれは一部の政財界の人たちのためであり、けっして個人の生活や尊厳を思って計らうものではありません。
「まずは国が守られて、それで庶民も」と国家の義を唱える人もいるかと思いますが、庶民は潤いません。
なぜなら、そうやって大勢の庶民が身を削って努力して働けば働くほど、利益は支配者層に回る仕組みになっており、庶民は相対的にますます貧しくなるばかりだからです。
しかも働く人口が増えるほど一人当たりの取り分の価値がなくなります。
そうやって、過労、貧困、少子化などを招いたのですから。

それでも、「勤勉は善・怠惰は悪」の刷り込みを刺激し、「競争に勝てば高い水準の生活が約束される」というエサで釣っていたわけですが、冷静に考える人たちはみなで首を絞め合うだけだとわかり、一部の「模範囚」以外はその手に乗らなくなったのです。
その点からすれば、「たんぴん族」はむしろ「賢人」に値します。

日本もそうですし、もしかすると他もそうかもしれません。
少なくともここ20〜30年の日本はとんでもない思考法が蔓延しています。
*社会に出て働くことは素晴らしいことだ。(社会に出られないということは虐げられているということだ)
⁑どんな環境でも順応しなくてはならない。(この集団はみな伝染病に感染している。だから、あなたも伝染病に感染しなければならない)
⁂プライドは余計なものだ、あってはならない。(言い訳をしてはいけない、〇〇偽装してでも、知ったかぶりをしてでも、顧客から信用を得て成功するんだ、魂を売れ!)

幸福とは、自分の根っ子(基準)を持つこと、すなわち「精神的な貴族」〔オルテガ〕でいることです。(私の場合は「ニコヨン貴族」ですが)

そもそも資本主義における支配者たちは、各々自分が潤えばいいわけですから、どんな状況下でも労働者を、
『生かさず殺さず』
の状態にしておくことが基本です。
(昔、動物を擬人化したアメリカのアニメで露骨にそれを表現していたのを覚えています)
また支配者層はそうして得た利益を確保するために、政界と持ちつ持たれつの関係をつくります。
なので、国民総活躍は「ワークシェアリング」というあくまで支配者側の論理で終わるのです。

そんなことを言うと、
「社会主義や共産主義への回帰にすぎない」
とか、
「他に建設的な方策を提案してから言え、でなければ単なる逃避だ」
など言う人たちが現れますが、それは地上的な損得や善悪という「感覚」を一方的に追う人たちの言うことであって、そういう大衆を満足させる方策など一切ありません。
大衆は夏になれば冬を恋しがり、冬になれば夏を恋しがるだけです。
民が主導の今の民主主義は、蚊に刺されたときに、掻いて胡麻化しているだけで、「仕方なく掻いている」と思わなければ、ますます悪化するだけです。〔★〕
「掻いて胡麻化しているだけ」という自覚が肝心であって、自覚があればひとまず健全であり、それ以上の悪化を止められます。〔※〕
地上の闇の方を認めず、聞こえの良い地上的感覚的な善をのみ盲目的に追及するならば、さらに人間を蝕むことになります。
「仕方なく」を自覚せず「良くなる」と思って盲目的に感覚を追う「民が主導の民主主義」は成熟しません。

★「SDGsは『大衆のアヘン』である!」『人新世の「資本論」』〔斎藤幸平〕
斎藤氏は、各国政府や企業が推進するSDGs(持続可能な開発目標)は、環境危機から目をそらさせるための免罪符だと言います。
※チャーチル曰く、「民主制は最悪の政治制度だ。ただしほかの政治制度を除けば」
つまり、仕方なく民主制にしているということであり、その自覚が肝心なのです。

スピリチュアリズムからすれば、人々が損得に終始しない、人々に貪欲(強欲)を増幅させない状態にすることです。
そのためには、民が霊的に成熟する必要があります。
難しいことですがそれが条件です。
そのうえで指導者が擁立されることが望まれます。
そうして地上の直線を超越(止揚)し、芸術など文化を嗜み、義に生き、霊的に生きるだけの物質的余裕を与える政策が生まれるでしょう。
(すべての地上の陰陽・善悪を外側から意識で感覚的に抑えるのではなく、内側から省察で推進力を減退させるのです)

では、今地上を賑わせている『タリバン』はどうでしょう?
シャリア(イスラム法)に則った「持続可能な繁栄と平和」を約束しています。
民主政権に慣れた人、特に民主主義病に罹った人には「狂気の沙汰」だと思われるでしょうけど、日本に比べればむしろ「神の心」を反映しているように私には見えます。(詳しい説明は、過去に記したので省きます)
少なくとも私が今、世界中の人たちに願うことは、一方的に肯定したり否定したりすることなく、彼らを「理解」することです。

現状の「たんぴん族」は物質的条件が厳しすぎて、考える「暇」はあっても積極的には義に生きる「余裕」はありません。
かくいう私も「たんぴん族」と大差はないのであって、考える暇は(強制的に)与えられていますが、母親の介護と金銭的制約のため、積極的に義に生きるだけの肉体的自由はありません。

上述のように何々主義というのはあくまで地上における方便であって、特定の主義が絶対的に良いということはありませんが、「社会」なのですから、そして、人間は社会的な生き物なのですから、聖書の『ブドウ園の話』のように「生活に困らないこと」を前提に為政者が計らう国が健全な国家と言えます。

余談ですが、昔話の『三年寝太郎』をご存じかと思います。
始めのうちは、ただ懸命になって田畑の仕事をしていましたが、いくら頑張っても原理的に無駄だとわかってしまい、毎日家に籠って寝るだけになったわけです。
でも、実は寝ながらも良いアイデアが浮かぶまで考えていたのです。
「勤勉を善とし、怠惰を悪とする」という地上の道徳を刷り込まれた日本人は、つい「効果がないことであっても、勤勉を通すこと」を美徳として推奨し、「無駄だからと言って怠けること」を酷く諫める傾向があります。
この昔話では、周りの者たちが「こんな怠け者はいてはいけない」と、寝太郎を殺そうとしたくらいです。

しかし、地上の道徳というものは、社会の秩序を保つための「仮の法」であって、執着すると自分や周りの人をただ地獄に追い込むだけだと、寝太郎は気づいたのでしょう。
「たんぴん族」は果たして寝太郎のように、大きな石を山の上から転がして川の流れを変えるでしょうか?

