SSブログ

鉛直から水平へ [中庸]

ご無沙汰しています。
更新しなかった理由はひとえに世間を賑わせている旧統一教会の問題を起点になぜかアクセス数が激減したからです。
まるで宗教そのものや宗教を扱う人にとにかく関わりたくないといった感じが伝わってきます。
私は本来の「道」を促し、逆に組織宗教の間違いを根本的に正すべくずっと前から活動しているのであって、繰り返しますが、もしそうなら、町の美化に努めるごみ屋さんを「汚い」とか「汚している」と見るくらいに心外なのです。
まあ私の方の内容も新鮮味がなくなったことは否めませんけど。
と言いながら結局、私は最近の世の中を見ていて同じことを思うだけです。

相変わらず宗教に関して日本では、「宗教団体に入信する」か「無宗教」かの二者択一になっていて、上記のように関わりたくない人たちは「無宗教」が健全だと思っているようですし、入信者の中でも純粋に信じる人は認めるけど純粋でない信者は排除するべきだと、そしてそれを「カネ目的か否か」で分けているようなのです。
まったく思考が地上的ですね。
というわけで、今回も【鉛直から水平へ】です。
それに尽きます。

日本の法律で「信教の自由」を認めていると言いますが、それが「性善説」に基づいているとネットの記事で言っているのを発見しました。
ところが、ネットで調べると、
「性善悦」をビジネス上で使用する場合、「性善説」の意味は本来の意味ではなく、
「間違った解釈」=「人の本性は善だから信じてよい」
という意味で使われることが一般的だといいます。(性悪説の対極として)
でも「それは間違いです」
と専門家は言っています。
そこまでは良いのです。
でもどうして間違いを引き起こすのかについては何も言っていません。
ならば、本来の意味とは何か?
専門家はただ、
「人間の本性は善であり、努力の有無など後天的な要因によって賢人や聖人になったり、悪に走ったりする」
とだけ解説しています。
これでは考える習慣に乏しい一般人は、「本性の善」というものを地上の延長に求めてしまい、
「賢人や聖人になって悪や欲が消えてなくなる」
「地上的道徳的に良い人間になる」
と履き違えてしまいます。【*】
賢人や聖人みたいになるというのは、道徳的に立派な人間になることではないのです。
むしろ有言不実行みたいなところがあります。
賢人や聖人というのは、中庸の実践によって、そういう地上の〈善悪〉を含んでいながら超越するだけなのです。(神のもの)
けっして悪や偽善が消えるわけではなく、一方的で極端なことをしなくなるだけです。
なので、どんな人でも本人の意識の有無にかかわらず、地上の道徳や法に触れることをする可能性があるということです。(カエサルのもの)
ネットの専門家はなぜかそこを指摘しません。〔宗教や哲学と関連付けていないのかもしれません〕
どうもこの「本性」というのが履き違えのもとだと思えます。
「本性は善」の善は地上の〈善〉ではなく、善悪を超越した《善》なのですが、専門家はそこを押さえていないのです。
たしかに本性に仏性が備わっています。
でもそれは地上における〈善〉と〈悪〉を含んでいることを意味します。
ある物体に光が当たって、明暗ができることを想像していただきたいのですが、それはどこかに「光源」があるからだとわかります。
ただし光源自体は地上生活では直接見ることはできません。
孟子の言う善とはこれであり、地上を超越した高い次元の《善》のことです。
神仏の光が人間には備わっているからこそ、地上ではそれが〈善悪〉となって表れるのです。
それを知ることで、明暗という〈影〉を盲目的に追わなくなるわけです。
西洋流に言えば、愛(love)から派生されて、地上では情愛(affection)と非情(heartlessness)に分かれるのです。
これは人間だからであり、他の生き物には悪も偽善も、情愛も非情もありません。
人に施す場合や人から施される場合に、純粋か不純かを気にする必要はないというより無意味です。
本来の《性善説》を持ち出すことは、自分自身の施しの中の不純さに悩む人、他人から受ける施しの中の欺瞞を気にする人を、「純粋なものなどない」と諦めさせることで安心させることです。
不純な動機や欺瞞があることこそ、人に仏性が備わっている証しなのだと思うことが肝心です。
それが人間であり社会なのです。
「全知全能であるはずの神はなぜ人間社会の悪を野放しにするのか?」
と疑問を抱く人がいますが、まったくわかっていないのです。
地上の〈善と悪〉は神の人間による顕れなのです。

【*】勝手な想像ですが、孟子が唱えた《性善説》を一般庶民は理解できず、善を地上の延長に求めてしまったことで、後輩にあたる荀子がそれに歯止めをかける形で性悪説を唱えたのだと思われます。
こういうことは古今東西で起きたようです。
ルターの宗教改革でも本意を庶民が理解できずに地上的な攻防に(つまり鉛直から水平へと)移行してしまったようです。
「人間の罪は神のみが宥すことができる」
教会の地上的権力を「超越」することを唱えたはずが、一般民衆はそれを「否定」することと履き違えた(農民戦争)と思われます。
地上の権力や上下関係は方便(神の反映)としてあることを認めながらも、一面的な服従や対立に終始しない《カエサルの物はカエサルに、神のものは神に》という霊的に高い視点を設けることが所詮は多数派の人間にはできないのでしょう。

聖書に記されているイエスの言葉、
「金持ちが天国に行くのは駱駝が針の穴を通り抜けるより難しい」
(ある貧しい女性がなけなしの金銭を寄付したのに対して)「この女性は天国に行く」
これらは、《カネが有るとか無いかという〈執著〉を捨てること》を意味していますが、これさえも、〈カネそのものを捨てること〉が天国なのだと曲解する人たちが後を絶ちません。(どこかの宗教団体における財産没収に似ていませんか?)
まさに「鉛直から水平へ」の愚行です。

15年前のT校におけるA主任との対話を思い出しました。〔詳しくは当ブログ『いま学校では』にあります〕
池田晶子女史の「人権が天与のものなら、なぜそれをわざわざ人間の法の言葉で表すのか?」
の問い掛けにA主任は、
「現実には人権が充分に与えられていないから、人間の法でそれを補ったんだよ」
と即答しました。
これもまさに「鉛直から水平へ」の愚行です。
賢人や聖人による《崇高な思考や霊的自覚》を促す活動を、世間はどうしてこうも地上的攻防にすり替えるのだろうかと呆れる次第です。

nice!(0)  コメント(0) 

反共 [中庸]

「日本という国に希望が持てなくなった」
と叫ばれるようになって何年も経ちました。
今日、報道番組である知識人が民主主義の劣化を指摘していました。
少子化で若者が少なくなり、選挙に行っても超マイノリティーゆえ影響力がないから行かないという「シルバー民主主義」がその象徴です。
もともとは資本主義において、支配者の暴走を防ぐという意味での民主主義だったと言います。
しかし、所詮民主主義とは〈多数派による暴力〉です。
民主主義は必ず劣化します。
選挙において多数派が《和》を重んじる代表者すなわち君主(霊的指導者)を選ぶのなら良いのですが、実際は自分の損得上都合の良い代表者、《和》を重んじない代表者を選びます。(?和して同ぜずの和です)
霊的に思考する人は常に少数派ですから、原理的に民主主義からは君主は生まれません。
つまり、利己主義に陥った多数派の国民が選んだその代表者が指導者なのです。
今の日本の指導者は、利己主義の国民の象徴なのです。
当然、自己保存のため政治家は票集めに奔走します。(学校の教員も然り)
これが民主主義の末路です。
〔再度言います。20年ほど前に大島監督が『国民がみな守りに入ってしまった。これは危険なことだ』と言いましたが、私はバブル崩壊後にすでにそれを感じました〕
報道番組でも紹介されていたように、世界的に見ても、ここ10年では民主主義国家は何においてもうまくいかず、むしろ専制国家のほうが成長しているようです。

私が絶望するのは、こういう状況下でさえ、ほとんどの人が民主主義を〈善〉として押し進め、ジェンダー平等を〈善〉とする(結果的に同じことをする)のが当然のこととして実現しようとしていることです。
今世間を賑わす報道を見ていると、私は人類全体が地べたに押し潰されるような感覚になります。

そんな中で特に気になったことがあります。
“旧統一教会が「反共産主義」を掲げるがゆえに自民党と親しい”
という報告です。
これって、その時点で本来の宗教からかけ離れているのではないでしょうか?
そもそも政治と宗教は、人間の活動として「一体」ではあっても、「別の次元」なのですから。
共産主義であろうと資本主義であろうと、主義というのは地上のイデオロギーであって、流動性確保や秩序維持の方便です。
神はそれらを超越するだけで、「肯定」したり「否定」したりはしないはずです。

現代の地上社会はあまりにも一方的なことが蔓延しているので、真っ当なことを言っても真っ当なことをしても通じないというのは確かです。
そのため、やはり極端なことや一方的なことをしなければ、影響力を持ち得ません。
結果、地上の攻防に終始して、神の心から離れてしまうのでしょう。

たしかに今の地上の人間は、概して言葉による極端で一方的な思考で動いています。
ジェンダー平等を善、ジェンダー不平等を悪と一方的に謳うのは悪平等です。
そこで旧統一教会はタリバン同様、「ジェンダー平等反対」を掲げます。(本来は男女分離であって、権利は平等、役割は別)
結婚の条件が経済力や社会的立場や容姿に偏るのは、ほとんど霊的に正しい結びつきではありません。
そこで旧統一教会は、霊的に正しい結びつきを教祖が決める「合同結婚式」を遂行します。
(※私はどちらもダメです。前者は条件が揃いません。後者は不可能です)
(☆純粋な意味では賛同するところもあります)
〈一方的なもの〉に対しては、どうしても〈一方的なもの〉で対抗しなければ太刀打ちできないという地上の事情はわかります。
でもその太刀打ちするというのは、どんな事情があるにしても本来の宗教のあり方ではありません。

ところで『共産主義』とはどういうものなのでしょうか?
あいにく歴史的背景や政治的な影響などに関して私は詳しく知りません。
ネットなどで調べても、曖昧なところや国や時代によって異なるところがあって、ひと言では言い切れないようです。
少なくとも経験として私が共産党の人たちと関わって感じることは以下のことです。

・はじめから偉い人がいてはいけない
・偉い人とはみんなが偉いと認めた人だ(ある意味民主主義的)
・ただし、そのよりどころが「地上の道徳」であり、偉い人とは、目に見える形で世の中を改善した人、犯罪者にならない人など、地上道徳的に立派な人である(理性神・偽神ユリゼン信仰)
・地上の延長上に本物の《善》があると思っているため、偽善はいけないと言って地上に本物の《善》を求め続け、結果として周りからは〈偽善者〉だという陰口が多くなる
・ただし、「勤勉と怠惰」のように、地上の〈善〉と〈悪〉はその場のよって逆転することがあることは認めている
・イエスやソクラテスなどの聖人は地上的には受刑者であり、地上的には権力者をやっつけられずに屈しただけであるから、ちっとも偉くないとする
・人間の意識はすべて脳の産物であり、色や形は誰にとっても同じに見えるはずだと、「語り得ぬこと」を語る(唯物論)
・生物の進化によって「人間(知性・社会)」が生まれた
・神や霊といった目に見えないものは根拠がないと言ってひとまず否定する
・宗教は神仏を「恐れ多いもの」として支配者や権力者の統率や戦争に利用されることはあっても、世の中を良い方に変えるような政治的な「力」はまったく持たないとする
・宗教に関しては、まったく認めないわけではないが、良い宗教と悪い宗教があって、その違いが、「カネをとるか取らないか」である
・組織における「上からの圧力」に対しては徹底して抗い、利己的でなく、自身のことでなくても「義」をもって行動する
〔⁑異論はあるかもしれませんがご容赦願います〕

何度も言いますが、社会には「落差」がなければすべてが流れません。
それに、唯物論(実在論)は顛倒妄想であって、人類の進化を阻んでいます。
そういう意味では、各宗教団体は動機としては「純粋なもの」があったと思われます。
まあ、共産主義が宗教を否定するから、宗教団体は反共産主義だというのは当然のことでしょう。
しかし、反共産主義がなぜ自民党に傾くのでしょうか?

友人に尋ねると、自民党はある右翼団体と関係があるのだと。
ネットで調べたら、それらしき事実はあるものの、自民党の「右翼」の意味が「国粋主義」ということではなく、単に「保守政党」だから「右翼的」ということらしいのです。
共産党が左翼的だから反共は右翼的というのは短絡的な気もしますが。
どうやらリベラル(左派)の対は、保守(右派)というよりパターナル(権威主義)らしいのです。
もはや反共というより勝共という感じです。
要するに、権力を得て政治的に「支配」の側に立つという目論見があるのでしょう。
創価学会も幸福の科学もそれで政治参入を図っているようです。