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カエサルのものはカエサルに [中庸]

私たち人間は神仏の光を受けていながら、その影(明暗)を見て行動しています。
地上の世法や戒律や道徳、それに思想や主義は、あくまで社会の「秩序」を保つための方便であって、霊的行動や霊的進化と直接には関係ありません。

kaminjohikari2.jpg
様々な「陰陽」を表す直線(軸)は、互いに影響を与えないもの(直交)もあれば、影響を与えるものもあります。
直交する軸があるので、一つの平面に表すには無理がありますが、それらすべては神仏の光と止揚を表す縦軸と垂直の関係です。

*『勤勉=善・怠惰=悪』
日本などの東洋の国ではそう刷り込まれて社会秩序が保たれているように思われますが、ヨーロッパの国ではそうではなく、むしろ逆のようです。
怠惰というのは悪い意味ではなく、彼らにとって仕事はあくまで必要性で、休暇やプライベートを重視し楽しむことで人間性を維持しているようです。

⁂『生存(生誕)=善・死滅(死去)=悪』
寺の坊さんは、「仏教では肉体の死を忌み嫌うことはしない」と言います。
スピリチュアリズムでは、「肉体の死は課題を一つ終えたことであってむしろ喜ばしいこと」と言えるかもしれません。
しかし、地上の戒律や法律では「生存をめでたいこと」、「死を忌み嫌うこと」としておくことで、社会の秩序を保っているわけです。

その他、人々の幸福のために良かれと思ってやったことが、地上の法では罪となって捕まったなどということが稀にあります。
逆に、エゴが動機で行ったことでも、地上の世法では何の罪にもならないということがたくさんあります。

ともあれ、地上の善悪と霊的な善悪は分けて考えたほうが良いでしょう。
カエサルのものはカエサルに。
神のものは神に。

地上と霊界は、一体ではありますが、別次元です。(宝石とそのカット面のように)
いかなる方法をとるにせよ、それは地上の秩序を保つことで、霊的成長の御膳立てをするのです。(地上の秩序が保たれなければ、身を守ることに終始せざるを得なくなり、霊的成長どころではなくなります)

個人や地域や国による思想があり、たいがいどちらかが善でどちらかが悪と決めています。
しかし、一方的に地上的な善を追求しすぎると、人間の尊厳を失ってしまいます。(カネの奴隷、過労死、無駄な延命など)

地上の掟はあくまで秩序確保の方便ですから、一方向に善(小善)を追求することは「影」を盲目的に追うことであり、平和を遠ざけるばかりか、幸福を得る切っ掛けを失ってしまいます。
地上的(感覚的)なことは神仏(真理)の影であり、影しか追えないけれども、それを知って思考し行動することが道であり、白か黒かにならずに他を理解し、その直線を超越(止揚)して真の幸福を得ることができるのです。

★今回のことをひとまず理解していただいて、次回を見てください。


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日月神示(補足) [中庸]

前回の補足として、私がくどいほど取り上げている「平等と差別」に対応する事柄が『日月神示』にあるので報告します。

中矢伸一氏のブログから一部を拝借しました。
《「差別」や「平等」という言葉に騙されるな》〔2020.06.08〕
全米各地で起きているBLMデモを見ていると、自分の意見というものを持っているように見えるアメリカ人でも、扇動されやすいんだなあと思います。
日本人の方がむしろ、こういう過激なデモとか行動には、扇動されにくいですよね。
民度の違いもあるかもしれませんが、自分には関係ないとか、よくわからないという人の方が多いということかもしれません。

それにしても、トランプ大統領が極左過激派テロ組織と認定した「ANTIFA」のデモとか主張などを見ると、こういうふうに「差別」とか「平等」とかいう、一見すれば誰でもその通りと思えるようなスローガンを掲げて社会を混乱に導く連中が、この世を乱してきたんだなあと痛感します。

当然、人種による差別はいけないことですし、男女は人として平等であるべきですが、そういう聞こえの良い言葉を表に立てて、裏では秩序や伝統を破壊し、最終的には国そのものを潰そうとたくらむ、悪魔のような人々がいるということです。
またそういう連中に何の疑いもなく騙されてしまい、自分たちが正義の行動をしていると本気で信じてしまう大勢の「善良な」人たちがいる。
日本国内にもたくさんいます。

日月神示には、ここのところが小気味いいぐらいにハッキリ書かれています。

「差別、則(そく)平等と申してあろう。取り違い禁物ぞ」(『冬の巻』全1帖)

「平等愛とは、差別愛のことぞ。公平という声に騙されるなよ」(『黄金の巻』第56帖)

「悪平等は悪平等ぞ。世界丸つぶれのたくらみぞ」(『黄金の巻』第88帖)

「平等とか公平とか申すのは悪魔の罠(わな)であるぞ、天地をよく見よ、人民の申すごとき平等も公平もないであろうがな、一寸伸びる草もあれば一尺伸びる草もあるぞ、一寸の草は一寸が、一尺の草は一尺が頂天であるぞ。これが公平であり平等と申すもの」(『五葉之巻』第9帖)

「区別すると力出るぞ、同じであってはならん。平等でなくてはならんが、区別なき平等は悪平等である」(『月光の巻』第7帖)

こうした神示は、日月神示の後半部分にあたる「下巻」や「五十黙示録」に多く出されているのですが、日月神示を批判する人の中には、とくにこの後半部分を「偽物の神示だ」と決めつける人が多いのです。
さて、それはなぜでしょうか・・・?【終】

★中矢氏の文章はここで止まっています。
(もう言う必要はないということでしょう。というより、呆れて言う気もしない、自分で考えろということでしょう。でも考える人は全体の1割だと言っています)

要するに、(神の言葉として)「本物か偽物か」と言っていること自体、「(自分で)考えていないこと」を自らが証明しているようなものです。
本物だったらどうだというのでしょうか?
(そのまま鵜呑みにするというのでしょうか?)
偽物だったらどうだというのでしょうか?
(ただ排除するのでしょうか?)
自分の思考力が及ばなくなると「偽物呼ばわり」するということは、完全に思考を権威に託して盲信しているにすぎないわけです。
権威に託した「本物か偽物か」という思考回路こそ、これまでの伝統宗教の形骸化を生み、宗派同士の無理解と排斥を招くわけです。
盲信者たちが『日月神示教』を作っていくのが目に見えるようです。(中矢氏の1991年の著書の購入者の多数派がこのような意味での「本物か偽物か」に興味を抱く盲信者だとわかるのであり、中矢氏の心中を察するに余りあります)

真に道を行く人ならば、メッセージが本物か偽物かにかかわらず、その真意(神意)を汲み取るはずです。
というより、この『日月神示』さえなくてもよいはずです。
あくまで「切っ掛け」であることを察知し、人間の言葉の限界さえ悟ることでしょう。
(これこそが本物です)