たしかに「神の王国」や「仏国土」の実現のために地上的力にじかに対抗するには、方便としても地上的力が必要です。
そして、地上的力で勝れば神の王国や仏国土が実現するはずだと想像することはできます。
しかし本来の宗教としては、同時にその時点で必ず堕落の道へと進みます。
なぜなら、いたずらに盲信者や悪しき聖職者を増やすことになるからです。
人間には知性があり貪欲があるからです。
そしてその組織のトップや幹部たちは、神の子からベリアルの子へ成り下がります。
最初に純粋な動機があったにせよ、いつの間にか、「ベリアルvs.ユリゼン」(正反対とは限らない)という地上の攻防になってしまいます。
共産側からすれば、
『見えないものを排除する』から「見えるものと闘う」への変換です。
《鉛直》から〈水平〉への移行です。
そもそも権力とか権威というものは、本来の宗教と相容れないものです。
あってはならないというのではなく、執著から離れる、超越するのが宗教です。
人間は社会的な生き物であって、権力とか権威とか差別などの「落差」があって流動性や秩序が保たれるわけですから、神の心の中にあることはあります。
ただそこで分岐点があって、知性が貪欲を生んで、いわゆる「媚び諂い」になると、ベリアルの子への道へ進みます。
地上的勝利を目の前にぶら下げられて魂を売ることはすなわち霊的敗北です。
純粋な宗教者、道の人にとっては、パンを得るために純粋無垢を捨てるくらいなら、飢え死にしたほうがマシなのです。
親鸞聖人のように流刑にされても、あるいは西田先生のように退学させられても、また究極的にイエスやソクラテスのように死刑にされても、信念を貫くのが道であり霊的勝利なのです。

【反共産主義に関するネットでのある方のコメント】
これまでの皆さんのご意見には大きなポイントが抜けています。
共産主義は宗教を否定しています。
(*)「宗教はアヘンだ」とまで言っています。
(⁑)唯物論からは帰結として無神論となります。
ここが宗教との大きな対立点となり、公明党と共産党が激しく対立しているのはこのためですし、キリスト教もイスラム教も神道も共産主義には反対です。
【終】

一方で、本来の宗教を実践するある仏教寺院の住職は言います。

《本当の宗教とは「迷う力」を与えるものです》
《生きる苦しさから逃げる宗教はすべてニセモノです。》

まさにその通りです。
本来の宗教は、「道」を行く切っ掛けと力を与えるものです。
キリスト教的に言えば、単に息子を帰宅させるのではなく、息子に放蕩するだけの力と帰宅する機会を与えるものです。(はじめからおとなしく家に居るような「いい子」にはさせません)

何度も言いますが、今の地上の組織宗教のほとんどが「ニセモノ」です。
思考停止の盲信です。
神という見えないものが、空間を占めるように自分とは別にどこかに居ると「信じる」という神盲信です。
信じれば救われる(=楽になる)、すなわち家畜になるというのが信仰の目的になってしまっているのです。
その前提で言えば、共産主義者の言うように、間違いなく宗教はアヘンです。
ある共産党員が、
「坊主に何ができる」
と、口癖のように言っていましたが、まさに、
「アヘン中毒者に何の力もない」
ということになります。
たしかに今蔓延るエセ宗教なら、共産主義が宗教を否定するのはもっともなことです。

でも実は、共産主義が宗教を否定するのは、それが「ニセモノだから」というわけではないのです。
〔★そもそも本物が何かを知らないので、ニセモノかどうかを見破れません。ひとえに、思考がすべて「地上的」だからです。一般に〈地上の住人〉には自分が地上にへばり付いていることさえわからないのです〕
唯物史観が前提にあるので、目に見えないものはすべて物質から生まれた副次的なもので、あらゆる問題は物質ですべて解決できるという思考なのです。
「神というものは、支配者や権力者が大衆を恐れさせて、従わせるために人間が作ったものだ」
とまで決め込むのです。
やはり、共産主義も神仏や霊的な存在を「信じるか信じないか」の域を超えず、「信じない」というだけなのです。

*もっとも、何を言っても解らない〈地上の住人〉たちは、この『放蕩息子の帰宅』でさえ〈敗者〉だと言うでしょう。
*〈地上の住人〉の支配者は、魂を売らないで権力に媚びない人に対しても、「逃げ口上」だとか「自己弁護」だとか言って、唆して奮い立たせようとします。
*概して、状況にアジャストして自己保身で解決するだけの〈地上の住民〉は、道を説く人の《逃避》を、盲信者の〈苦しさから逃げること〉(アヘン)と一緒くたにして、宗教全体を排除してしまいます。
*良心のある人は、自分や周囲の人々の首を絞めることに助力するだけで、媚びるのが馬鹿馬鹿しいから、(給料をもらえるという)執著から離れるのです。〔天山遯〕
〔⁂保健所の職員は、保証金目当てで『陽性』を装う人たちに健康を気遣うのがバカらしくなって辞める人が続出しているそうです〕

まとめるとこうなります。
今のほとんどの組織宗教と共産主義は、いずれも唯物論(実在論)を前提とする地上的思考法であり、
「信じるか信じないか」
「神盲信か無神論か」
の違いに尽きます。
どちらも、自らの省察による霊的自覚から神仏を「知る」ことはしません。
よって、現在目にするような地上の攻防に終始することになるわけです。
いずれもそこから生まれた統率者は、あくまでも地上的であり、霊的指導者ではあり得ないので、過去の事実を見れば明らかなように、一般の民衆は人間性を阻害されることになります。

みなさんどうでしょう。
地上的観点で、一方を立ててもう一方を排除するということが、いかに地獄的かがわかると思います。
それよりも、良心で生きる私たちは霊的視点に立って、たとえ小規模であっても、《義》をもって責任ある充実した行動をとろうではありませんか。
今回も長くなりました。

nice!(0)  コメント(0) 

地獄から天国へ(改) [中庸]

ポストを見ると、幸福の科学の冊子が入っていました。(No.426 ‘地獄も知らないで・・・’)
しばらく放っておいたのですが、暇になったこともあって捲ってみると、最初の見開きに気になることが書かれていました。

【引用】
世の中には、
勉強をすればするほど、
知恵を失い、バカになる人がいる。
シンプルな真理がわからなくて、
複雑に考えすぎたり、
「エポケー」という判断中止(*)に逃げこんだり、
懐疑論者(*)になることを、
知者になることだと思い込んでいる人がいる。

今の学校教育では、
魂も、天国、地獄も教わらない。
調査報道とかにあこがれるマスコミ人も、
この世のことしか扱わない。
幽霊話はエンタメになり、
幽体離脱は、
脳と神経の作用(?)ということにしてしまう。
いつから人間は、
こんな愚かになってしまったのだろう。

善悪(?)が分かるということは、
天国的か地獄的か(?)がわかるということだ。
地獄も知らないで、
地位や名誉、
財産や異性への欲望を追い求めて、
「知の巨人」もあったものではない。
・・・・・・・・・・・・
【以下略】

どうでしょう?
相変わらずですね。
まあそう言いたくなる気持ちは解ります。
〔そう言っている私も相変わらずですが〕
でも唯物論と自然科学世界観が浸透した現代社会で、シンプルな真理をまともに受け止めることができる人がいるでしょうか?
また、これを読んだ人はこのように言われて考えが変わるでしょうか?
というより、おそらく大半の人は善悪とか天国的とか地獄的とか、用語そのものの意味すら分からないと思うのです。

(*)複雑に考えたり、判断中止したり、懐疑することはむしろ重要です。
というより不可欠です。
そして、
「すべてを疑っても、(自分の世界を経験している)自分が居ることは疑いようがない」〔われ思う故にわれ在り〕
と覚ります。
ヴィットゲンシュタイン流に言えば、
「ともあれ語り得ることは語り得る、語り得ぬことは沈黙しなければならない」
「世界とは自分の世界である」
「自分がどの様であるかではなく、自分が居ることそのものが神秘的なのである」
つまり、《自分≠自分の肉体》であること、自分が霊的存在であることを知ります。(霊的自覚であり、唯物論(実在論)を前提とする証明ではありません)
哲学にしても宗教にしてもスピリチュアリズムにおいても、すべてはここから始まるのです。
もしそれを抜きにして受け止めればすなわち思考停止し盲信に繋がります。
その後の付随する弊害は見てのとおりです。

(?)あるいは、唯物論(実在論)と自然科学的世界観から抜けられずに、霊や神仏は脳の産物であり「肉体が死んだら終わり」になってしまいます。
その弊害は義のない利己主義者の無責任な行動を見ればわかります。

もちろん、大川氏の言うこともわからないではありません。
判断中止や懐疑論で止まってしまうと、斬新なことを受け入れるのに積極的でなくなり進歩がなくなります。
よくプロの学者が、《気》や《異なる波動の物質》あるいは《異星人》の存在を鼻で笑ってハナから否定することがあります。(そうすればいろいろな意味で安泰ですから)
もっとも、それは学問的に、さらに科学的に正しい姿勢ではありません。

何はともあれ、理性による《霊的自覚》が大前提です。

(?)ここで言う《善悪》とは、地上の〈善悪〉(小善小悪)とは別の次元・階層であって、霊的な《善悪》(天国か地獄か)です。
地上の〈善悪〉に執著すること(浪費吝嗇、自由束縛、平等差別、などを対立させて、一方を肯定、もう一方を否定と白か黒かに終始する)が地獄的なのです。
すなわち悪平等の《悪》です。
それら直線全体を超越すること、上からの光があって地上でその陰影を見ているだけだと知ることが、天国的なのです。
すなわち善知識や性善説の《善》です。
カエサルのものと神のものを区別する必要があるということです。

しかしながらいつも言うように、それを体感する具体的な方法が示されていません。
本来は、即非や絶対矛盾自己同一などの地道な哲学的省察から始まり、人によっては学業や芸術などの必要無駄が助けになります。
あとは本人の実践あるのみです。
残念ながら、大川氏が再三言う「教え」とか「 奇蹟」によっては定着しません。
足が地に着いていないので、それだけではいずれ消えてしまいます。〔ダンテの『神曲』の冒頭を参照されたし〕

つい先ほど、あるネットの書き込みを見て気になったことがあります。
それはやはり宗教における「救われる」ということが、「癒されること」と当たり前のように同義になっているということです。
それはギャンブルや麻薬と一緒で、宗教団体がカルトであろうとなかろうと、本人の問題であって、他人がとやかく言うことではないと言うのです。
もちろん私も、組織がどうであろうと本人次第だと思います。

ただ、「救い=癒し(麻薬)」が世間一般で通っていることには危機感を覚えます。
繰り返しますが、「救い」とは「道を行かせること」、またその切っ掛けを与えることです。
けっして楽にさせることではなく、むしろ迷わせることです。
それが地獄から天国へ移行させることです。

ついでに言いますと、天国や極楽浄土は「終着点」ではありません。
迷いながら行く「道」の出発点です。
解脱への第一関門に当たる「預流果」にやっと達したという段階です。

nice!(0)  コメント(0) 

心のよりどころ [中庸]

ここに来てくださるみなさんはもう私が何を言うかわかると思います。
今回の事件で、今の地上宗教がいかに本質から離れているかが窺えると思います。
もっと言えば、推進する側も非難する側も、紋切り型の盲信者もすべてを否定する無神論者及び唯物論者も、いかにピントがずれているかがわかります。
インペレーターやシルバーバーチの嘆きが聞こえます。

さっそくある報道番組で、かの宗教団体の献金の問題を取り上げていました。
そして最後に、お決まりの念押しのひと言がありました。
「断っておきますが、宗教は『心のよりどころ』となるものであって、宗教そのものが悪いわけではありません。ただそれを悪用することがいけないのです」
でもどうでしょう?
一見すると公正で健全な見解のようですが。

ここが核心部分です。
まさにこの《よりどころ》というのが曲者で、私に言わせれば、
「悪用してください」
と言っているようなものなのです。
なぜなら「思考停止」を意味するからです。
よくネットの書き込みで、
「宗教施設に行って話を聞くと、楽になるのはなぜでしょうか?」
というのがありますが、私は返信します。
「思考を委ねて〈思考停止〉するから楽になるのです」
そう言うと、
「楽になるからそれではそれで良いではないか?」
と言う方もいらっしゃるかもしれません。

たしかに地上的には「思考停止」は必要だとも言えます。
地上生活では楽になることは重要です。
社会においては、偏ったものとして刷り込まれた思想があってこそ速やかな行動ができます。
躾とか常識などもそのためにあります。
もちろん、あとで言うように「仮のもの」だという省察は必要ではありますが、ある程度思い込みがあってよいのです。
振り返れば、私たちは社会契約をして身柄を世法や国の権力に委ねているからこそ、信用して人と接し安心して街を歩けるのですから。
むしろ損得や自己保存など地上的計らいに関しては「すべて自己責任」では身が持たず、適当に思考停止したほうが、ストレスを回避し余裕を持って文化的な行動ができます。

しかし、霊的には「思考停止」はいけません。
地上での修行にならないからです。
霊的に進歩しないからです。
教会や寺の人がこう言ったからとか、聖書や仏典にこう書いてあるからと、権威に依存して本質を捉えることなく、儀式やノルマに終始する「外で熱心な信者〔良きクリスチャンにして悪しき聖職者〕」になり、あとはただ神仏に委ねて祈るだけというのは道を外れています。
(金銭問題の有無にかかわらず)魂の奴隷または家畜になってしまいます。

先ほど言った地上的な思想が「仮のもの」であること、白黒や損得という感覚的なものを追求することで幸福が訪れるというのが「幻」だということを、「自らの省察」によって体得し、それらを超越して霊的視点を設けること、中庸を得ることが地上経験における課題です。
肝心なこととして、神仏を内在するものであり包括するもの(内包かつ外延)と覚ることであり、けっして外界のものとして自分と切り離さないことです。(神仏は信じるのではなく知るのです)
そして、その切っ掛けを与えることが聖人であり、聖人の言葉を受け継ぐ宗教団体の役目です。
宗教は「切っ掛け(啓発・産婆術)」だけでいいのです。
〔既述のように、イエスや孔子はそれであり、聖書や論語にも表れています。鵜呑みにしないということ。わかる人だけにわかるように隠れています〕
それ以上のことは余計であり、むしろ思考を奪って盲信を促し無理解を生むだけです。