これまでも言ってきたので、改めて言うことはないと思いますが、上の原文における表現を私なりに補足します。
*「平等と差別」について。
「差別、即平等」は〈即非〉であり、地上における同じ直線上のものです。
つまり、平等も一つの差別だということです。
⁑「平等愛は差別愛」というのは何か。
こっちが良くてこっちが悪いとかいう白か黒かの「地上の執著」を言っているでしょう。
ちょうど「浪費と吝嗇」が相対立するようで、実は同じ「執著」であるように。
〔ダンテの『神曲』の地獄篇にこの対立があります。自分自身を相手にいがみ合って地獄をつくるわけです〕
⁂「悪平等」と言っているのは何か。
不当な差別や必要のない差別を消すための手っ取り早い特効薬が「平等」という言葉ですが、それは同時に「劇薬」でもあり、「副作用」が社会を蝕むということです。
(副作用は日本にも、貧困、少子化、家庭崩壊や学校崩壊などとして表れています)
(そういう目で、「SDGs」をもう一回見てください)
また、大衆を利用してわざとそうする輩もいるということです。

※「区別すると力出るぞ、同じであってはならん」とは。
その人の「分」に則して行動するのが健全であり、「平等―差別」の意識がないのが真の平等(公平)です。
出来れば為政者が「分」を考慮したうえで問題にならない程度にあらかじめ「差別」(辞書では区別、差異と同じ意味です)を施せば、むしろ混乱や無益な争いを避けて秩序を保つことができるはずです。
これが本来の社会の在り方です。
差別にしても平等にしても、
「問題にするときは問題にして解決を図る」
「問題にしなくていいことは問題にしないでそのままにする」
ただこれだけです。

とにかく、雰囲気に流されずに、権威に託さずに、『神示』などを切っ掛けにして「考えろ」と言いたいのです。
私は(おそらく中矢氏も)、ひとえに考える人が増えることを願って行動するだけです。


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日月神示 [中庸]

形骸化した「教え」を刷新する必要性ということを私は常々言っていますが、それに値するものの一つに『日月神示』(ひつくしんじ)があります。
ちょうど10年前に購入して読んだ『「天の叡智」日月神示』〔中矢伸一著〕をもう一度パラパラと捲ってみました。
どこを開いても、もっともなことばかりで、道を得て霊的に生きる上で肝心なことが随所に記されていて、ここで私がどうこう言うよりも、ともあれまずは万人に読んでもらいたいとは思います。
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一つ一つ取り上げったらキリがないので、本文と「扉」の間にある箇条書きの一つを抜粋します。

奇蹟を求めるもの、
金を求めるもの、
人集めを求めるもの、
救いは自分のところの教え以外ないと言うもの、
天国を求めて地獄を生む人々、
みなみな下級霊に踊らされる者たち

もうこれだけで充分お分かりかと思います。
前回の顕正会の盲信者Kにしても、再三登場してもらう教会の盲信者Uにしても、これに当たるのは明らかです。
そういえば、以前Uと電話で話している時、
「オレは(鬱で考える力がないからか)信じるしかないんだもん」
と言ったので、私が、
「Uさん、それだと低級霊に乗っ取られちゃうよ」
と言うと、Uはすかさず、
「だって、今しゃべってるのはオレじゃないもん」
「低級霊がしゃべってるんだもん」
と、真面目に言ったのを思い出します。
別の機会にも、
「鬱になったことがある人じゃないとわからないと思うけど、自分が自分じゃないみたいで、なんて言ったらいいかわからないような変な感覚だよ」
と言っていました。
私に言わせれば、自分で考えないから低級霊に乗っ取られて、鬱になるのでしょう。
KもUも完全に「信じる=考えない」「信仰=賭け事」になってしまっています。

しかしながら、この『日月神示』も、道を行くための具体的な実践方法やそのための切っ掛けを充分示されているかというと正直微妙です。

以前取り上げたコーランも、盲信や偶像崇拝を排し、刷新する役割だったはずなのですが、「アブラハムの行動を見習う」にとどまり、実践法が具体的に示されていないため、一般の人は「理解不能」だったのかもしれません。
【再びコーランから引用】
*(アッラーは)汝らに、天使や予言者を神様あつかいしろなどと御命じになりはせぬ。せっかく汝らが立派な信者になったというのに、どうして今さら不信仰を命じたりなさるものか。
⁂こう言うがよい、アッラーの御言葉に嘘いつわりはない。されば、汝らイブラーヒ-ム(アブラハム)の信仰に従えよ。彼こそは純正なる信仰の人だった。偶像崇拝のやからではなかった。【終】

また、いつか取り上げた《春風学寮》における「イエスの行動を見習う」も同じで、聖書の中のイエスの言動や行動を「真似ること」はできるとしても、「理解」できる人がどれだけいるかというと甚だ疑問です。
【再び春風学寮から引用】
*聖書に書いてあることのすべてを事実として鵜呑みにしてはいけないし、かと言ってそのすべてを作り話として切り捨てることも許されない。厳しい疑いの目をもって作り話を見分けつつ、否定しきれない部分を受け入れながら読む必要があるのである。【終】

そもそも、イエスの言う「聞く耳を持つ」ということ自体が、「鵜呑みにしない」ことなのですから、結局自分自身しか頼れる者はいないのです。
聖人の教えとは、いわゆる「考える切っ掛け」だけを与える産婆術になるわけです。
もちろん『日月神示』にもそのことは記されているのですが、ならば「どうすればいいのか」となると、それも自分で考えるしかないのです。
いずれにせよ、切っ掛けを得て自らが実践するほどの哲学者でなければ土台無理なわけです。

〈あとがき〉にもあるように、日月神示を絶対視し、そこに示された内容を盲信してしまう人もいるのですが、そのものを広める『日月神示教』ではなくて、その奥に流れる「霊脈」に透徹する「神的意志」に目を向ける方が重要であって、それをなおざりにしては意味がないのです。

〔イエスもマホメットも、あくまで神の言うことを伝えることで形骸化したものを刷新するのが目的であって、『キリスト教』や『イスラム教』を広めるつもりはなかったのかもしれません。孔子も論語は広めても『儒教』を広めるつもりはなかったのかもしれません〕

それでも、著者の中矢氏は、日月神示を知らなくとも、同様なことに気づき始めている日本人や外国人は少なくなく、増加しているとも言っています。(ここに来てくださるみなさんもそうだと思います)

再三言うように、道を得るかどうかは、「教え(の内容)」によるのではなく「その人(の活動)」によるのです。
どんな場合でも、経典は「考える切っ掛け」として読むことが前提です。
とはいえ、その成果に関しては先程「微妙」だと私自身言いました。

★哲学書ではないため、〔霊的自覚を促すこと〕や〔即非や絶対矛盾自己同一という実践(性善説と性悪説の本当の意味)〕あるいは〔語り得ることを語り、語りえぬことを語らない実践の徹底〕などが示されていないからです。