日本では、宗教と聞くとどうしても「カルト教団[→]洗脳[→]テロ」だとして、なくていいとかないほうがいいと言う人が多いでしょうけど、宗教とは本来は「心の問題」あるいは「心の教育」であり、他の国では当たり前のように必要なこととされています。
では日本は何がいけないのでしょうか?
悪い人が悪用するからではありません。
冒頭で示したように、「心の《よりどころ》」とすることです。
平たく言えば、「考えないことがいいことだ」という教えが各宗教団体で蔓延っているということです。(人智は神に及ばないから捨てるものだと)
「考える切っ掛けを授けられて、自分で道を得る」
という心構えがほとんど見られません。(これなら本当にないほうがいいと思いますが)
これは私自身がいろいろな宗教団体の人たちと接して率直に感じたことです。

そして、繰り返すように、冒頭のTVの出演者たちが当たり前のように宗教に対して、
「心の《よりどころ》であり〈楽になる〉から」
で止まっていること、そして本来の宗教の意味を言わない(言えない?)のを見ると、悲観せざるを得ません。
そんな中でも私は地道に活動を続けます。

nice!(0)  コメント(0) 

矛盾の上に [中庸]

先月の22日(日)に高校の同級生Nが亡くなりました。
時の経過を感じざるを得ません。
私を含めた5人の仲間は、高1の時に同じクラス(1人は高2の時)だった者同士で、卒業後、それぞれ別の大学に行ってもよく一緒に遊びに行き、就職してからも毎年旅行に行きました。
彼とは3年前のゴールデンウイークに4人(あと1人は引きこもり)であった時が最後で、その半年後に難病に罹り、肺移植などをして(あとで知った)治療を受けていたのですが、幸い飲酒以外は普通の生活ができて会社にも行っていたので、それほど心配はしていませんでした。
ところが、今年4月に仲間の1人から電話があり、Nは昨年の秋から入院していて会社に行っていないことを知らされました。
というより、Nの奥さんの話ではもう意識がないとのことでした。
ひと月後に連絡があり、「話せないけど意識が回復した」と聞いた直後にまた連絡があり、容態が急変して亡くなったことを知らされました。
あいにくのコロナ過で、病院は受け付けないので見舞いにも行けず、葬儀は昼間だけなので連絡してくれた一人以外は私ともう1人は行けず、結局何もできませんでした。
私としては気が済まないので、彼の家に佐賀県産の完熟マンゴーを送りました。
当然奥さんから電話があり、出られなかったので、翌日授業の合間に折り返し奥さんに連絡し、携帯電話で30分ほど(えっ?)話してしまいました。
(私にはこんなことしかできなくて申し訳ありません。彼はやり尽くした、熟したんだということを込めて『完熟』にしたんです…等々)

上述したように彼とは高1の時に同じクラスにいたのですが、その4月の初めに1人ずつ自己紹介したとき、彼の話し方が明らかに異様で、鼻にかかった声でひと塊を早口でクシャクシャッと、間が空いてまたひと塊を早口で一気にという具合で、誰にとっても聞き取りにくかったわけです。
ということで、間もなく周りからからかわれるようになりました。
ある日、周りのみんながからかうばかりで、誰もまともに話をしようとしないので、彼は両手で顔を隠すように机に伏せて塞ぎ込んでしまいました。
見かねた私は、彼の前の不在の席の椅子に逆向きに座って話しかけました。
はじめ彼はまたからかいに来たのかと思い込んでいる様子でしたが、すぐにそうではないと覚って、私と真面目な話をしました。
早速その日、方向が同じということもあって一緒に帰り、東西線の中で、彼が幼少の時から『ドモリ』だったことを打ち明けられました。
「これでも小さい頃から比べるとマシになったんだよ」
と言った通り、その後は歳を重ねるごとに気にならなくなりました。
その後のことは上述の通りです。

就職してからのことですが、会うたびに彼は時折哲学的な言葉を発するのを耳にしました。
「なぜ在るのか」
「観測者による」
まあ、宇宙論や量子力学などその時々の話題に興味があったのでしょう。
そして、これが今回のテーマなのですが、20年近く前に沖縄に行った時、レンタカーの中で私と話していて、
「社会は矛盾の上に成り立っている」
ということで合意した後、私が、
「中には矛盾を認めない奴がいるからねえ」
と言うと、彼はすかさず、
「矛盾を認めない奴はもはや社会で通用しないよ」
と返しました。【※】
学生時代は政治や経済に関心があり、「自分で世界を動かしてみたい」と言っていましたし、歴史、特に日本史の戦国時代に精通していて、「戦争のない時代はつまらない」とさえ言っていたくらいで、私からすれば彼は完全に地上的な人間に見えました。
ところが、30代になってから変化が感じられて、『ガンダム』を「他のアニメとは違う」と支持するなど、「力には力」以外のことに関心が移っていったようでした。
要するに、昨今の日本に蔓延っている「野暮」あるいは「勧善懲悪」といった地上的な白か黒の価値判断に疑問を抱いていたのです。

戦争をなくそうと言って反戦運動をいくらしても、それは疑似平和であり真の平和(平穏)は得られません。
差別はいけないと言って一方的に「平等」を謳えば、それは悪平等であり、社会に力が出ず、「和」は生まれません。(賢人は和して同ぜず、愚人は同じて和せず)
束縛はイヤだと言って自由を追求すれば、すべてが自己責任となり、人を殺すのも自由となり、「社会=人間」そのものが解体します。
専制と民主も然り。
日本では怠惰はよくないと言って勤勉を善としますが、ヨーロッパではむしろある意味で怠惰を善とします。

地上的な善悪はその土地や時代で変わることもあり、秩序を保つための方便として決めておくだけであって、地上的な「善」を追求することで平和や幸福はけっして訪れないのです。

ここ3年間会っていなかったので確証はありませんが、彼には「SDGs」も滑稽に思えたことでしょう。
人間は「矛盾の上」に生きているのであって、矛盾がなければ社会で生きていません。
それを認めることが中庸の前提であり霊的に生きる道の第一歩なのです。
彼はそれに向かったというだけで充分に人生の収穫があったと言えます。

【※】3年ほど前、埼玉県のある私立中学で講師をやっていた時、いやに気になったことがあります。
中2の授業で、どうやら生徒たちが、とにかく「矛盾」というものがあってはならないみたいなことを植え付けられていたようなのです。(悪いという価値が付随しているせいか)
私はすかさず、
「矛盾があるから社会人なんだよ」
「矛盾がなかったら社会人じゃないよ」
「そんなこと社会科の時間に教わらなかったのか?」
と声を荒げて言いました。
時間と教科の都合で詳しくは説明しませんでしたけど、これはかなり重症だと思います。
言ってもわからないのか、言う人がいないのか。
これに関しては、18年前の拙著『本物の思考力』に載せてあるので紹介します。
社会人の義務といえば、教育と労働と納税です。
いずれも本心とは裏腹のことです。
なので、好きでやっている仕事とか研究は除きます。
中学生にとってはこのうち主に「教育」ですが、ほとんどは必要性で仕方なくやっていると言えます。
mujun.jpg
社会人である限り、《思っていること》と〈やっていること〉は矛盾しているはずです。
そのうち、[言っていること]が〈やっていること〉が一致している(自分を偽っている)社会人がオトナであり、矛盾している(不平不満を言う)社会人がコドモです。
オトナは嘘つきでコドモは正直だと言われるのはこれです。
いずれにしても、3つのどれかが矛盾しているのが社会人です。
ところが中には、どれも矛盾していてはいけないというとんでもない人がいます。
処世術として「オトナになれ」と諭すのならまだいいでしょう。
でも、《思っていること》も矛盾を認めないというのは完全な間違いです。
そういう人が実際に学校組織などにいて社会人のつもりでいるのですから恐ろしいのです。〔特に理系の人に多くいます。[→]ユリゼンの徒(しもべ)〕
本当に今の日本はおかしくなったと思います。

nice!(0)  コメント(0) 

教員不足 [中庸]

今回も言葉の欺きです。
みなさんは新聞やネットの見出しに「教員不足」を見ることがあると思います。
でも現場にいる私からすると、そのような感覚は微塵もありません。
たしかに、専任の先生たちは、私の若いころとは比べものにならないほど、量的にも質的にも負担が多く、本当はもっと人手が要るように思われます。
それでも相変わらず講師室には30代前後の若い人が何人も5年ぐらい非常勤のままでいますし、少子化が止まらず1人当たりの持ち時間も年々減っています。

「これはいったいどういうことなのか?」
「マスメディアの教員不足とは公立だけのことを言っているのか?」

そのへんのことを、詳しい人に聞いてみようと、いま同じ講師室にいる2歳上の国語の先生に尋ねました。
すると、
「これはむしろ私立の方が深刻だと思いますよ」
「要するに国からの助成金が下りないからです」
「なので、不足しているんですけど、『採用』がないんですよ」
とあっさり返ってきました。
私は腑に落ちたのと同時に落胆しました。
「なんだ、結局我々教員が不遇な思いをしているのは、国が教育機関にカネをかけていないからなのか」(小泉政権の時にそれまでの3分の2になったようです)

大学はもっと酷くて、今始まったことではなく、あの隣の席にいた「物理学博士」がずっと講師でいる(手当てが交通費程度で生活できない)ことが象徴しているわけで、日本が昔から文化国でないということに尽きます。

みなさん、どうぞ誤解しないでください。
近頃は世間で、いろいろな意味で「学校はブラックだ」と言われて、教員志願者が減っているために、なり手がいないと思っている方がいらっしゃるでしょうけど、それは間違いです。
教員のなり手はたくさんいます。
ただ、学校側が教員を雇うカネがないだけです。
外部の人たちの中には、
「採用基準が下がると、質の悪い教師が増えるのではないか」
と懸念する人が結構いますが、心配には及びません。
基準は下がりません。
それに質がいいとか悪いとか、どういう意味で言っているのかはっきりしませんし、だいいち、採用がきついか緩いかに関係ありません。(もしあるとすれば、父兄や世間一般の学校評価という観点で都合がいいか悪いかでしょう)

ともあれ、教員不足は資金不足が大きな理由なのですから、新規採用がないだけであって、その分、内部では専任教師がたいへんな思いをしているわけです。
マスコミは目に見える状況だけを取り上げて、「ブラックだ」と報道しているのです。

まあこの資金不足は、他の業種でも同じことで、非正規雇用者が4割(?)を占めているのも同じ理由かと思います。
以前にも言いましたが、ひとえに働く人口が多すぎるのです。
それをマスコミは「人手不足」にすり替えるのです。
現に今年から、年金受給者の働いた分を足した収入の限度額が28万円から47万円に引き上げられると、上述の先生から聞きました。
個人の事情からすれば助かる人も多いかもしれませんが、全体的に見れば、税収も確保できて支配者層や政治家が潤う一方、庶民の所得の価値が下がるばかりです。
どうやら恐れていたワークシェアリングが実行されそうです。
かく言う私も、最低限の物質生活確保のため、「有り難いことに死ぬまで働くことができる」かもしれません。

nice!(0)  コメント(0) 

反戦と平和 [中庸]

ある僧侶が言っていました。
「『戦争と平和』と言うけれど、《反戦(運動)》というのは戦争と同じであって、平和ではありません」
「平和というのは、心の平穏なのです」

反戦は地上の攻防あるいは解決であり、そこには「緊張」が持続しています。
均衡を保つだけで精一杯であって、「平穏」を実現するだけの思考の余裕がありません。
いわゆる「霊的な思考停止」になってしまいます。
反戦がまったく意味がないとは言いません。
核には核、銃には銃もそうですが、地上の善悪や損得に対する仮初めの「地上的思考停止」を作ることによって、仮初めの「安堵・余裕」を得るかもしれません。
でも「反戦がそのまま平和をもたらす」と思うのは間違いです。
やはり地上を超越する霊的視点を設けること、すなわち「中庸」が前提として必要なのです。

これは平和に限らず、自由や幸福も同じことです。
利便性や経済力などを、地上的感覚的なもの以上ではないことと覚ることが肝心なのです。

かつて大阪万博の時、反パク者の岡本太郎は、
「機械の進歩は人間の進歩ではない(退化だ)、機械の奴隷になるだけだ」
と言いました。
パソコンやスマホが普及した今、文化的活動や利他的活動をするほど仕事が楽になったでしょうか?(支配者たちが仕事を増やしていませんか?)
また、逆にそれらの機械に縛られてはいないでしょうか?(まさに今私は悪戦苦闘しています)

万博と同時期に、経済一辺倒となった日本を憂いて、三島由紀夫が演説や対話を重ねた末に割腹自殺しましたが、当時の中曽根長官は、
「(その一連の行動に対して)『三島、よくやった』っていうヤツいないだろ?」
と言って、戦後日本がやってきたことを正当化していました。(ほとんど多数派による同調圧力が理由でしょうけれど)
もし中曽根氏の言う通りならば、それだけ日本の病は重症だということです。
それで今どうでしょう?
経済の進歩によって、日本人はカネの奴隷になっていないでしょうか?

これらはもちろん本人次第ではありますが、為政者にも原因があります。
「地上的思考停止」が出来て国民はむしろ楽だということで、今地上の半数以上の国が「専制政治」ですが、ご存知のように為政者が霊的な人間でないとかえって悲劇になります。
では日本人の多数派に支持される「民主政治」はいかがなものでしょうか?
思考が反戦一色ではないでしょうか?