強いて言えば、ただ一か所、省察の実践に相当する箇所があることはあります。
本の表紙にある、
〈ミロクの道は悪を抱き参らせてこそ進む〉
「なぜこの世から悪がけっしてなくならないのか?世界を動かす無限のパワーは、悪を活用することでしか発動しない!悪による神の存在証明」
です。
本文から詳細を抜粋します。
*【原文】善のみにては力として進展せず、無と同じこととなり、悪のみにてもまた同様である。故に神は悪を除かんと為し給わず、悪を悪として正しく生かさんと為し給うのである。何故ならば、悪もまた神の御力の現れの一面なるが故である。悪を除いて善ばかりの世となさんとするは、地上的物質的の方向、法則下に、総てをはめんとなす限られたる科学的平面的行為であって、この行為こそ、悪そのものである。この一点に地上人の共通する誤りたる想念が存在する。悪を消化し、悪を抱き、これを善の悪として、善の善悪となすことによって、三千世界は弥栄となり、不変にして変化極まりなき大歓喜となるのである。この境地こそ、生なく、死なく、光明、弥栄の生命となる。(『地震の巻』第九帖)
⁑【原文】霊人に於いては、善悪の両面に住することは、原則として許されない。一時的には仮面をかぶり得るが、それは長く続かず、自分自身耐え得ぬこととなる。地上人といえども、本質的には善悪両面に呼吸することは許されていない。しかし、悪を抱き参らせて、悪を御用の悪として育て給わんがために課せられたる地上人の光栄ある大使命なることを自覚しなければならない。悪と偽に、同時に入ることは、一応の必要悪、必要偽として許される。何故ならば、それがある為に弥栄し、進展するからである。悪を殺すことは、善をも殺し、神を殺し、歓喜を殺し、総てを殺す結果となるからである。(『地震の巻』第四帖)【終】

みなさんどうでしょう?
ここに来てくれている方たちは、充分わかると思います。
いわゆる「二元性の体験と克服」であり、それが地上における霊的課題だということです。
私が再三言う、即非と絶無、神仏の光(善)と地上の光と闇(小善と悪)、孟子と荀子の本当の性善説と性悪説、第一の絶望と第二の絶望、機の深信と法の深信、肯定か否定ではなく超越、預流果、等々、道を得るための切っ掛けがそれとなくそこに示されています。
とはいえ、その切っ掛けを与えてくれているかどうかは、その人によるでしょう。
でもどうでしょう、一般人が上記の原文を理解できると思われますか?
理性を発動して、道を得ると思いますか?
おそらく、あまり良い答えは返ってこないでしょう。

中矢氏の最初の『日月神示』(1991年)が(予想外にも)ベストセラーになり、この[天の叡智]のほか[地の叡智]と[人の叡智]の三部作が世に出たとのことです。〔読み手のほとんどは興味本位なのか?〕
特に[人の叡智]は「私たちは何を為すべきか。どうやって道を開くべきか」という実践論についてということで、それを読んでみないと何とも言えないのですが、昨今のTVやネットを見る限り、広く世間には浸透していないようです。
もはや、地上における「善悪」の悪を前提とする善(小善・偽善)を、悪を排して追求することに終始しているのは明白です。(前提の悪が消えないにもかかわらず、悪を認めない「善魔」が支配しています)

近頃、町を歩いていて気になることがひとつありました。
どこの工事現場の壁にも「SDGs」のマークが表示されているのです。
学校でも取り上げられています。
sdgs.png
でもどうでしょう?
どう考えても、「両立しないもの」があるように思いますが、いかがでしょうか?
(もうお分かりと思います)
上述の「前提となる悪を認めない善の追求」と同じ思考回路の多数派の地上人が、同じ直線上の一方向だけの理想を掲げています。
ここでさらに「互いに【逆ベクトル】の組み合わせ」があるとしたらどうなるのでしょうか?
各国の首脳は、未来は良い方向に向かっているという暗黙の前提で動いているようですが、多数派の地上人が求めているのは所詮「乾し草」ではないでしょうか?
私には神の心が反映されているとは思えません。
果たして私のような者どもの活動が反映される時が来るでしょうか。
それとも我々少数派は見切りをつけて次へ進むべきでしょうか。


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盲信地獄 [中庸]

報道されているように、このコロナ過で、人々の不安に付け込んで入信させてカネを巻き上げようという盲信教団が動いているようです。
みなさんの中にもそれら盲信教団の訪問や勧誘に悩まされている方がいらっしゃるかもしれません。
私の所にも顕正会の信者が来ました。
ただし、20年前にも一度電話で勧誘してきた同じ小中学校の同学年の男Kです。
どこで突き止めたのか、今度は直接家に来ました。
経緯から「折伏」が目的だということは分かっていましたが、顔御見知りだということもあり、私のほうも盲信を撲滅して理信を促す活動をしている手前、無下に追い払うのはスピリチュアリズムの精神に悖るかと思い、世間話をしたあと、配信用のメールアドレスを教え、向こうの印刷物を受け取り、私は自分の6年前の著書を渡しました。
手渡しをしている間にも、
「スピリチュアリズムだよ。スピリチュアルじゃないよ」
「本質を見極めればみな同じだからね」
「宗教関係者が争っていたんじゃねぇ、平和は望めないよ」
と、それとなく先制攻撃しましたが、Kは不敵な笑みを浮かべて、
「それはどうかな」
「日蓮大聖人だけが正しいと断言しているんだ」
と、さっそく盲信者の不穏なる答が返ってきました。
私は瞬間的に、「あっ、ダメかな?」と思いました。

案の定、4日後に郵送で私の著書を送り返してきました。
また、他の宗教や宗派を邪教と断定する顕正会の冊子(浅井氏著)が同封されていました。
読んだかどうかわからないのですが、盲信に陥る仕組みとそれを排する内容の私の著書に対して、盲信ぶりを強調する内容の冊子を送り付けたということは、はじめから「聞く耳を持たない」ということですから、私も即座にその冊子と印刷物を送り返しました。
すると、3日後の日曜日にまた訪問してきて、インターホン越しに、
「Kです。(冊子を)読んだ?」
と言ったので、私は、(失礼だろ。私の著書について一切言わずに、と思いながら)
「ああ、送り返したから」
「あなたとはもう会うことはないよ」
と返しました。
Kは、そう言われるのが慣れているかのように、
「ふーん、返したんだぁ」
「じゃあ、成仏できないね」(成仏したと思い込む「疑似天国」すなわち「盲信地獄」なのですが。理解のない者が成仏できるわけがありません)
と、捨て台詞を吐いて、去った様子でした。
〔5年前にキリスト教の教会の盲信者の言った『ああ、長谷川さんは幸せになれないやぁ』を思い出します〕
イエスや日蓮など、肉体を持った人間を崇拝し本尊とすること、残した言葉や聖典などを「聖遺物」扱いするのはみな盲信です。
地上的なことを超越するスピリチュアリズムでは、聖人はみな神や仏の意思を伝える「メッセンジャー」であり、聖典や経典はみな道を得るきっかけを与えるための「方便」です。
スピリチュアリズムが、「今の地上の宗教はダメだ」と言うのは、けっして「教義」が間違っているということではなく(改竄はある)、信者が方便である一面的な教義に囚われて白か黒かを競い合うその「心得」が間違っているということです。

「では、なぜそんなやり取りをしたんだ?」
と思われるかもしれませんが、ひとつには、あいまいな態度で接すれば、向こうから折伏の可能性を持たれて面倒なことになるので、はっきりと自分の活動を示して諦めさせるためそうしたわけです。
もうひとつは、実のところ、お人好しで寛大だと自負する私は、教義の違いだけでなくそこに何かすべてを超越する内容があるのかと仄かに期待をしていたのです。
日蓮は鎌倉仏教の中でも後輩に当たることですし、唯円が『歎異抄』を表したように、それまでの禅や念仏も、形骸化して正しく伝わらなくなっているのも確かであって、それを刷新する意味があったのではないかと微かな希望を持っていました。
ちょうど、700年ほど経って形骸化したキリスト教に対してマホメットが刷新したように。
しかし、少なくとも浅井氏の冊子を見る限り、真言も禅も念仏もキリストもすべて邪教とし、キリスト教に至っては『おとぎ話』扱いしています。
ということは、「末端の表現」に囚われているだけだということは明らかで、超越し刷新する意味合いはないということです。
もっともそれ以前に「組織」の問題があって、中国や韓国の首脳がわざと国民の反日感情を煽って結束力を高め統率しようとするのと同じく、他を否定することで信者を束ね、権威と権力を確保しようとする極めて地上的な目論見があるでしょう。

以前私は、「言ってもダメな盲信者」と「言って何とかなる盲信者」がいると言いました。
私の経験から、大きく分けて3つ考えられます。
❶「組織の上司の圧力による折伏のノルマに怯える人」
❷「思考力がないため、また、能力に自信がないため、考えないこと、思考を預ける(理性を捨てること)を『信じること』と履き違え、権威や権力にしがみ付いて他を攻撃し、劣等感を優越感に変えることで快感を覚える人」
❸「自発的に菩提心を起こしたわけではなく入信した人、純粋に末端の表現、経典や聖典の言葉という末端の表現に囚われて、本質が見えない人」
(“平等”から思考が出発してしまうことで、いかなる“差別”もすべて「悪」になってしまう現代日本と同じ原理です)
その他、それらの複合もあります。

そのうち、少しでも①または②の要素がある盲信者は「言ってもダメな盲信者」です。
❶は地上的な「自己保身」が動機ですから論外です。
❷は土台省察するだけの思考力がありませんし、しがみつくものを失うと何もできないので、不可能です。
❸だけの盲信者中には、「論理の使い方」を省察することで、盲信を解除できる人もいると思います。
なので、私の仕事は❸の人のみに対して効力があるということです。

それならKは?
一連の行動から見て、❶の可能性があります。
今回の言動や行動と、姿や学力(私は知っているので)を考慮すれば、❷は確実でしょう。
❸は言うまでもありません。
一縷の望みに賭けて接したのですが、甘かったようです。

「誰誰がこう言っているから」と教義に囚われて、思考を権威に預けて、考えないことで楽になり、権威を笠に着て他を否定し攻撃することで自己肯定し快感を得ることが天国とか極楽とか悟りとか成仏だとかいう人、いわゆる「おめでたい人」というのは、アル中やアヘン中毒と同じで、霊的に自身を蝕むだけです。
「本人が幸せだと思っているのだからいいじゃないか?」
という人がいますが、地上に生まれてきて霊的進化をするのが目的であるのに、「疑似天国」という幽界に留まるのは、進化が止まるわけであって、道ではありません。(戒禁取が消えないので、預流果の関門を突破できません)
道を行くことは、思考停止して感覚的に楽になることや、特権を与えられたかのような快感を得ることではありません。

みなさんは、もしそういう盲信者に折伏が目的で付き纏われたら、どう対処されるでしょうか?
無視するでしょうか?
受け流すでしょうか?
突っぱねるでしょうか?
それとも教義を超越する書物などを引き合いに、省察を促すでしょうか?
あるいは、自身の力で諭すでしょうか?

❶や❷は何を言っても無駄なので、
「どうぞ、地獄へ『成物』してください」
と祈って、無視するか突っぱねるのが得策でしょう。
あまり執拗なら、法的措置をとってもいいと思います。
それに対して、盲信者は十中八九、「迫害された」と受け取ることでしょう。
しかも「迫害されることを名誉と思え」などと言い聞かせながら、聖人気取りでいるはずです。
もちろん健全な私たちは、「迫害」などしていませんし、教義を否定しているのでもありません。
盲信者たちの「心得違い」を指摘しているだけです。
盲信者は論理的に間違えているのではありません。
論理の使い方を間違えているのです。
邪教なのではありません。
邪道なのです。
もっとも、その手の盲信者にそれを言っても絶対にわかりません。
前回言ったように、高い視点に立てないのですから。

❸に関しては、また改めて言うことにします。

4年前に講師室の隣の席にいた20代の京都出身の信仰心ある数学教師がボヤいていたのを思い出します。
「宗教って、本当はこんなものじゃないんですよ」
「今の宗教なら、(間を置いて)ないほうがいいですね」
以前にも言いましたが、「宗教は危険だ」という結論だけ言えば、私たちが信仰心のかけらもない『唯物論者』たちと言を一にしなければならないということが、たまらなく辛く歯痒いのです。
どうやら、地上の宗教は役目を終えたようです。


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論語と算盤 [中庸]

間が空いてしまいました。
次回にするつもりでしたが、先に出来てしまったのでお届けします。
今取り上げられている渋沢栄一の思想について少し。
NHKテキスト【100分de名著『論語と算盤』(守屋淳)】を読んで、私なりの見解を述べたいと思います。
長くなってしまいましたが、お付き合い願います。

始めのほうは、さすがに渋沢は論語を真剣に学んだだけあって、中庸の精神が染みわたっているなと思いました。
ただ、「論語と算盤」と2つを対極に置くというのには、私は初めから違和感がありました。
論語はそのものが中庸であり、極に置くのが変で、「何事においても中庸」というのがその教えだと思うからです。
渋沢は経済を目的としているので、どちらかというと「算盤上の論語」と言ったほうが良いのではないかと感じました。
そういう意味もあって、終わりの方に関して、肝心なことを述べさせていただきます。