今世界中の為政者たちが試みている計らいはどうでしょう?【※】
地上的な計らいだけになっていないでしょうか?

人類の平和の実現には是が非でも《霊的指導者=君主》が必要です。


【※】SDGsやCOPなど国連が掲げているものは、みな地上の解決です。
たしかに、核廃棄物や分解しないプラスチックゴミなど、負の遺産の処理は必要ですが、解決だけでよいのでしょうか?
また、その根底には「人類存続」という一面的な動機があります。
良く見積もっても、人類の義で止まっています。(一つのエゴ)
喩えれば、解熱剤、鎮痛剤、興奮剤という西洋の薬を同時に飲んで、健康な身体を作ろうとするようなものです。
私も普段やっている対症療法は不可欠であり、ストレスを回避し、結果的に延命にはなり得ますが、健康になるかどうかは別です。
度が過ぎると、管で繋がれて苦しいままベッドに横たわる病人になります。
押したり引いたりと圧力をかけ合って均衡を保つことだけで平和な社会が実現するのでしょうか?
いえ、そこには緊張しか残りません。
必要なのは「中庸」なのです。
外側からの圧力ではなく、意識を上に持っていくことで内側からの推進力を減退させることです。
これは決して一面的な肉体の延命ではなく、霊的に健全な生命を実現することであり、人類の義にとどまらず神の義です。

nice!(0)  コメント(0) 

信仰=洗脳? [中庸]

幸福の国ブータン王国の子供たちに、日本における「いじめ」の事実を伝えると、
「そんなことをすれば、自分が幸せになれない」
と、驚いたように言うのです。
もしかすると、日本人の多数派は、
「それは生まれた時から仏教が心身に刻み込まれているからだ」
という為政者による「刷り込み」または信仰の[強要」を理由にするかもしれません。
とりわけ実在論者の中の唯物論者に言わせると、宗教においては、
「信仰=洗脳」
と決めて、あたかも、自分たち宗教に無縁の人間こそがまっさらで「健全」であるかのように思い込むわけです。

そこで私は、数か月前、ネットにおけるその手の実在論者の「信仰=洗脳?」という問題提示に対して、遠回しに応えたのです。
《現代人のほとんどは、生まれた時から『幸福=社会的成功』と刷り込まれています。もしそれに疑問を抱かないならば、すなわちベリアル教というカルト教に洗脳されているということです。
そういう人が宗教団体に入れば、間違いなく『信仰=洗脳』となります。
でも、もしそういった地上的な執著を哲学的省察によって超越(止揚)することが出来れば、それがそのまま真の信仰に繋がります。
そういう人が宗教団体に入っても、洗脳されることはありません。
というより、宗教そのものは不要になるでしょう。》

日本のみなさんに問いますが、「自分は健全な思考をしているから危険はない」と思っているでしょうか?
もしや、「いじめ」に対して、
「少なくともいじめる側は、征服感と優越感に満たされて幸福を『感じる』」
などと言うのでしょうか?
いくらブータン王国でも、悪やエゴがないわけではないでしょう。
ただそれをどこかの先進国のように地上の押し合い引き合いで解決することで幸福を得られると思っていないはずであって、中庸によって推進力を上に引き上げて幸福を得ているのです。

nice!(0)  コメント(0) 

唯物論者の闇(改) [中庸]

「自我(霊も神も)は脳の産物だ」とする唯物論者が後を絶たないので、堪りかねて前回、ここでもネットでも実在論の誤謬を徹底的に指摘しましたが、それでもなお食い下がる唯物論者がいるのです。
「脳の状態はその人の行動や性格に関係する」
というように。
まるで、脳が先に出来てその人が作られるという「因果関係」であるかのようです。
まったく絶対空間なる「顛倒妄想」から抜けられていません。
脳と行動は対応関係であり、脳で行動を説明はできます。
しかし、脳が自我(霊)を生むわけではありません。

自分が自分だという顕在意識は、記憶で成り立っています。
どこで生まれ育って、どういう経験をして、それによって他の人ではない自分は作られます。
境遇はたしかに、肉体の場所や時代に大いに関係します。
なので、かりにもし、自分が翌日突然他の誰かになったとしても、自分は以前からずっとその人だと思っていることでしょう。
ではなぜ今の自分はこの自分なのでしょうか?
それとも、自分の肉体や脳を構成する炭素原子や酸素原子に自分の名前でも付いているのでしょうか?

脳と人のあり方は、音楽に喩えれば、楽譜と楽曲の関係です。
楽譜があっても、それだけでは曲は流れません。
演奏者がいて、演奏して初めて曲が成立するのです。
たしかに楽譜でその曲を説明はできます。
しかし、楽譜が音楽を生むわけではけっしてありません。(逆も然り)
また、楽譜が演奏者を生むわけではありません。(お互いに選ぶことはあっても)
楽譜と楽曲はあくまで対応関係であって、因果関係ではありません。
そして、演奏者はそれらに関係なく、はじめから独立して存在するのです。
楽譜を脳に、楽曲を人の活動に、演奏者を自我(霊)に置き換えるとわかると思います。

以前から自然科学では、
「宇宙が開闢してから今に至るまで」
をともあれ説明できるけれど、
「宇宙がどうして在るのか」
は説明できないと言われています。
ヴィットゲンシュタイン流に言えば、
「宇宙がどのようであるか(在り方)が神秘的なのではない。宇宙が在ること自体が神秘的なのだ」
そこでさらに、「世界とは自分の世界である」を組み合わせると、
「自分がどのようであるか(在り方)が神秘的なのではない。自分がいること自体が神秘的なのだ」
となります。

nice!(0)  コメント(0) 

思考停止 [中庸]

日本の在り方に関して、ある識者が、
「核の傘下に入って思考停止するよりは云々」
と言っていました。
同じく、宗教において、大きな組織に属して思考停止することは、「楽」になって救われたような気になりますが、それは地上において「肉体」が救われるだけであって、霊的に救われるわけではありません。
肉的にも霊的にも、『エジプト』から脱出しなければ明日はありません。

【ネットのニュース1⃣】
『アメリカ・ニューヨークの国連本部に大きな足音が近づき、現れたのは、絶滅したはずの恐竜。
これは、国連(COP)が制作した動画。
恐竜は、真っすぐに1人の男性の前へ進み、食べてしまうのかと思いきや、「大丈夫か? ちょっと待った方がいい?」と尋ね、男性が首を横に振ると、恐竜は壇上へ。
何を訴えるのか。
恐竜「皆さん、よく聞いて。人類は自ら絶滅する気なのか。皆さんは気候災害の責任者なのに、化石燃料に毎年巨額の補助金を出している」
気候変動対策をもっと真剣に行うべきだと力説。
「絶滅に向かうなんて、ばかげている」と訴えた。
最後に「今やるか、やらないか」というメッセージ。』【終】