【引用】
「算盤」の大きな問題の一つは、競争による優勝劣敗で二極化が進み、最悪の場合、弱者切り捨てに繋がってしまいかねないこと。
この問題に対して、渋沢は自らの行動で「論語」の価値観を体現し、「算盤」の欠点をカバーしていきます。・・・・・(略)・・・・・
良心と思いやりを意味する「忠恕」は『論語』の言葉です。・・・・・(略)・・・・・
たとえば、『論語と算盤』の中で渋沢は、権利や義務を声高に主張しすぎることで、資本家と労働者の間にあった「家庭的な関係」「長年にわたって結ばれてきた一種の情愛の雰囲気」が壊れてしまうことを危惧しました。そうした溝を生まないために、渋沢は互いが「王道」によって調和を目指すべきだと主張しています。「王道」とは、武力や権力で統治する「覇道」と対をなす概念であり、徳や思いやりで統治することをいいます。ここでは「思いやりの道」と訳してあります。

 〔*渋沢の言〕言葉を換えれば、資本家は「思いやりの道」によって労働者と向き合い、労働者もまた「思いやりの道」によって資本家と向き合い、両者のかかわる事業の損得は、そもそも共通の前提に立っていることを悟るべきなのだ。そして、お互いに相手を思いやる気持ちを持ち続ける心掛けがあってこそ、初めて本当の調和が実現できるのである。実際に両者がこうなってしまえば、権利や義務といった考え方は、無意味に両者の感情にミゾをつくるばかりで、ほとんど何も効果を発揮しないといってよいだろう。

この文章を読んで、「労使協調」という言葉を思い浮かべた方も多いのではないでしょうか。日本が高度経済成長を成し遂げた背景の一つに、労使協調による経営の安定と生産性の向上があったと言われています。渋沢の言う「王道」(思いやりの道)による調和が実現し、経済の発展をもたらした一つの例と言えます。

《今こそ求められる「対極を調和させる」力》
近年、日本でもダイバーシティー(多様性)という言葉がよく聞かれるようになりました。少子高齢化と人口減少が進むこれからの日本で、例えば企業が持続的に成長していくには、性別や年齢、国籍などにとらわれず、多種多様な人材を積極的に登用することが欠かせません。
【終】

みなさんどうでしょう?
概して、経済発展を前提とする企業側の論理になっているように思えますが、どうでしょう。
ここで言う「高度経済成長」とはいつからいつまでのことを指すのか不明ですが、少なくとも今は違います。(もはや先進国ではありません)
では、なぜそうではなくなったのでしょうか?
渋沢の言う「王道」(思いやりの道)がなくなったからでしょうか。
もしそうなら、なぜ王道がなくなったのでしょうか?
それならば、今回の企画で、もう一度渋沢の精神を取り入れて「高度経済成長」あるいはそれに匹敵する経済の発展を成し遂げようというのでしょうか?
果たして可能でしょうか?

私が思うには、高度経済成長期は物質的に拡大していったので、みなが解放感という「感覚」に酔っていたといえます。
ストライキで賃金引上げ、消費が拡大、売り上げ上昇、の繰り返しで、一見好循環、労使とも利益が増して潤っていました。
そのため、労使は闘争しながらも同じ「拡大する方向」に向いていた、というより、いられたのです。
ならば、すべての人の行動がまさに「公益」になっているように取れますが、みなさんどうでしょうか?
(昭和30年代~昭和40年代の日本は、専業主婦が多く、けっして誰もが外で働いているわけではなかったということ、そのため賃金の相対的価値が高かったということ、それでいて、経済活性化において労働力が不足していたわけではないということを頭に入れてください)

この時代は、しわの寄せの対象が地球上の人間の「外」であり人間ではありませんでした。
「労使協調」はお互いに敵ではないという安心感が可能にしたと思います。
ところが、やがて閉じた空間が飽和状態になって、公害や温暖化などのしっぺ返しが始まり、拡大が止まりました。
「公益」というものが、人類の範囲にとどまるのなら、かつて言われたように、人類は地球における「がん細胞」にすぎないということになってしまいます。
「ろうそくの炎は、ろうそくを食い尽くし、やがて炎も消える」(レオナルド・ダヴィンチ)

今後、王道による「公益」は可能でしょうか?
またそれによって再び経済繁栄して、皆が幸せになることがあるでしょうか?
私は過去の経験から、高度経済成長そのものが「絶対的に無条件に素晴らしいことだ」というのが幻だということを省察する必要があると思うのです。
そもそも、人類が物質的金銭的に豊かになることが、そのまま幸せになるとは限らないはずです。(物質の充足は幸福の条件ではあるが、不幸のもとにもなる)
しかしながら、このテキストでは、かつての高度経済成長を素晴らしい成功例として、それを前提で渋沢の言う「公益」に結びつけて述べているようです。
渋沢の哲学「道徳経済合一説」が果たして神の心を反映しているのでしょうか?
思うに、「公益」は人間の幸福の方法論ではありますが、成功したとしても、それは「人類の義」までであり、「神の義」までは届かないかもしれません。

なにか渋沢の思想はこの地上における人間の営みを、一方的に「肯定的・積極的」にのみ捉えているように思えます。
冷静に振り返ると、人間は楽園を追放されて「社会」を作ったのです。
所詮「社会」は知性を得た人間の「迷い」の象徴です。
なので、もう一方で、「否定的・消極的」に捉える必要もあるはずです。
大まかに言って、
個人<家族の義<組織の義<国家の義<人類の義<神の義
であり、何においても「神の義」になっていることが、霊的に正しいのです。
放蕩息子が帰宅することで、はじめて本当の幸せに辿り着きます。

たとえば、以前にも言ったように、もともと「貨幣経済」の成り立ちは素朴なことからでした。
〔ある集落において、Aという家が食料が確保できなくて困っているときに、食物に余裕があるBという家が分け与えたとします。そうしたら、今度Bがいつか困ったときに、優先的にBに施すことにします。その証しとして、大きな「石のロール」をBの家の傍らに置いておきます。〕
これが貨幣の始まりです。(諸説あり)

使い古しの私のネタですが、ある日、散髪をして次の日に仕事に行くと、
〔若者〕:先生、髪切ったの?
〔私〕:いや、切ってないよ。
〔若者〕:えっ?
〔私〕:床屋が切ったんだよ。
〔若者〕:なんだ、一緒じゃん
〔私〕:床屋に切ってもらったんだよ。私はカネを払っただけ。自分でできないことを床屋にしてもらって、その感謝の証しとしてカネを渡したんだ。そして、床屋は自分でできないこと、たとえばパンを作ることをパン屋にしてもらって、その報酬としてカネを渡すんだよ。

貨幣経済の基本はこれです。
『♬お金はあとだ、仕事が先だ』〔♪ハサミ研ぎ〕
順番を間違えてはいけません。
順番を間違えると、貨幣の流れに翻弄されて、仕方なく過酷な労働をする羽目になります。
労働者は、
「カネをもらっているんだから顧客に喜んでもらえるように働かなければ・・・」
と言われたり、自分で言い聞かせたりします。
顧客は、
「カネを払っているんだからやれよ」
と、労働者に当たったりします。
つまり、みな「カネの奴隷」になってしまいます。
完全に本末転倒です。(構造が出来上がってしまって、自給自足も出来ず、みな仕方なく外で働いているのですから、それを弁えないと首を絞め合うことになります)

たしかにカネが流れれば自分にできないことをいろいろしてもらえて、有り難いことも起きます。
自分で作れない楽器を購入して演奏するなど、文化的な行動も可能になります。
しかしそれが過ぎるとかえって不幸を招きます。
貨幣経済に限らず、社会とは人間の生活に「柔軟性」を持たせるためにあり、言い換えればそれは「適応者生存・不適応者死滅」の対極でもあります。
しかしながら、倫理なき医療の進歩は「延命主義」を招き、省察なき経済の活性は「拝金主義」につながります。
以前にも言いましたが、人間社会における活動があまりにも活性化すると、すなわち倫理が追い付かず文明が進歩しすぎると、それだけ苦しみも増し、迷いも深まります。

「論語」の本質は「極端なことを避ける」です。
孔子その人も(言ったことを必ずしも実行しないほど)極端なことをしない人だったそうです。
渋沢が『論語』に何を見出したか正確にはわかりませんが、私から見ると、「様々な人」の中庸のように思えます。
「こういう人が良くてああいう人がダメ」というのではなく、様々な人の特性を認め、世の中に多様性を導入しようということです。
それに関しては私も賛同します。
ただ、その多様性を「経済」に組み込むというのは、違うと思うのです。
「経済」に直接関与しない人がいてもよいと思います。
(原初の人間は働いていませんでしたし、原始キリスト教では働いて良いのは年に4日です)
(今でも東南アジアの国では、家族の中の全員が働きに出なくても全員生活できます。かつての日本のように)
渋沢の言う「合本主義」が仮に成立したとしても、それは、日本の首相が唱えた「一億総活躍」と何ら変わらないと私には思われるのです。
労働力は充分足りています。
余っているくらいですから。(コンビニやスーパーの商品も余っていませんか?)
人口が減ればそれだけ顧客が減り労働者が要らなくなります。
子供や若者から減っていくので、学校の教員はますます就職難ですし、給与も減ってきていきます。
それなのに、老若男女問わず、これ以上外で働いたらどうなるのでしょうか?
ますます賃金の価値がなくなり、ますます人口が減り・・・
それ以上言う必要はないでしょう。

では、なぜ今「渋沢栄一」なのでしょう?(過去の功績はともかく)
だいいち、それによって『論語』を学ぶ人がどれほどいるでしょうか?(小中学校で導入しない限り浸透しないでしょう)
9割方は相変わらず、目先の損得で行動を選択し、労働者は奴隷になって(上手く騙されて)身の安全を確保し、資本家もそういう人を採用して安心を得ることでしょう。
それに、報道を司る人たちは何を目的とするのでしょうか?
「すべては公益のために」
「強欲な経済を否定し、みなが富む社会をつくる」
そう謳ってはいますが、今の日本の強欲資本主義を排するように見えて、結局は企業側の論理の「ワークシェアリング」に丸め込まれるのではないでしょうか?
なにか胡散臭いものを感じるのは私だけでしょうか?

ここで、先日届いた幸福の科学の冊子の一部を見てください。
〈正論が受け入れられない日本〉
【不思議なことに、この国は、正しいことを言っているところは評価されず、嘘を言うところがたくさん票を取れるようになっています。「嘘を言っている」ということはみな分かっているのに、「うまく騙されたい」ということの陶酔感に酔いしれている人が大勢いるのです。】〔2021年3月No.409より〕
〈世の中の間違いを正そう〉
【このあたりで、もう一度、“ぶち破る気分”を持たないといけないでしょう。
マスコミのほうも、嘘をつき、既成の事実を守って権力者を攻撃するふりをしながら、実は癒着しています。そうした”御用マスコミ“ばかりになっているのです。
やはり、これを“ぶち破って”、「本当の真理はこうだ!これに反するものよ、いつまでも生き残れると思うなよ」と言うぐらい若者の気分になって、もう一回、グワッと世の中の「常識」を引っ繰り返そうではありませんか。】
〈世の中に尽くす人生を選べ〉
【今は「神仏のための革命・戦い」の時なのです。みなさん、立ち上がってください!何をしているのですか。・・・(略)・・・
「光を選び取る」ということは、「世の中のために尽くす人生を選べ」ということです。それが、あなた自身のためにもなるのです。】〔2021年4月No.410より〕

既述のように、私は幸福の科学に全面的に賛同するわけではありませんが、スピリチュアリズムから見ると、世間一般に報道されていることの意図というのは、あまりにも「地上的」なのです。
社会の内部から社会を俯瞰するのではなく、社会そのものを超越した視点から社会を俯瞰する必要があると思います。

繰り返しますが、人間の課題は、「地上における人間の営みそのもの」を肯定も否定もせず超越し、推進力を内側から制御すること、(キリスト教的に言えば)霊長として地球を支配することです。
それが「神の義」であり、『論語』における中庸だと思います。



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神の心 [中庸]

思索中ふと思い出したのが、故池田晶子女史の問い掛けです。

「人権が天与のものなら、どうして人がわざわざ文章にする必要があるのか?」

これはいったい何を言っているのでしょうか?
まず、社会があるということは同時に人権があるということであり、人権のない社会はない、人権のない集団は社会ではないということです。
近頃、特に若い人は、末端の表現である言葉にとらわれて白か黒かの思考から、
「人権がある社会なら、人権がない社会だってあり得る」
などと言う人たちが出現するかもしれませんが、それは根本的に間違いです。
〔今(以前から?)、ある意味で人権のない社会に近い状態があちこちで見られると思います。それに対して、「今は今なんだ、昔のことは言わないでくれ」みたいなことを言って、ただ順応や適応だけを考える若者が増えていると思いますが、完全に「様式」と「状態」を履き違えています。(進んで伝染病に感染する。楽だからだけれど、麻薬のようなもので自身を蝕む。)〕