国連が誰に対して言っているのかは定かではありませんが、「本当に考えているのか?」を問い質しています。
(もっとも、「人類存続」だけを問題にして「解決」を図るなら、それもエゴイズムではないでしょうか?)
(そうではなく、万物の霊長として、地球全体を管理し、「健全な状態」に持っていく、すなわち「中庸」を図るというのならわかります)

しかし一方で、国連自体が「本当に考えているのか?」と思わせるものがあるわけです。
再三取り上げるSDGsです。
SDGsは「持続可能な開発目標」と謳っています。
それではみなさん、これらの目標は「達成可能」でしょうか?
私は、達成しないから「持続可能」と言っているような気がしてならないのです。
以前にも言ったように、「ジェンダーフリー」と「貧困をなくすこと」はどう考えても両立しません。

【ネットのニュース2⃣】
《人口減解消に男性所得増を 全国市長会長の相馬市長》
『全国市長会長の立谷秀清・福島県相馬市長(70)が、来賓として出席した連合福島の定期大会で「女性には悪いが、男性の所得を上げないと人口(減少)問題は解消しない」と述べたことが29日、分かった。男女間の賃金格差を容認したとも取れる発言で、批判が出そうだ。
 定期大会は28日に福島市で開催。来賓あいさつをした立谷氏は「男性の婚姻率と年収が比例している。女性が結婚しようとしない。男性の年収が最大の問題だ」と持論を述べた。』【終】

「あれっ? これって少子化や人口減少の問題じゃないの?」
と思われるかもしれません。
そうですが、ともかくこの市長の言っていることは『揺るぎない事実』です。
そのためか、SDGsには「少子化や人口減少問題」の項目がありません。(もちろん「結婚して家庭を築く」という目標はありません)
「ジェンダーフリー」と両立しないことが分かりきっているからでしょう。(そこがSDGsの欺瞞です)
でも、それがどうして貧困につながるのでしょうか?
まず、働く人口が2倍になれば、1人当たりの収入の価値が半減します。
その時点で、みな貧困です。
そうは言っても、所詮、男は「寄生虫」ですから、共稼ぎを条件としてでも結婚して女を得ようとします。
ところが、女は「一人前」なので、生活に困らなければ男を必要としません。
男からすれば、結婚できないということは、飲食が出来ないに等しく、「金銭的な理由で生理的に欲することが出来ない」わけですから、まさしく「貧困」なのです。

今世紀中には日本の人口が半減すると言われています。
投資家からすれば、人口が減るような国に投資しません。
それがわかっているので現に投資は外国のようです。
よってその点からしても日本の経済発展の見込みはありません。
繰り返しますが、要人たちは本当に考えているのでしょうか?

実は先日、例の教会に通う友人たちと会食をしたときに、私はこのことを言ったのですが、友人は構えていたかのように言いました。
「正論は通らないんだよ」
「聖書にそう書いてあるんだから」(また受け売りか?)
そして、聖書に書いてあるように、「蛇のようにずる賢く(誤訳)生きよ」を実践するのです。
これが「考えることが苦手だから信じるしかない」と言う盲信者の典型的な末路(思考停止)です。
私もすかさず答えました。
「まあ、いつの世もそうだよ」
「じゃあ、社会のこととか人生のことを考えたり議論するなんて、無駄だからやめたほうがいいと言うの?」
「なら、なんで選挙に行くの?」

正論が通らないから正論を言うのをやめるとするなら、間違ったことを推し進めることになります。
既述のように、私の考えているようなことを考えているとか関心がある人は、1割程度の少数派であって、世間では通らないことは分かりきっているのです。
〔ネットでコメントすると、賛同20%〜30%・反対70%~80%〕
しかしそうであっても、聖人や賢人たちをはじめ、「義に生きる人たち」はそれを承知で活動を続けメッセージを届けます。
なぜかと言えば、大衆に理解を求めるのではなく、要人たちや知識人たちなど一部の人たちの「思考停止」を阻むためです。
一部の人でいいのです。

実際その友人は、日本の人口減の話をしたときに、
「河合教授が言う《緩やかな縮小》をせずに、国の経済力維持のために女性や我々の世代が老人になって駆り出されるようなことが定着すれば、その下の世代はもっと結婚しなくなって急激に人口が減ることになる」
に対して、
「オレは仕事があれば歳とっても働く」
「下の世代のことなんか知ったことじゃない」
と、本音を漏らしました。
(『蛇のようにずる賢く生きよ』という聖書の誤訳が彼の思考停止を後押ししてくれているのです)
(「未来の日本に生まれて来ないとも限らないのに」と、エゴイズムをくすぐってもいいのですが)
私はただ、
「うん、だからそうなっちゃうでしょ?」
とだけ言いました。
以前にも言いましたが、私も「人が減ること自体」はさほど気にしません。
それはあくまで結果であって、すでに現在の時点で、エゴイズムすなわち「義」がないこと、とりもなおさず、神の心に反している(霊的病)と言いたいのです。

要するに、彼にとって幸福とは自分の「好都合」であり、社会や人間の「義」は幸福ではないのです。
(みなさんは、選挙において、自分の都合(損得)だけで決めていないでしょうか?)

彼は既述の通り、「人智は取るに足らないもの」と教会から刷り込まれた人で、知性を排除しようとして、一緒に「理性」まで捨ててしまっているのです。
そのため、哲学を白か黒かの「思想」だと誤解して排し、世の中のことは神に丸投げで、自分は祈るだけです。
これはまさに「思考停止」のメカニズムであり、悪魔の誘惑、教会組織の欺瞞です。
さらにもし、その「思考停止」を伝道・布教することが「義」であるとして活動するならば、それこそ私がここで再三取り上げている宗教団体に蔓延るあらゆる「盲信」であって、一生をかけても撲滅するべきものです。

自分のエゴが消えないことを自らの理性によって知ることが道であり、それが神仏に帰依する(弥陀の大船に乗る)ことに繋がるわけであって、その境地に至るまでの『理性による活動(省察)』を伝道するのが、本当の在り方です。
「理性による活動を止めさせること」すなわち「思考停止」を伝道することは、霊的に間違いなのです。

ネットの『哲学カフェ』で、ある人が投稿したものがあります。
ソクラテスが処刑された理由は、
① 神を信じなかった
② 青少年を戸惑わせた
と言われていると。
もちろん今となっては真相は明らかではありませんが、私に言わせれば、「神を信じなかった」というのは、世に蔓延る「神盲信」の原因である「思考停止」を止めさせるべく若者に問いかけて省察を促したということです。
思考すれば、当然戸惑います。
口幅ったい言い方ですが、私もそういう意味で同じ志を持つ人間であり、小規模ながら何度か処分された身なのでわかります。

「思考停止」を撲滅することが霊的に生きる人間の活動と言えます。

nice!(0)  コメント(0)