それに、地上における世法と雖も、それは神の地上における人間の末端の表現であって、けっして人間が勝手に作ったものではないということ、「神の心」の反映であり、またそうでなければならないということを表しているのです。
どんな場合でも、「神がもとで人間がそれを表現している」ということを忘れてはいけません。
人間は神の様態(表現)なのです。
神が宝石だとしたら人間はカットされた面であって、一体なのです。
戻りますが、神から人権が与えられているからといって、
「もう保証されているのだから安全で守られているのだから、何もしなくてもいい」
とか、
「天与のものだといわれてもいても実際に人権が守られていないから、言葉で強化しているのだ」
と神と人間を切り離してはいけません。

もともと人間は攻撃的な存在ではありません。
もとから人間は社会的存在です。
原初の状態であっても、欲が出なければ殺し合いはなかったでしょうし、今のように法律があっても欲が出れば殺人は起こります。
すべては神の掌の上でのことで、それを人間の言葉で表現することで、はじめて人間の活動が可能になるのです。

まあこれは基本的なことで、学校の社会科で教わるはずですが、人権があるということは、人を殺めてはいけない、傷つけてはいけない、などの規制が伴います。
社会の営みを人間の言葉で表現しました。
ところが、言葉は末端の表現で常に「一面性」を帯びています。
人間に生きる「権利」があれば、同時に「規制や義務」が伴います。
社会契約を結んでいるわけですから。
言葉の一面性は拭えませんが、規制や義務もはじめから同時に神に内在しているものです。
ということは、社会において、完全なる「自由」はあり得ないということです。
完全に自由であるならば、人を殺すのも自由なのですから。

みなさんは、
「自由で平和な社会の実現」
などと聞きませんか?
まあ、この場合の自由は、「不当な抑圧がない」という意味なのでしょうが、自由を積極的にとらえて拡大解釈してしまっては危険です。
一面性があることを忘れてはなりません。
実際、「自由経済」や「自由競争」なるものがどんな結果をもたらしているかを見ればわかるはずです。
経済的に力のある者が自由に行動できれば、殺傷とまではいかなくても、どれだけ苦しめるか明らかです。(格差拡大とか、株価だけ上昇とか)

それでは、
「平等で平和な社会」
はどうでしょう?
もちろん「同じこと・同じ数」という意味の平等ではないとします。
再三言うように、同じことをしては「和」ができません。
ならば、百歩譲って「機会が平等で」ということにしましょう。
それで平和は実現可能だと思いますか?
前に紹介した識者たちの言うように、機会が平等であればその人の資質や趣向や意志によって能力を存分に発揮することができて、自然と役割分担ができて、結果みながそれなりに社会貢献できて充実な人生を送れるはずですけど。
今の日本は他国と比べてわりと機会が平等だと思いますが。
平和になっているでしょうか?(いわゆる「戦争」をしないという意味ではありません)
今後、さらに機会の平等が進んで、ますます平和になることを想像できるでしょうか?

機会の平等が進めばそれだけ規制がなくなるわけで、ある意味「自由」が拡大されるのです。
自由が拡大されれば前述のように自己責任が増すわけです。
それに、忘れてはいけないこととして、人間には「強欲・貪欲」があるということです。
ということは、地上的物質的な損得勘定で行動をすることで、ある所に殺到して過度の競争が始まったり、ある所にはなり手がいなくなったりします。
それでも選択できるうちはいいのです。
エスカレートすると、一方的に物質的有利なことの選択を余儀なくされるのです。
精神的霊的に健康だという理由で物質的不利なことを承知で選択したらどうなるでしょうか?
「不利になる」にとどまらず、そこから「生活できなくなる」に変わります。
「誰でも大学進学できる」が「みんなが大学進学しなければならない」に変わり、
「70歳まで働ける」が「死ぬまで働かなければならない」に変わり、
「男女問わず雇用される」が「男女ともに労働しなければならない」に変わります。
これで平和と言えるでしょうか?
もうすでに結果は出ているではありませんか。

ではどうすれば平和が実現するのでしょうか?
ひとえに、「君主」が現れることです。(またか!?)
よく言われるのは、今のコロナ禍などで人々が不安になると、大衆はつい「強いリーダー」を求める傾向があるけれど、それは危険なことだと。
もちろん、今の状態のままなら、強いリーダーが生まれれば、「右か左か」という地上に張り付いた思考のため、軍事的な国家主義を招く可能性が充分あるでしょう。
また、カネ持ちとか地上的な力のある者が主導権を握ると、例外なく今の日本のような奴隷王国になります。
再三言うように、上に立つ人とは(肉体的欲はあっても)強欲のない人、地上的なものを超越した人であって、必ずしも地上的に立派な人ではありません。(喩えれば交差点の真ん中の台の上に立つ交通整理のおじさんでいいのです)
言い換えれば、「神の心を具現することができる人」すなわち「霊的指導者」です。
超古代文明にはそういう指導者がいたそうです。(古代の天皇もそれなのかもしれません)
そういう人が君主として擁立されるように、要人も大衆も意識が変わる(拡大する)ことが大前提です。
私は人々の理性の発動と意識拡大のために、このように懲りもせず省察を促しているわけです。
人権の確保に「規制」が伴うように、平和の実現には何でも機会平等ではなく、ある程度「あらかじめ定められた分業」が伴うことを理解する必要があります。

それと、池田女史はこうも言っていました。(哲学者はみな言います)
「幸福とは当たり前のことができることである」
周囲を見て、今の世の中に当たり前のことが出来ている人がどれだけいるでしょうか?
本来することをして「生きて」いるでしょうか?
みな生存はしていますが、おそらく生きている実感がないと思います。
自分自身の「生活」がやっとだと思います。
それはひとえに、「分業」が出来ていないからです。
劇薬「平等(病同)」の副作用が激しすぎるのです。

してみると、前に取り上げた聖書の中の、
【神は男には労役の苦しみを与え、女には出産の苦しみを与えた】
は、まさに「神の心」の表現ではないでしょうか?
これが人間界の戒律に定められていたとしても、けっして偏った法ではなく(言葉の一面性は拭えませんが)、人間の幸福のために、「当たり前のこと」をするように定められた神の心の反映といえるはずです。
もちろん、原始返りをするというのではありません。
物質的な条件を超越して、本来の姿になるのです。
そうすることで、男は失った肋骨を取り戻すことができるのです。

再三取り上げる幸福の科学は言うまでもなく、たまに郵便ポストに入っている冊子『陽光ライフ』(崇教真光)には、神の時代から現代を経て未来へと、文明の流れがイラストで示されています。
今の争いに満ちた唯物主義から、いずれはまた芸術やその他文化に満ちた愛の時代に戻ることになっています。
ただし、それもパラレルワールドの一つであり、その人が光(本質)を取るか闇(末端)を取るかで入り込む世界が決まります。
スピリチュアリズムに則った健全な宗教団体は、みなその実現を目指して大衆に働きかけているのです。

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